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自覚症状に「そんなものはない」なんてない

自覚症状を伝えて医師から「そんなものはない」と言われるのはつらい。
つらいからその場ではそんな言葉聞かなかったふりをする。
あと「それは副作用でなくただの加齢かもね」とかいう逃げ方もある。
注射を打った翌日からいきなり加齢した説。自覚症状を話した自分が恥ずかしくなり自分で話を逸らしたくなる。

どうにもできないこと、曖昧なことを「ない」と言い切って、患者にもその世界観に合わせてもらう。それだと自覚症状がある人はそれを抱えたまま、更にあるはずのない自覚症状を持っているという恥の感覚も背負うことになる。
また,自分の感覚が信用されないっていうことは単純につらいことだ。

病名をつけたり症状を言葉にしていったりするのは常にそこからこぼれるもの、観察者にとって認識できないものをどう扱うかという問題と隣り合わせている。そんなことを考えていると時間が足りないし、話がまとまらないからどこかで打ち切らないといけないのは分かる。

だけどそれは、目の前の生きてる人が話す内容を参照せずに、過去に「自分はこういう捉え方で行こう」と決めた認識を常に最優先するような態度を正当化する理由にはならない。そのような態度は思考の停止どころではなく、観察の停止、臨床の停止である。私は診断投薬マシンではなく、かたちにもことばにもならない不具合をあるものとして受け止めてくれる人間に会いたい。

自覚症状に「そんなものはない」なんてない。

聞き飽きた苦痛だとしても、客観的には捉えがたい症状だとしても、解決できない難問であったとしても。医師は語られたことをすべて解決することが期待されているわけではない。解決しなくていい。

解決しなくていいから立ち会って,その場に出たものをひととき一緒に眺めてほしい。

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