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夜行性ディーラー。

「へ、へ、へへへっ、へへへ……」
 涎を垂らしながら、焦点の合わない目でへらへらと笑う同居人を置いて、簡易宿泊所を後にした。
 外はすっかり真っ暗だったけど、湿気は相変わらず身体に纏わり付く。
 ねちゃねちゃと、不衛生な泥濘んだ地面を踏みながら夜道を歩く。
 両側に簡易宿泊所が並ぶ静かな道。先へ進むにつれ、徐々に騒がしさが加わっていく。
 両脇にブルーシートを敷いていかがわしい商品を売る人々の呼び込み、酔っ払いの喧嘩、薬物常習者の奇声……。
 これぞ、湿気の街のドヤ区域。その日暮らしの金で欲を満たし、自滅していく彼等を横目に街を歩くのは嫌いじゃない。だけど……。
「お嬢さん、お嬢さん。待ってがろ、待ってがろ」
 やけに滑舌の悪いお爺さんが、にやにやしながら近寄ってきた。
「うぬうぬ、うぬうぬ。可愛い、可愛い」
 お爺さんは黄ばんだタオルを首にかけ、ぼろぼろの作業着を着ていた。
「おいらね、おいらね、またいっぱいお金持ちになったがろ」
 
 彼の口から見える歯は、ところどころなくなっていた。
「歯が売れちゃったがろ。だから、お嬢さんと遊ぶがろ」
 お爺さんが皺皺の右手をこちらに伸ばしてきた。染みや得体の知れない汚れが付着した手が近付いてくる。
 手で払う際に触ってしまうことさえ躊躇われた。ほぼ反射的に後退っていた。
「汚ねぇよ!」
 低い声で怒鳴り、早足でその場を後にした。
 堕ちた人間達の生き様が見られるドヤ区域は、嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、不快で不快で仕方がない。
 だって、小汚いお爺さんに言い寄られて喜ぶ男なんて殆どいないでしょ?

*

「臍の指まで愛してや。臓の物までしゃぶってや」
 機械のような女性の歌声が耳に流れ込んでくる。
「『夜行性ディーラー』ちゃんが来たわよー」
 俺の名前を叫ぶ声が路地裏に響く。
 妖しく光る提灯が並ぶ路地。木造の2階建ての建物が両側に並んでいる。ドヤ区域にある唯一の遊郭、「昇天通り」。この20メートル程の路地だけに性サービス店が並んでいる。
「臍の指まで愛してや。臓の物までしゃぶってや」
 そのお店1つ1つに付けられたスピーカーから、この詩のようなものが延々と流れ続けている。
「待ってましたわー」
「待ってましたよ」
「待ちくたびれたり」
 ぞろぞろと、様々な色の浴衣を着た娼婦達が、両側に並ぶ店から出てきた。
「待たせてごめんね」
 自然と笑みが溢れる。
「ちょっと聞いてよ、今日の客の体臭がきつくてさぁー」
「髪伸びましたわね。似合っているわ」
「照れちゃってぇ、可愛いぃ」
 ここにいると、棘だらけだった心を優しく撫でられ、柔らかい身体で抱き締められるような感覚になる。
「ね、ね、ね、早く頂戴な」
 ピンク色の浴衣を着た娼婦が俺の右腕を優しく触った。
「うん。ちょっと待ってて」
 背負っているリュックサックを下ろそうとした時、
「糞がに!」
 怒鳴り声と共に、右側にある手前から4番目の店から般若を付けた上裸の男が出てきた。身長190センチ程、肉付きはいいが脂肪の下は筋肉だとすぐに分かる体格のよさ、髪と髭の境目がない白髪の大男。
 彼の足元で、濃紺色の浴衣を着た娼婦が四つん這いになっていた。
「気持ちよくねぇがに! 糞がに!」
 両腕を上下に振りながら、般若の大男が喚き散らしていた。
「ごめんなさいまし……ごめんなさいまし……」
 濃紺浴衣の娼婦は、額を泥濘んだ地面に付けて何度も何度も土下座をした。
 俺の周りにいる娼婦達はその場でただ成り行きを見守っていた。見慣れているのか、慌てる者は1人もいなかった。
 不意に、ここに来る前に会った「歯売り爺」が脳裏を過った。
「あぁ……やだなぁ……」
 不快で不快で、仕方がなくなった。
「ねぇ、おじさん」
 俺は般若の大男の正面まで行き、愛想よく微笑んだ。
「んあっ!? ……んーだがに」
 俺の顔を見るなり、般若の大男は勢いを失った。そんじょそこらの女より可愛い顔をしている自信はある。男だけど。
「これあげる」
 干涸らびた黒色の林檎を1つ、彼に差し出す。
「んーだよ、からっからじゃねーかがに」
 とか言いつつ、般若の大男は素直に受け取った。
「大事に持ってて。後でまた会おう。それ持って街を歩いてくれたら、見付け次第すぐに駆け付けてあげるから」
「あ? 会うがに?」
「その子の代わりって言うか、お詫びにいいことしてあげる。……ね?」
 あざとく首を傾けた。全身に走る鳥肌を押し殺して。
「……仕方ねぇがに」
 般若の大男は張り出た腹を揺らしながら、大股で昇天通りを出ていった。
「ありがとうごぜぇやす……ありがとうごぜぇやす……」
 足元で、濃紺浴衣の娼婦が何度も何度も頭を下げた。
「ほら、顔上げて」
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔に、優しく微笑む。
「もう大丈夫だよ」
「あんたこそ、大丈夫なのかい」
 紫色の浴衣を着たぽっちゃり系の娼婦が尋ねた。
「会うだなんて言っちゃってさ」
「大丈夫ー。あの林檎に刻まれた『眠』って文字が目印なんだ。俺の友達が対処してくれる」
 詳しくは言えないけど、対処より掃除って言葉の方が正確かな。
 どちゃ、どちゃ、と重たい足音が近付いてきた。
「ほーら、葡萄ちゃんだよぉ」
 赤色の浴衣の娼婦が段ボールを抱え、俺の前に下ろした。
「今日は巨峰ちゃんが多いよぉ」
「きょ、巨峰!」
 俺はわくわくしながら段ボールの蓋を開けた。赤浴衣の娼婦の言う通り、中には大粒の紫色の玉がいっぱい詰まっていた。
「んーーー最高ーーー」
 僕はにやにやしながら、リュックサックから透明の瓶を4つ取り出した。それ等を、葡萄を持ってきてくれた赤浴衣の娼婦に渡す。
「人数分入ってるからね」
 中には、ピンク色の飴玉がぎっしり入っている。
「ありがとうねぇ」
 わらわらと赤浴衣の娼婦の周りに、娼婦達が集まる。
「嗜好飴」。
 こういう夜の仕事をしている人達には打って付けの商品だ。これを舐めると、男女問わず視界に入る人間が全て自分の好みの見た目に見えるようになる。
 昇天通りの娼婦達は、週に2日も人数分の嗜好飴を、出来のいい葡萄と交換してくれるお得意様。
「そこのイケメンさん、こちらへおいで!」
 青色の浴衣を着た女が元気よく手を振り出した。早速嗜好飴を舐めている彼女の視線の先には、歯売り爺がいた。
「臍の指まで愛してや。臓の物までしゃぶってや」
 幻想で出来た世界に、幻聴のような歌声が流れ続ける。

*

「うちの子、助けてくれてありがとねぇ」
 紫浴衣のぽっちゃり娼婦が帰り際、声をかけてきた。
「いえいえ、全然。こちらこそ、毎度ありがとうございます」
 そう言って、好物である葡萄の詰まった段ボールを抱えながら、昇天通りを後にした。
 再び、汚物と金と堕落のエリアへ戻っていく。がちゃがちゃとした喧騒が、容赦なく飛びかかってくる。
 酒、薬物、暴力、エロ本、複製DVD……。
 その日暮らしの欲望で堕ちていく人々が、今日も真っ逆さまに堕ちながら生きている。
 巨峰を頬張りながら、両側を簡易宿泊所に挟まれた小便臭い道を歩く。
「うぐ、ぐぐぐ……が、がに……」
 紫色の蠅が集まる街路灯の下、先程会った般若の大男が自分の首を絞めていた。俺の存在には気が付いていない。
 彼の正面には、俺の友達がいた。
「ふ、ふふふ……」
 助けられているのは、俺の方だ。あの昇天通りにいる間だけは、汚い世界から解放されたような気分になる。
 自分の見た目を女に改造してしまうぐらい、醜い男が大嫌いなんだ。



【登場した湿気の街の住人】
 
・夜行性ディーラー
・阿亀の男
・歯売り爺
・「昇天通り」の娼婦達
・般若の大男
・首狩り屋

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