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幻想を追いかけていた。


有能」。
この言葉を聞くたびに、その対象にならない自分を「無能」と決め込んでいた。

実際「能」はなかった。
でもそれがないことより、自分で「無能」を自分に刺してしまうことの方が痛かった。

「有能」を聞いて、自分には違う能があると思えたら、まだ少し気持ちは軽かっただろう。

わたしにはそれができなかった。


***

ちょうど今読んでいた本に
「才能のある問題児」と「平凡な人」、会社にどっちがほしいかって話が出てきた。

わたしは自分のことを、平凡かそれ以下の人間だけど問題児ではない、と思っている。

だから「才能のある問題児」と聞くと、自分にあるものを持っていないけど、自分にないものを持っている人だ、と思う。

そうこう考えていたら、ふと、自分を含めた学生のいう「有能」の判断って、自分にできないことを出来る人かどうかっていう相対評価なんじゃないか?と思った。

もちろん「有能」と呼ばれる人は、それだけの「成果物」を持ってる。それに違いはない。そしてその成果物は比較的目に見えやすいものだ。

スキル、肩書き、つくったもの、受賞歴…

それはもちろん社会的評価にも値するし、その人たちは間違いなく「有能」だ。

でも、大学生(?)のいう「有能」は、やっぱり主観の塊でしかない。と思う。

だって「○○さんって有能だよね」と言ってる本人がわたしから見れば「有能」だったり、「平凡」だった人が別の人には「有能」と思われてたり。明確な基準がないから。

見る人や見方によっては、もしかしたら、どこかの点で、わたしもちょっとくらい、「有能」だって思われたところがあったのかもしれないと思った。

多分ないけど。

それでも、自分に「無能」のラベルを貼るよりは随分とマシだった。


それから、わたしが追いかけていたのは、スキルや肩書きを持つことじゃなくて、「有能」って言われることだったんだと気がついた。

結局、能力という形でわたしの存在を肯定してほしかったんだ

そう気づいたらもう、能力も有能もどうでもよくなった。

能力は認められてるかわかんないけど、たぶん認められてはないけど、わたしはわたしの存在を認めてもらいたい人には認めてもらえてると思う。から。

***


大学1年生の頃から数年間、幻想に惑わされて、不確かな言葉を追い求めてた。

でも、「有能」に振り回されて良かったこともある。

ちょっとだけ、スキルを得たから。

それが社会に通用することはないんだけど、わたしが力になりたかった場所で少し力になることは出来たから、満足だ。


これで、幻想とは、お別れ。
もう会いたくないけど、ありがとう。

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