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R君のお父さんの納骨と家族会

金曜日,ランチに誘われていたので11:40に仕事を切り上げてロビーに出た。「11:40にロビーで」と誘ってきた相手が出て来てなくて,時計をみると11:43だった。3分くらいのことなのに,イライラした。時間を守ることは自分にとって少し無理することで,その無理をわざわざして(あげて)いる(という感覚が多分,自分にある)のに待たされると苦痛が倍増するのだろうか。小学生の頃,誘いに来た友達を待たせているとき,父親から「人を待たせることは,人の命を使いよるということやぞ」と戒められていたことを思い出し,「いま,T先生に私の命を使われている」と考えた。待てないのでT先生の席に顔を出すと悪びれる様子もなく出て来た。この人と約束して待たされたのは2回目だ。もうこの人との約束の時間はきっちり守ろうとするのをやめようと思う。

仕事を終えて夕方,飛行機に乗って神戸に帰った。明日はR君のお父さんYさんの納骨で,みんなでお墓に骨をおさめに行ったあとごはんを食べることになっている。これも私の年始の「やりたいこと100(175個ある)」の1つである(R家族の会に参加する)。とくに納骨というのはめったにないレアな家族会であり,R君にとってもR君のお母さんであるKちゃんにとっても,一緒にいることが大切なような気がして参加をきめた。

この家族会は年代も専門も個性もさまざまな者たち(だいたいのメンバーが血縁か婚姻で繋がりのある家族ではあるが)のうち集まれる者が集まり,大きなテーブルをかこんでご飯を食べ,おかしを食べ,飲むものはお酒をのみ,お茶をのみ,話したり歌ったり卓球をしたり眠ったりする。一人ずつ話す(それをみんなで聴く)という時間をとることもある。すごくいいことだけ話すわけでもなく,すごく悩んでることだけ話すわけでもない。ただ,最近のことを話す。それぞれが,会っていない時間にどんな風に過ごして,何を考えてきたか,という話。

これがなぜだかよくわからないけどすごく面白い。この家族会で「話すこと」にルールがあるわけではないが,実は何を言ってもいいが他者を否定しないという点,まとまらなくてもいい,わからないことはわからないと質問することも,問いかけることもできる,しかしまずは話を遮らずに最後まできくという点で哲学対話をしているときと居心地が似ている。

この会はR君のお父さんが元気だった頃からずっと続いている。小さかった子どもたちはみんな大きくなって,それぞれ自分の才能を発揮できる大企業に就職して順風満帆のように思える。私の育った家では弟三人が何らかの問題を抱えて社会適応に失敗しており「なにが悪かったのか?」という問いを抱える私としては,R君ちの家族会に参加することで「なにが子どもの精神的健康を守り,個性を尊重したうえでの社会適応に導くのか」という,ポジティブ心理学のような視点からの観察研究をさせてもらっているような感じがすることがある。

またそれ以上に自分がここ20年,このコミュニティに参加して肯定される体験をしてきた。勉強することも,旅をすることも,歌うことも,事件に遭ったときも,新しい目標を持ったときも,この家族の輪に私は加わっており,どのような選択もその場に出すことで見守ってもらうことができた。

R君のお父さんの骨も,私のお母さんの骨と同じように白くてかさかさしていた。お父さんはこの骨を使ってたんだなと思うとすごく不思議だった。人間は身体をマシンにして生きてる,少しずつ古くなって故障したりして,さいごにはその,たましいを乗せていたマシンが止まる。たましいなんてものはなくて,マシンが止まったときにすべての活動が止まってるのかもしれないけど,なんだかそれだけではないような気がするのが,いきものの不思議なところだなと思う。

納骨を終えて家に帰って,お寿司とオードブルを食べた。ケーキもお菓子も食べた。ワインもビールも飲んだ。A君の就職活動の話。C君の進路の話。いちばん好きなごはんのおかずは何か。苦手なヨガのポーズはなにか。あの映画についてどう思ったか。51年前に予期せずふたごが産まれたときのはなし。GWにどこに行く予定か。色々な話をききながら,自分がこだわっていたものを頭のなかで点検するような時間がくる。手放せるものが見えてくる。斜めに構えてたもの,怖がっていたものをしっかりやろうと思う。皆が少しずつ年をとっていっていて,この場にR君のお父さんがいないことは不思議なことだと思う。私はみんなの中でけっこう先に死ぬのかもしれないけど,メンテナンスしながらもうしばらく生きられたらなと思った。






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