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分析は楽しい、まして生きている作家の分析は。

このnoteを、どんな方が読んでくれてるんだろうか、といつも想像しながら書いている。

前回、光GENJIの「THE WINDY」歌詞分析記事を書いたところ、ツイッター上で100人の方からいいねを頂いた。
noteでもスキ、と言ってくれる方が幾人かいらっしゃって。
とっても嬉しい。
普段ふつうに過ごしてて、100人の人から「いいじゃーん」とハイタッチされるなんて、とてもないことだ。

反響を気にするなんて…うん、我ながら浅ましい。
だが正直、誰にも頼まれず、また誰がこれを喜ぶのかもわからず、逆に誰かを嫌な気にさせるのだろうか、とも思いつつ歌詞分析というマニアックな記事を書いている時間は、準備の時間も含めてとても寂しく手応えもなく、カッコよく言ってしまうならば孤独だ。

だから頂いた100いいねが多いとも少ないとも、これは量の問題ではまったくなくて、1いいねの頃からずっと思っていたことだが。
素直に、読んでくれる人がいて、とても嬉しい。
ちょっとしたアクションで気持ちを伝えてくれることが、とても嬉しいです。


なんとなく100人を区切りと捉えた私の胸の内を、今日は書きたいと思う。

なんで私は、ASKAの歌詞を分析してしまうんだろう。

本当は、現役バリバリに活動していて新曲も出し、あちこち動き回り、たまにブログで変なこと(お茶目なこと、と言っておこうか)まで書いてしまう作家の分析をするのはとても難しい。

小説とか映画とか音楽とか、創作物の分析対象に最も適しているのは「もうこの世にいない人」だ。
そう確信したのは、noteサーフィン中にたまたま目にしたこの記事を読んだ時だ。

全文とても面白いからぜひ読んで頂きたいが、中から「なるほど」と思った部分を引用してみよう。

ひとりの作家のファンになるということは作品単体の面白さだけでなく、書かれた時期やすべての作品に共通する思想や哲学、その作者ならではの呼吸、といった連続性すべてを愛するということだと思います。
(中略)
はじめと終わりが決まっていて、まるで答え合わせをするように年表を見つめながら思想の変化や表現の変遷をたどっていく。
これからいかようにも変化する可能性のある存命作家にはない楽しみではないでしょうか。
読み手を動く点Pだとするならば、すでに他界した作家の作品は表の軸であり、常に同じところに鎮座している羅針盤のような存在なのだと思います。
存命作家の場合は相手も動く別の点であり、近づきすぎたり遠のいたり、距離感の取り方が難しい。
そしてもうひとつ「死によって完成される美」について思うのは、作家本人の意思を無視して自由な解釈が可能になるということです。


要は、分析対象が変化してしまっては、純粋に作品や作家性を分析するのが難しいということなのだ。
そりゃそうだ。
この作品はおそらく彼のこんな心情を表して…なんて書いた直後に本人から「あれは全部ウソでーす」と言われてしまったら、こちらの立つ瀬がない。
だから「死人に口なし」状態が一番いい、ということなのだ。

私も、心落ち着かない時や原点に立ち返りたい時などは、昔から愛読している夏目漱石や三島由紀夫を開いたりする。
いつ帰っても抱きしめてくれる安心感。
だがこれって、自分で自分を抱きしめてるんだよなぁ。

喋らない相手、つまり作者の生から離れた作品は、自分を投影して自分を抱きしめるのにちょうどいい。
いつからかそんな、ちょっとひねたような思いが生まれたのは、過去にこんな経験があったからだ。

深く狭いことにハマりがちな私は、20代の頃、一人の小説家にハマったことがある。
彼の名は、梶井基次郎
明治に生まれ、大正の世を生き、31歳の若さで亡くなった教科書にも載る小説家だ。
だが私の持っていた教科書では彼に出会えなかったので、その存在を知ったのちは全作品を驚きと喜びをもって読みまくったものだ。

梶井基次郎への入り口は、文系ラッパー・かせきさいだぁの名曲「相合傘」に引用されている、『城のある町にて』のこの一文だった。

私はおまえにこんなものをやろうと思う。一つはゼリーだ。ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来ると漣をたてる。色は海の青色でーー御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる。


恋は盲目、とはこのことであろう。
梶井の文体が好きすぎて、一字一句を書き写す。
評論系の書籍も読み尽くした。
当時一人住まいしていたところの近所に彼の下宿があったと知り、通勤ついでに毎日横を通った。
ヒマを見つけては自転車で、評論本を片手に、彼が当時生きていた行動範囲を探った。

早生で寡作、そして全てが短編か中編という作家である。
コンプリートしてしまうのは簡単で、いつのまにか、梶井の全てが自分の中にインプットされたような気分になっていた。
彼のことならなんでも知っている、とまで思うようになっていた。

そしてある日、彼が晩年に結核の療養で長期滞在していた湯ヶ島を見てみたくなり、レンタカーで伊豆半島の山奥まで出かけていったのである。

谷底のような地形の、陽の当たらぬ温泉街から小説の雰囲気をビンビン感じつつ歩みを進めると、梶井ゆかりの場所は割とすぐに見つかった。
そして私はそこで、一人の高齢女性に出会った。
生前の梶井を知っているという彼女は、「とにかく優しい人でね」と梶井のことを丁寧に話してくれた。
頷きながら私は、自分の中で何かが変わっていくのを感じたのだ。

それは、梶井基次郎の全てを知っている、と信じ込んでいた自分の傲慢さに気づいた瞬間だったのか。
作家が例え亡くなっていて、その作品群がコンプリートされていても、全てを掴むということの難しさと徒労感を感じたからか。

彼女の口から語られた、生きている本人に接したというリアルは、脳だけで考えていた自分には岩のように重かった。
ストーカーのように「自分は彼のことを全てわかってる」なんて気持ちを持ち得る自分、亡くなっているからと言って作品だけでなく作家自体もコンプリートしたと勘違いしていた自分に、ハッと気づかされた経験だった。
そして後には、「自分の好きな作品にどう向き合っていったらいいのか?」という問題だけが残された。

自分の好きな作品、好きな人、好きなもの、なんでもいい。
それらにどう向き合っていくのが、大人の、いや人としての嗜みなのか?

恋愛でもなんでもそうだが、「相手の全部を手にいれた」と思うか、逆に「全部あなた色に染まります」と割り切った方が楽ではある。
簡単に表現するなら、前者を「支配」、後者を「依存」とでもいうのだろうか。
そしてわかりきったことだが、支配も依存も、する方は楽だがされる方は迷惑である。

作家と作品を完全に切り離す、というのは理想ではあるが、実際はなかなか難しい。
特に、作家個人の生き方が作品に反映しがちなケース、梶井や三島由紀夫でも良い、そういった場合は作品を単体で楽しむということがむしろ、難しいのではないか。
どうしても、作家自身のキャリアや発言、その思想も込みで愛することになってしまう感覚は、誰しもわかるものだと思う。

だから、「亡くなった時点で作品は完全に作家の手を離れ、自由になる」というのは理想イメージに過ぎず、本質的には作家の意向を気にすることなく受け手が自分の解釈を披露しやすくなる、ということなのだろう。

だがそれってちょっと、アンフェアじゃないか?

生きている人に踏み込むのはプライバシーの侵害にあたるけれど、亡くなった人ならどれだけ踏み込んでも良い。
亡くなったことによる「偉人」バイアスもかけられる。
意地悪な言い方をしてしまったが、死者への評論や分析を読んでいると、完成された美を感じつつもそういう空気も感じられて、ややアンフェアな気分になってしまう。

アンフェアが良い悪いという話ではない。
それ以前に、アンフェアなゲームはプレイするのがつまらないではないか、というところが本音だ。
コンプリートされたものに自分を投影し、自分を抱きしめるのはやってみると案外つまらない。
それより生きて動いているものに対し、自分の欲望を調整しながらフェアゲームを行う方が、よっぽど興奮するではないか?
なので、分析・評論におけるフェアゲームとは何か、というのが今のところ私がこのnoteに課している裏テーマであるのだ。


私が突然始めてしまった、ASKAという作家の歌詞分析。
なぜそれを書きたくなったのかといえば、単純に、彼の作品が素晴らしいからだ。
素晴らしいよ、いつでもスタンディングオベーションしたくなるほど。

天才がこの世から去った後に「あの人は天才だった」と評価するより、天才かどうか評価の定まらない今にその人を天才と信じて、その生きて動いている様を感じ、同じ時代に生きてることを素直に喜ぶ方がよっぽど楽しいではないか?
そうすると天才とは何かを考える材料やきっかけが増えるし、もし実際身の回りで天才と出会った場合、人より早めに気づくことができるという特典もつく。

そんな風に思う非天才の私は、天才と同じ時代を生きている喜びの表現手段として、今自分が抱えている生活の中での実感と、ASKAの詞から受ける感覚がシンクロした時にだけ、記事を書くようにしている。
私のドメイン=所在地をはっきりさせ、私の中で「ASKAな瞬間」が訪れた時にだけ、記事を書いている。
これしか、私から彼の功績に手向けられるプレゼントはないのだから。

そんなわけだから自然と「R30」、大人にしかわからない大人の迷いが表現されている曲に偏ってしまう。
他にもいっぱい、素晴らしい曲があるんだけどね。
本当は全部コンプリートさせて書いてしまいたい。
でもその欲望をセーブしつつ、私は今日も自分の一日に「ASKAな瞬間」を見つけることに力を注いでいる。

追い駆けて 追い駆けても
つかめない ものばかりさ
愛して 愛しても
近づく程 見えない

そう、この状態が楽しいのだと「太陽と埃の中で」でご本人も歌っているではないか。

追いかけて追いかけても、つかめない作家とその作品。
だから分析することが、こんなにも楽しいのだ。

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