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持続可能な恋と、ポイ捨ての愛

 べつにそんなに辛いこととか、あったわけじゃないのに、ストレス溜め込んでるわけでもないのに、なんにもないのに涙が出るのはなんでだろう。なにもかも、寝ておきたら、突然悲しくてしんどくなっていることがある。寝ておきなくても、たまに、唐突に苦しくなって涙が出る。
 さみしいんだろうか。

 ひとり暮らしをするまでは、家族が近くで、見えるところで私を愛してくれていた。だれかが必ず、確実に愛してくれている毎日は、それは恵まれていたと今になってさらによく分かる。
 ひとり暮らしで、恋人もいない。友達は不確実。信じているけど、友達というのは不確実なものなのだ。いくら信じていても、こちらの心の問題で確実性の判を捺すことは難しい。

 友情は、快楽だと思う。愛ではあるけれど、主は快楽。楽しさの関係。だから、愛を制限する必要がある。愛を制御、制限しなければならないことが、不確実の要素なのだ。

 いっぽう、家族や恋人は愛を制御、制限する必要がない。さみしさは、きっと愛の制限からくるもので、それが恋人が欲しい理由だと思う。

 (自己満足的な)愛は社会生活上、制限しなければならないことも多く、出しても問題ない瞬間に惜しげなく使い、あとは何もなかったようにポイとするのがうまく生きていくうえで必要な気がしている。私はけっこう、誰だって愛せる気がしているし、愛は瞬間で簡単に切り離せる。愛にはたくさん種類というか、向ける関係性による使い分けがあるからだ。要は思い込みなのかもしれない。

 恋は制御不可能であり、持続可能である。だから恋はさみしくない。愛は瞬間的だと、さみしい。

 本当は誰かを制限なく持続的に愛せたら、そして持続的に愛してもいいという確実性があれば、1番幸せなのだけれど、恋でもいいから確実性の思い込みが欲しいものだ。愛す、愛されるの境界の、なんと曖昧なことか。

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