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#18 日光東照宮で知らなかった5つのこと【日本旅行記】

ポカポカ春の陽気の日曜日、ふと思い立ち、おそらく、小学校の修学旅行以来であると思われる日光東照宮に行って来た。
徳川家康について書籍などを読んでいるうちに、「家康(公)…すごっ」となり、改めて彼が眠る場所に赴いてみたくなったのだ。

世の中的には周知のことだと思うが、無知蒙昧なわたしにとっては「衝撃だった東照宮に関する5つのこと」を以下に記録しておこうと思う。

1️⃣源頼朝も祀られている


豪華絢爛な陽明門


東照宮は家康公だけを祀る場所かと思いきや、なんと、豊臣秀吉、源頼朝まで祀られていたのだ。

陽明門入って左手の神輿社には、中央に家康公、右に豊臣秀吉、左に源頼朝の3基の神輿が安置されている。
サッカーなら、ペレとマラドーナとメッシの記念館が全部一緒になってしまったくらいの豪華さである。 

源頼朝といえば、武士最初の征夷大将軍として有名だ。
そして家康公とは同系血筋とも言われている。
家康公は頼朝(〜6代将軍まで)の歴史書「吾妻鏡」を参考に江戸の町づくりを行ったと言われているし、頼朝をリスペクトしていたのは間違いない。

また、豊臣秀吉に関しては、徳川家と豊臣家の後々の云々はさておき、家康公にとって天下統一の先輩であるのは事実だ。

彼らを祀るということは、異郷の地で偶然同中の年上に出会ったら、2個上だろうが15個上だろうが「先輩は先輩」として敬うそれに近い感覚かもしれない。

2️⃣眠り猫の裏で踊るすずめ

黒ブチの可愛い「眠り猫」


東照宮の見学スポットでも一、二の人気を誇る眠り猫。 
猫の彫刻は仙台の大崎八幡宮などにもあるが、おそらく眠っている猫は日本で日光東照宮だけだろう。

竹林で踊る雀たち

全く意識していなかったが、裏の彫刻では雀が小躍りしていた。
猫が寝ていれば雀は安心=「猫も寝るほど平和な世の中」を願う意味があるそうだ。

ちなみに、作者とされる左甚五郎は、天才的彫刻家と謳われながら、実在するかは不明とのこと。
もしかすると、「白丸みそ子」のようなふざけたクリエイターネームで活動するうちに、本人の存在が忘れ去られてしまったのかもしれない。

3️⃣猿は最終的に妊娠していた

猿のレリーフは、シルクロードから伝わったらしい


「見猿聞か猿言わ猿」。
小学生だったわたしは、「三猿」それがなんであるのかも知らずに、⚪︎⚪︎の一つ覚えのように「見猿聞か猿言わ猿」を唱えながら東照宮を訪れた。
そして結局、この「三猿」が何のメタファーであるかはわからぬまま「見猿聞か猿言わ猿」だけを唱えて家に帰り、現在に至った。

実際にはこの彫刻、8枚セットで猿の一生を表していて、「見猿聞か猿言わ猿」は2枚目の絵柄にあたる。

1枚目は小猿の生誕、2枚目は小猿の幼少期で、「悪いことを見ない、聞かない、言わない」という訓戒を表している。

そしてこの小猿、3枚目以降で友達ができたり、失敗したり、恋に悩んだりした末、なんと、最終的に妊娠していたのだ。
そもそも猿が雌だったことも、8枚目で突然明かされる為、みている方は当惑し、状況を飲み込むのに若干の時間を要する。

また、妊娠したのは、見猿なのか、聞か猿なのか、言わ猿なのかはわからないが、婚姻生活でも「嫌なところは見ない、腹の立つ言葉は聞き入れない、不貞に気づいても敢えて言わない」というのが、時として必要なスキルだと思う。

4️⃣拝殿に飾られているのは36歌仙の絵

御本社内は残念ながら撮影禁止

御本社の拝殿内にぐるっと並んで掛けられた、肖像画の扁額。
てっきり徳川家代々の将軍かと思いきや、彼らは歌人であった。
そもそも徳川家将軍は十五代までで、こんなにたくさんいるわけがないということにすぐ気づかないあたりが愚かである。

「三十六歌仙」とは、平安〜奈良時代の選ばれし三十六人の和歌のレジェンド
小野小町や柿本人麻呂なんかも入っている。
女性がいた時点で気づいてもよかろうに、小学生のわたしがいかに適当に修学旅行をやり過ごしていたかうかがえる。

ちなみに、埼玉県・川越の喜多院にも似た扁額があったのを思い出して調べたところ、東照宮に三十六歌仙の扁額が納められたのを機に、全国の寺社でこの扁額を飾るのが流行したようだ。

5️⃣埋蔵金の在処と「かごめかごめ」の関連性

御宝塔を守る鶴さんと亀さん

歴史への探究心は弱いのに、都市伝説や埋蔵金といった俗な話題にはついつい反応してしまうのが、このミーハー人間・白丸みそ子である。
聞きかじりで、童謡「かごめかごめ」の「鶴と亀がすべった、後ろの正面だあれ」の歌詞が埋蔵金の在処を暗示しているということだけは覚えていた。

すると確かに、東照宮の奥院・御宝塔(家康公のお墓)を鶴と亀が守っているではないか。

やはり、埋蔵金はこの付近に…(ドキドキ)。
と思ったら、この鶴と亀(鶴亀仏具)は、1643年に朝鮮通信使から贈られたものだそうだ。
そして御宝塔自体は、それより20年以上前の1622年に作られているのだ。

となると、この話、ちょっと無理があるかもしれない…。
ざんねん。

それにしても、昔はよく埋蔵金やネッシーや妖怪を探すあやしい番組をやっていて、ワクワクしながら見ていたなぁ…。

徳川家康の遺訓

御宝塔へ向かう奥宮参道にある立札

最後に家康公の遺訓と言われる言葉を紹介しておこう。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。

62歳でようやく征夷大将軍になり、75歳まで生きた家康公が言うからこそ重みのある言葉である。

自意識過剰なわたしは、家康公が今のわたしに対して贈った言葉であるような気までしてきた。

家康公の言葉を受けるなら、

せかせかと動き回り、ひたすら生き急ぎ続けて四十年。
担いだ重荷はまだおろせそうにもないので、
ボロアパート生活をデフォルトと思い、
あんまり高望みはせず、焦らず、イライラせず、出来るだけ人のせいにはせずに、ぼちぼちやっていこう。

家康公の遺訓に大いに学んだ一日であった。

おわり

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