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戦国!室町時代・国巡り(2)美濃編


【0】はじめに

美濃国:石高54万(1598年)
飛騨、信濃、越前、尾張、三河、伊勢、近江に接する。
揖斐川、長良川、木曽川の3つの河川が濃尾平野に流れる。
木曽川を挟んで南側が尾張となる。ただし現在より北側を流れていた。
庄川以北、両白山地と飛騨山脈に挟まれた飛騨高地にあるのが飛騨国である。
伊吹山地と鈴鹿山脈の間、標高が低くなっている位置に関ヶ原があり、そこで近江に接している。
美濃三河高原で三河と接する。

中心部:本巣郡 / 席田郡/山県郡 / 方県郡 /厚見郡 /各務郡
西美濃:多芸郡/石津郡/安八郡/不破郡/池田郡/大野郡
中美濃:武儀郡/加茂郡/可児郡
東美濃:土岐郡 /恵那郡
奥美濃:郡上郡

(2)年表

1324 正中の変
1330 元弘の乱
1335 中先代の乱
1336 建武の乱
1350 観応の擾乱
1379 康暦の政変
1390 土岐康行の乱
1392 明徳の乱
1399 応永の乱
1444 美濃錯乱    富島氏と斎藤氏の守護代の座を巡る争い
1467 応仁の乱
1480 美濃文明の乱  守護代・斎藤氏の後継者争い
1487 長享・延徳の乱 足利義尚による六角征伐
1495 船田合戦    土岐成頼の後継者を巡る争い
1517 土岐頼芸の乱
1519 土岐政房が没する。朝倉氏の支援を受けた頼武が守護に就く。
1525 頼芸の再蜂起。
1530 浅井氏の支援を受けた頼芸が実質的な守護となる。
1530 頼純が大桑城に入る。
1536 頼芸が正式に守護に任命される。六角氏と和睦。
1542 大桑城陥落
1542 斎藤道三が土岐氏を追放
1544/1547 加納口の戦い
1548 道三が織田信秀と和睦
1556 長良川の戦い
1561 森部の戦い
1565 堂洞合戦、関・加治田合戦
1567 稲葉山城の戦い
1574 武田勝頼の東美濃侵攻
1582 加治田・兼山合戦

【1】土岐氏

平安時代末期、源頼光の七代の孫・土岐光衡が美濃国土岐郡に移り住んだことに始まる。光衡は源頼朝の御家人になった。
光定は執権北条貞時の娘を妻とする。
土岐氏は美濃各地に一門衆を配し、「桔梗一揆」と呼ばれる土岐氏一族による強力な武士団を組織した。

源光長
①土岐光衡(1159-1206)
②土岐光行(?-1249)
③土岐光定(?-1281)
④土岐頼貞(1271-1339) 美濃国守護
⑤土岐頼遠(?-1342)  美濃国守護(二代)
⑥土岐頼康
(1318-1388) 美濃国守護(三代)
⑦土岐康行(?-1404)  美濃国守護(四代)

(2)正中の変(1324)

後醍醐天皇による最初の倒幕計画であるとされているが真相は不明。
公家側の首謀者として日野資朝日野俊基、
武家側の首謀者として土岐氏一族の多治見国長と頼貞の十男である土岐頼兼が関与したとされる。
土岐頼員の密告により事前に計画は露見、六波羅探題は多治見国長と土岐頼兼の屋敷を襲撃し、二人は自害する。

(3)土岐光行

(?-1249)
光衡の子。
子に浅野国衝、饗庭光俊(次郎)、光氏(三郎)、国慶(四郎)、光定(五郎)、光員(六郎)、光家(七郎)、頼命、頼有、親行。

(4)土岐光定

(?-1281)
光行の子。五郎。官位:隠岐守。
子に隠岐国時、高田衡国、阿波教国、笠毛光教、隠岐胤国、蜂屋定親、頼貞、舟木頼重。

(5)土岐頼貞

(1271-1339;在1336-1339)
光定の七男。
母は北条貞時の娘とされるが、現在は史実ではないと考えられている。
子に頼直、乾道謙、頼清、頼遠、長山頼基、頼兼、頼明など。
室町幕府の初代美濃守護。官位:伯耆守。
後醍醐天皇の討幕運動への関与を疑われながらも生き延び、倒幕挙兵後には美濃守護に任ぜられる。以後200年に渡り、土岐氏は美濃に君臨する。歌をたしなみ、弓馬に優れた人物であった。
1324年、土岐氏の一族(頼員(舟木頼春)多治見国長など)が正中の変への関与を疑われるが、生き延びている(『太平記』では六波羅探題の追討を受け自害したことになっている)。
後醍醐天皇の倒幕に従い挙兵すると、足利尊氏の軍に加わる。その功で1336年、美濃守護に任じられた。足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと頼貞は七男の頼遠と共に尊氏に従い戦功をあげた。「土岐絶えば足利絶ゆべし」、「諸家の頭、筆頭の将」と呼ばれるほどの信任を得る。

(6)土岐頼遠

(?-1342;在1339-1342)
頼貞の七男。
子に 今岑氏光、外山光明、今岑光政、北方光頼、北方頼興、小柿頼長、穂保氏直、光行、不破頼道、直頼。
兄で嫡男(六男)である頼清が先に亡くなっていたため、頼貞の後を継ぐ。
「婆娑羅大名」の一人として知られる勇猛果敢な将。父と共に足利尊氏に仕えて各地を転戦した。最期は酒に酔った勢いで光厳上皇に狼藉を働き、処刑されるが、その軍才を惜しみ、周囲のものは助命を嘆願したという。
1336年、「多々良浜の戦い」
1338年、「青野原の合戦」で北畠顕家を迎え討ち名を馳せる。
1339年、父の死により家督を継ぐと、本拠地を土岐郡・鶴ヶ城から厚見郡・長森城へと移す。
1340年、美濃国根尾城に籠っていた脇屋義助を攻め、敗走させる。
1342年、酒に酔った勢いで光厳上皇に狼藉を働き、京都六条河原にて斬首された。

(7)土岐頼康

(1318-1388;在1342-1388)
土岐頼清の嫡男。
子に女(二条良基室)。養子に康行。
侍所頭人。美濃土岐氏第6代当主。室町幕府第3代美濃守護。尾張・伊勢守護。
足利尊氏から義満までの三代の将軍に仕え、三国の守護を兼ね、足利幕府の宿老として、土岐氏の最盛期を迎える。
1336年の父の死後、叔父土岐頼遠と共に若くして各地を転戦して南朝方と戦う。
1342年、叔父・頼遠が光厳上皇に狼藉を働いたため処刑されると、土岐氏惣領を継ぐ。当初は叔父・頼明の補佐を受けた。
1350年、一族の土岐周済が反乱を起こすが、これを鎮圧する。
観応の擾乱(1350-1352)では足利尊氏を常に支持し、その功績によって尾張守護職を与えられる。
1353年、本拠地を長森城から革手城に移す。豪族の斎藤氏を従属させる。
1354年、評定衆に任じられる。
1360年、伊勢守護職に任じられる。
1370年、管領細川頼之との不和が原因で無断で本国へ帰国。
1379年、足利義満から追討令を受けるが謝罪して許される。斯波義将・佐々木高秀らと共謀し、細川頼之を追放する(康暦の政変)。
足利幕府の宿老として、土岐氏の最盛期を迎える。しかし、権力集中を画策する足利義満にとって土岐氏は邪魔ものであった。その死後、土岐氏は内紛を画策され衰退することになる。

(8)土岐康行

(?-1404;在1388-1390)
 頼清の三男・頼雄の子で、頼康の養子。初名:義行。
 子に康政、国康、満康、女(土岐詮直室)
 美濃土岐氏第7代当主。室町幕府第4代美濃守護。伊勢守護。
 従兄弟の詮直を尾張守護代、弟の満貞を京都代官とした。
 康行の代、将軍・足利義満は将軍権力の拡大を望んでいたため、幕府の重臣である土岐氏は邪魔ものであった。そこで野心家であった満貞を利用し、(康行の継承を認めず)満貞に尾張守護職を与えた。これに尾張守護代・土岐詮直は反発し、尾張に下向した満貞を追い払う。満貞は、足利義満に対して康行・詮直の謀反であると訴えた。足利義満は直ちに謀反の討伐を命じ、土岐氏一族の土岐頼忠・頼益が征討に向かった。
 翌1390年、康行は挙兵するも敗北する(土岐康行の乱)。
 康行の美濃国・伊勢国の守護職を解かれ、土岐頼忠が代わって美濃国守護に、仁木満長が伊勢国守護に任じられた。
 康行は明徳の乱で戦功を挙げ、1400年に伊勢北半国守護に再任された。
以後、土岐氏惣領家であった康行の家系は土岐世保家と呼ばれ、伊勢国守護職を継承した。

(9)土岐氏の一族

[一]頼貞の子(頼清)世代
頼清(?-1336)頼貞の六男。
頼仲()頼貞の子。
頼基(?-?)頼貞の子。
頼兼()頼貞の子。
頼里()頼貞の子。
頼明(?-1348)頼貞の子。

[二]頼清の子(頼康・頼忠)世代
頼兼(?-?)頼清の次男。明智頼兼。
頼雄(?-1380)頼清の三男。揖斐頼雄。
康貞(1325?-1352)頼清の四男。久々利城を築城、久々利氏の祖
直氏(1331-1380)頼清の五男。大野直氏。伊予大野氏の養子に入る。
氏光()頼遠の子。今岑氏光
光明()頼遠の子。外山光明
光政()頼遠の子。今岑光政
光頼()頼遠の子。北方光頼
頼興()頼遠の子。北方頼興
頼長()頼遠の子。小柿頼長
氏直()頼遠の子。穂保氏直
光行()頼遠の子
頼道()頼遠の子。不破頼道
直頼()頼遠の子

土岐光時(浅野光時)
土岐光衡の次男。
子に光清(浅野太郎)、光房(肥田二郎)、光忠(浅野三郎)、光仲(三栗五郎)、光朝(浅野八郎)、光純(浅野九郎)、正智、願意

土岐国衝(浅野国衝)
土岐光行の子
子に國村、国泰(二郎)、石谷親衡(三郎)、国基(四郎)、国有(余一)、国重(十郎)

土岐頼清
頼貞の六男。通称:九郎。
子に 頼康、明智頼兼、頼雄、康貞、直氏、頼忠。
伊予守護。
父より先に亡くなったため、家督は弟の頼遠が継ぐ。

長山頼基
(?-?)
頼貞の子。
子に明智頼重、兼貞、頼高、頼澄、岩手満頼。
美濃長山氏の当主。

明智頼兼
(?-?)
頼清の次男。
子に惟任光行。官位:下野守。
明智氏の祖で、妻は豊後大神氏の娘。
嗣子の光行が早世したために、従弟の頼重(長山頼基の子)を養子に迎えて、家督を継がせた。

土岐頼雄
(?-1380)
頼清の三男。揖斐頼雄。
子に康行、島田満貞、深坂光詮、稲木光名、美作満平、揖斐詮頼、女(今川貞世室)。
兄・頼康が美濃国西部・厚見郡に革手城を築き拠点にすると同じ西部の揖斐郡に拠点を置き、弟で西部の池田郡に居住していた頼忠と共に西美濃における土岐氏の基盤を固めた。
長男・康行は兄・頼康の養子となり、宗家の家督を継ぐ。

【2】土岐氏②西池田家

⑧土岐頼忠(1323-1397) 美濃国守護(五代)
⑨土岐頼益
(1351-1414) 美濃国守護(六代)
⑩土岐持益
(1406-1474) 美濃国守護(七代)

(1)土岐頼忠

(1323-1397;在1390-1395)
土岐頼清の六男。頼世。通称:神野二郎。官位は刑部少輔、美濃守。父・頼清が早世したため、祖父・土岐頼貞の養子となる。
妻は京極氏の娘。
子に島田光忠(月海)、頼益、頼兼、西郷頼音、鷲巣之康(忠之)、植村光兼、頼錦、田原頼郷、大桑頼名、徳山貞長、女(鷹司冬基室)。
土岐氏庶流として美濃池田郡を拠点とする。土岐康行の乱で、守護職を失った土岐氏惣領家に代わって美濃国守護職に就く。
西池田家が惣領にとって代わったことには土岐庶流諸氏が反発する。
そのため国人・富島氏を守護代として重用する。

(2)土岐頼益

(1351-1414;在1395-1414)
頼忠の次男。通称:池田次郎。官職は美濃守、左京大夫。
子に持益。
文武に優れた名将だったとされる。
1395年、父の跡を継いで美濃守護となる。
応永の乱(1399)で幕府軍に参加、和泉堺へ出陣。
大内義弘に呼応して、従兄の土岐詮直が挙兵して美濃に侵入してくるが、これを撃退する(詮直は土岐康行の乱で敗北後没落していた)。
1401年、評定衆に任じられる。1403年には筆頭の扱いを受け、幕府七頭の一家となる。侍所頭人、宿老を歴任。
1414年、死去。

(3)土岐持益

(1406-1474;在1414-1456)
頼益の子。足利義持から「持」の一字を偏諱。通称:池田二郎。官職は美濃守、左京大夫。
子に持兼。
1414年、9歳で父の後を継ぐ。
1428年、伊勢で北畠満雅が蜂起すると出兵して鎮圧にあたる。
1439年、侍所頭人を務める。
1444年、富島氏・長江氏(富島氏の支流)と斎藤宗円が守護代の座を巡って争いを起こす(美濃錯乱)。宗円の嫡男・斎藤利永が勝利して、斎藤利永が守護代となる。
持益は内乱を前に指導力を示せず、実権は守護代の斎藤利永に握られることになる。
1455年、嫡男の持兼が早世。持益は持兼の庶子、亀寿丸を継嗣とすることを望んだが、斎藤利永は一色義遠の子の成頼を擁立して争いになった。
1456年、持益は利永に敗れて、成頼を養子とし隠居させられる。

(4)土岐氏の一族

満貞()頼雄の子。島田満貞
光詮()頼雄の子。深坂光詮
光名()頼雄の子。稲木光名
満平()頼雄の子。美作満平
詮頼()頼雄の子。揖斐詮頼
詮直(-1399)直氏の子。肥田詮直
光忠()頼忠の子。島田光忠(月海)
頼兼()頼忠の子
頼音()頼忠の子。西郷頼音
之康()頼忠の子。鷲巣之康(忠之)
光兼()頼忠の子。植村光兼
頼錦()頼忠の子
頼郷()頼忠の子。田原頼郷
頼名()頼忠の子。大桑頼名
貞長()頼忠の子。徳山貞長

土岐詮直
(-1399)
直氏の子。肥田詮直。宮内少輔。
土岐康行の代に、尾張守護代を務める。
将軍・足利義満は土岐宗家の土岐康行から尾張守護職を取り上げ、自身の側近である満貞(康行の弟)に与えた。反発した詮直は、尾張に赴任してきた満貞と黒田宿で合戦し撃退する。義満は康行と詮直による謀反であるとして土岐頼忠らに征討を命じた。詮直は康行と共に抗戦したが敗れて没落した(土岐康行の乱)。
1399年、応永の乱では大内義弘に与し、美濃で700騎を率いて蜂起したが、頼益と長森で戦い敗死した。

【3】土岐氏③一色成頼系統

土岐成頼(1442-1497) 美濃国守護(八代)
⑫土岐政房(1457-1519)  美濃国守護(九代)
⑬土岐頼武(?-1530)   美濃国守護(十代)
⑭土岐頼純(1524-1547)  美濃国守護
⑮土岐頼芸(1502-1582)  美濃国守護
土岐頼次(1545-1614)

(1)土岐成頼

(1442-1497;在1456-1495)
尾張知多郡の分郡守護であった一色義遠の子。
(土岐頼忠の孫である佐良木光俊の子とも言われる)
守護代・斎藤利永に擁立され、実権は守護代・斎藤氏に握られていた。
1467年、応仁の乱では西軍に属する。かつて守護代と務めていた有力国人の富島氏・長江氏が東軍に加わって斎藤方を攻撃し美濃は内乱状態になる。
守護代・斎藤利藤の後見人である斎藤妙椿の活躍により、美濃国内の荘園を押領。斎藤氏の勢力は尾張、伊勢、近江、飛騨にまで広がる。
1477年、応仁の乱の講和がなると、足利義視・義材の父子を庇護して美濃へ帰国した。
1480年、妙椿が死去すると守護代・斎藤利藤と異母弟の利国(斎藤妙純)が後継を巡って争った(美濃文明の乱)。
1487年、長享・延徳の乱が起り、第9代将軍・足利義尚による六角高頼親征が始まると、成頼は挙兵した。次の標的は義視父子を擁している自分だと考えたためである。義尚の病死によって六角氏への親征は終了する。
晩年、成頼は四男・元頼を溺愛し、嫡男の政房を廃嫡したいと考えた。そこで小守護代石丸利光に元頼を擁立させ、政房を推す斎藤妙純と戦わせた(船田合戦)。
1495年、斎藤方に敗れた成頼は、政房に家督を譲り、隠居。

(1-2)船田合戦


(2)土岐政房

(1457-1519;在1495-1519)
 成頼の嫡男。8代将軍足利義政から偏諱を受けて、頼継から政房に改名した。
 子に頼武、頼芸、治頼、梅戸光高、揖斐光親、鷲巣光敦(光蓮)、頼満、頼香、光建、各務盛政室
 斎藤妙純が船田合戦で勝利し、先代・成頼を引退に追い込み、家督を継いだ。翌1496年には、抵抗を続けていた元頼と利光を攻め、自害させた。
 しかし、直後の六角征伐で妙純親子が戦死してしまう。
1509年、福光館を築き拠点を移す。
1512年、斎藤彦四郎と争い、尾張に追放する。
 政房は嫡男・頼武ではなく次男・頼芸を後継者に望むようになる。小守護代・長井長弘が頼芸を擁立、頼武を擁する守護代・斎藤利良と対立し、1517年、内乱に至る(土岐頼芸の乱)。
 当初は頼武派が勝利したが、翌1518年、尾張に亡命した斎藤彦四郎の助力を得た頼芸派が勝利、頼武は利良と共に利良の伯母の嫁ぎ先である越前朝倉氏のもとへ亡命した。
内乱の終結を見ず、正房は死去する。

(2-2)土岐頼芸の乱(1517-1546)

1517年、頼武、守護代・斎藤利良 対 頼芸、小守護代・長井長弘。頼武派が勝利。
1518年、尾張に亡命中の斎藤彦四郎が頼芸派を支援、頼芸派が勝利。頼武派は越前に亡命。
1519年、政房が死去。
同年、頼武、朝倉景高 対 頼芸、長井長弘。頼武派が勝利。
1521年頃、守護代が斎藤利良から斎藤利茂に変わる。
1525年、頼芸派が再挙兵。浅井氏の支援を受ける。一方の頼武派は、朝倉氏、六角氏の支援を得る。
1530年、再び頼武派は越前に亡命。頼芸は「濃州太守」と呼ばれて実質的な守護となる。
同年、朝倉氏、六角氏の支援を受けた頼武派が再び美濃に侵攻するも、頼武が病没。頼純が跡を継ぐ。
1536年、六角定頼が頼芸方に転じる。斎藤利茂も定頼の仲介で頼芸方につく。
1539年、頼純と頼芸との間で和議が成立。
1542年、頼芸が斎藤道三により尾張国へ追放される。
1543年、大桑城が陥落し、頼純は朝倉氏を頼って越前国へ亡命。
1544年8月、頼純は朝倉孝景と織田信秀の支援を得て、美濃再入国を企てるも敗北。
1546年、頼純と頼芸・道三との間で和議が成立。頼芸の隠退と頼純の美濃守護職就任、道三の娘との婚姻が内容となった。
1547年、頼純急死。
1549年、信秀と道三が和睦したことによって頼芸は後盾を失う。

(3)土岐頼武

(?-1530;在1519-1530)
政房の嫡男。
1518年、頼武は斎藤利良と共に越前朝倉氏のもとへ亡命した。
1519年、政房が没すると、朝倉孝景は弟の景高に美濃出陣を命じる。9月14日の正木合戦、10月10日の池戸合戦に連勝して、美濃守護になることに成功した。
1525年6月、頼芸を奉じた長井長弘が再挙兵する。近江の浅井亮政が長井側を支援、頼芸が朝倉氏に救援を求めると、朝倉宗滴が六角氏と協力し浅井勢を牽制、更に朝倉景職の率いる軍勢が稲葉山まで出兵した。
内乱は1527年末に一段落するが、1530年、頼武は再び越前に逃れる。
同年、朝倉氏、六角氏の支援を受けて再び美濃に侵攻。
その直後に病没。

(4)土岐頼純

(1524-1547;在1546-1547)
頼武の嫡男。母は朝倉貞景の三女。
父・頼武の死後、大桑城に拠点として頼芸に対抗。
1536年、六角定頼が頼芸方に転じる。守護代・斎藤利茂も定頼の仲介で頼芸方に付き、次第に追い込まれる。
1539年、頼芸との間で和議が成立。
1543年、大桑城が陥落し、朝倉氏を頼って越前国へ亡命。
1544年8月、朝倉孝景と尾張国の織田信秀の支援を得て、美濃再入国を企てるも敗北。
1546年、頼純と頼芸・道三との間で和議が成立。頼芸の隠退と頼純の美濃守護職就任、道三の娘との婚姻が内容となった。
翌年、急死。道三の策謀ともいわれる。

(5)土岐頼芸

(1502-1582;在1536-1546)
政房の次男。
父・政房に溺愛され、嫡男・頼武を廃嫡を望むまでになる。小守護代・長井長弘に頼芸を擁立させ、家督争いに発展。1517年で一度破れるが、翌1518年には、尾張の亡命していた前守護代・斎藤彦四郎の助力も得て勝利、頼武を越前国へ追放。
しかし、1519年、政房が亡くなると、朝倉氏の支援を受けた頼武に再度敗北する。
1525年、再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠した。このときは近江の浅井亮政の支援を受ける。1530年には頼武を再び越前国に追放し、「濃州太守」と呼ばれて実質的な守護となる。
この頃には、後ろ盾であった長井長弘、長井新左衛門尉は亡くなり、新左衛門尉の子・長井規秀(後の斎藤道三)を重用した。
1532年、新たな守護所・枝広館に拠点を移す。
1535年、枝広館が長良川洪水で流されたため、稲葉山に拠点を移す。
1536年、正式に守護の職に就く。同じころ、頼純側であった六角定頼から娘を娶って六角氏と和睦。
1539年には頼芸との間で和議が成立する。
1541年、重臣・斎藤道三が頼芸の弟・頼満を毒殺する事件が起こり、主従の仲は険悪となる。
1542年、斎藤道三により尾張国へ追放される。織田信秀の支援を得る。
1546年、道三と孝景が和睦し、頼芸は頼純を(次期?)守護職とした。
1549年、信秀と道三が和睦したことによって後盾を失う。
1552年、再び斎藤道三により追放される。最初は妹の嫁ぎ先である近江国・六角氏を頼る。続いて実弟の治頼がいる常陸国、次いで一族の土岐為頼(万喜為頼)を頼り上総国、その後に甲斐国の武田氏に身を寄せる。
最期は織田信長による甲州征伐の際、頼芸の旧臣でもあった稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻り、その半年後に亡くなる。

(8)土岐頼次

(1545-1614)
頼芸の次男。
子に頼勝、頼高、土岐益頼室、頼泰
1547年、父が美濃国を追放された際、まだ幼かった頼次は京都に移住した。
道三と斎藤義龍の争いに際しては義龍側に属し、義龍より本領を安堵される。
その後、大和国の松永久秀を頼った。
1587年、豊臣秀吉に馬廻として仕え、河内国古市郡内に500石を与えられた
1600年、関ヶ原の戦い後、本領を安堵される。以後、旗本として仕える。

(9)土岐氏の一族

[四]成頼の子(政房)の代
定頼()成頼の子。大畑定頼
尚頼()佐良木尚頼
景頼()上坂景頼
頼房()萱津頼房
元頼()成頼の子。船田合戦で敗れ自刃。

[五]政房の子(頼武・頼芸)の代
頼満()政房の七男。島田頼満。島田満基の婿養子に入る。
頼香(-1544)政房の八男。
光建()政房の九男。
頼連()元頼の子。

[六]頼武・頼芸の子の代
頼忠(1543-1603)頼芸の三男
頼元(?-1608)頼芸の四男

[七]頼次の子の代
頼勝(-)頼次の嫡男。
頼泰(?-1677)頼次の三男。
持益(?-1640)頼元の嫡男。

【4】斎藤氏①美濃国守護代家

(1)美濃斎藤氏

鎮守府将軍『藤原利仁』の子の『藤原叙用』が斎宮頭に任ぜられた際、官職名と姓に因ちなんで「斎藤」(斎+藤)を号した。
利仁の系統である越前斎藤氏の分家・河合斎藤氏の景類の子の親頼が美濃目代(国司の代官)となり1220年頃に美濃にやってきたことから、美濃斎藤氏が始まる。

①斎藤親頼(?-?)帯刀左衛門尉
②斎藤親利
(?-1276)美濃国目代
③斎藤頼利
(?-1289)
斎藤利行(?-1326) 六波羅探題奉行人
斎藤利康(?-1401)左衛門大夫。美濃国目代
斎藤経永(祐具)(?-?)
斎藤利明(宗円)(1389-1450)
斎藤利永(?-1460)
斎藤利藤(?-1498)
斎藤利為(?-1505)
斎藤利茂(1506?-1542)
斎藤利直

(2)斎藤経永(祐具)

(?-?)
 法名:祐具。越前守と称す。
 土岐持益に仕える。持益も守護代である富島氏も若年であったため、発言力が高まった。

(3)斎藤利明(宗円)

(1389-1450;在1444-1450)
 経永の子。法名:宗円。越前守と称す。
 子に利永、妙椿、利任、周倫。
 1444年、土岐持益の命で美濃守護代である富島高景を殺害する。一族郎党で蜂起した富島氏と争う。その後、富島氏に代わり美濃守護代となる。
 1450年、富島氏の手によって暗殺される。

(3)斎藤利永

(?-1460;在1450-1460)
 利明(宗円)の嫡男。帯刀左衛門尉、越前守と称す。
 先妻との子に利藤、典明、後妻との子に利国(妙純)、利安(敬仲元粛)、利綱。
 1445年、加納城を築城。
 稲葉山城を修復して居城とする。
 父が暗殺されると、首謀者である富島氏・長江氏と戦い討ち滅ぼした。
 1456年、土岐持益の嫡子持兼が亡くなると、持兼の庶子、亀寿丸を後継としたい持益と、一色義遠の子の成頼を擁立する利永との間で後継者争いが発生した。利永は持益を隠居させ土岐成頼を守護職に据えた。
 1460年、病没。

(4)斎藤利藤

(?-1498;在1460-1480、1487-1496)
 利永の嫡男。帯刀左衛門尉、越前守と称す。
 子に源四郎、日運(毘沙童)。養子に利為。
 叔父の妙椿を後見として守護代の地位に就く。
 妙椿が亡くなると異母弟で妙椿の養子となっていた利国と対立。1480年には合戦にまで発展する(美濃文明の乱)。成瀬の支持を得た利国に敗れて近江の六角氏の元に亡命、更に京都へ赴き幕府の庇護を受けた。
 1487年、土岐成瀬及び利国との間で和議が成立し、美濃守護代職に返り咲く。
 1496年、船田合戦で土岐元頼、石丸利光に与したため、隠居させられる。
 嫡男源四郎は船田合戦以前に早世。その嫡男・斎藤利春は船田合戦で石丸利光に迎えられたものの、1495年、風邪のため亡くなる。
 末子毘沙童は、年少のため助命され、仏門に入り日運と名乗った。

(5)斎藤利為

(?-1505)
利藤の養子。左衛門尉と称す。詳しい出自は不明。
船田合戦では土岐政房・斎藤利国(妙純)に味方した。
合戦後に敗れて隠居を余儀なくされた守護代・斎藤利藤の養子となって名跡を継ぎ、墨俣城主となる。

(6)斎藤利茂

(1506?-1542;在1521-1542)
利為の子。帯刀左衛門尉。
1521年頃より、斎藤利良に代わって土岐頼武のもとで守護代を務める。
1530年、頼武は越前国へ逃れる。
1536年7月、頼芸が美濃国守護となると、頼武の子である頼純を見捨て、六角定頼の仲介により頼芸方に寝返り、頼芸のもとで守護代を務める。
1542年、斎藤道三により土岐頼芸が追放されると没落する

(7)斎藤利直(宗久)

利茂の子か。八郎左衛門。土岐頼純に仕える。

[二]斎藤氏の一族

 典明()利永の子
 利安(?-1508)利永の子
 利綱(1454-)利永の子
 利匡()利安の子
 利賢(?‐1586)利匡の子。
 利三()利賢の子
 宗雄()小野城主。彦九郎入道。

斎藤利安

(?-1508)
利永の子。通称:四郎左衛門。戒名:敬仲元粛。
子に 利匡。
1490年、池田郡白樫城を築く。初代美濃国白樫城主。
1495年、船田合戦。正法寺の戦いで利綱とともに古田氏討伐に向かう。

斎藤利綱

(1454-)
利永の子。
1495年、船田合戦。正法寺の戦いで利安とともに古田氏討伐に向かう。
1496年、城田寺の戦いで墨俣に布陣。
1498年、連歌師宗祇より古今伝授を受け、宗祇から『古今和歌集』を譲り受けた。

斎藤利賢
(?-1586)
利匡の子。
子に石谷頼辰、利三、斎藤三続、蜷川親長室。養子に斎藤親三(蜷川親世の子)。
室は前妻に足利義輝の重臣蜷川親順の娘、後妻は明智光継(宗善)の娘。
美濃国白樫城主。

【5】斎藤氏②持是院家

①斎藤妙椿(1411-1480)
②斎藤利国
(妙純) (?-1497)
斎藤利親(1473-1497)
斎藤又四郎(1482-1499)
斎藤彦四郎(?-1519)
斎藤利良 (1487?-1538)
斎藤正義(1516-1548)

(1)斎藤妙椿

(1411-1480)
斎藤宗円の子。甥である斎藤利藤の後見役を務めた。
幼少時から出家し善恵寺で修行した後、善恵寺に子院・持是院を構えた。
1460年、兄・斎藤利永が死去にともない、甥である新守護代・斎藤利藤を後見するため加納城へ移る。
1467年、応仁の乱では土岐成頼と共に山名宗全の西軍に属し、東軍に属した富島氏・長江氏及び近江・京極氏の軍勢と戦い、これを駆逐する。
 美濃国内の安定を図るとともに、多くの荘園を押領し、主家の土岐氏を凌駕する勢力を築いた。
1469年、近江国内へ進攻。
1471年、西軍の六角高頼を援護するため、東軍の京極政経と守護代多賀高忠軍と交戦、撃破。
1473年、長野氏を援護するため伊勢へ出兵、東軍・梅戸城を落城させる。
しかし、伊勢遠征中、その隙をついて東軍の小笠原家長と木曾家豊が東美濃に侵攻、東美濃の一部を占領される。
1474年、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。だが、妙椿は和睦に反対する。
1477年、土岐成頼・斎藤妙椿が足利義視・義材父子を連れて美濃に下国。応仁の乱の終焉。
1478年、婿の織田敏広に加勢して尾張に出兵
1479年、隠居。
1480年、亡くなる。

(2)斎藤利国(妙純)

(?-1497;在-1496)
 利永の子。叔父・斎藤妙椿の養子となり持是院家2代目当主。法名:妙純。
 子に利親、又四郎、彦四郎、朝倉貞景室、京極高清室。
 妙椿が亡くなると異母兄で守護代である利藤と対立。1480年には合戦にまで発展する(美濃文明の乱)。土岐成頼が妙椿の遺言を重んじて利国を支援したため利国が勝利。利藤は近江の六角氏の元に亡命。
 1487年、幕府の調停の下、利藤との間で和議が成立し、利藤が美濃守護代職に返り咲く。
 1491年、娘(13歳)が朝倉氏景の子・貞景の元へ嫁ぎ、朝倉氏との連携はより強固なものとなった。
 その後、守護土岐成頼は嫡男政房よりも末子元頼を溺愛し、彼に家督を譲ろうと考え、守護代・斎藤利藤と結ぶ。さらに石丸利光を懐柔し寝返らせると、船田合戦へと発展した。
 1495年、妙純に織田寛広の援軍が駆け付け、石丸方が敗北。船田城に火をかけ近江へと逃れた。成頼は城田寺城に隠居させられ、政房に家督と守護職を譲った。
 1496年、家督を嫡男・利親に譲った直後、石丸利光に味方した六角高頼の討伐に出陣した際、不意の土一揆により、利親と共に死亡してしまう。持是院家は困難な時期を迎える。

(3)斎藤利親

(1473-1496;在1496)
 利国の嫡男。持是院家3代目当主。法号:妙親。通称:新四郎。左衛門、大納言、権律師と称す。
 子に利良、女子一人。
 1496年、家督を継いだ直後、六角高頼の討伐に出陣した際、不意の土一揆により、父・利国と共に死亡してしまう。

(4)斎藤又四郎

(1482-1499)
 利国の次男。持是院家4代目当主。幼名:大黒丸。
 子に大黒丸。
 兄の利親が戦死すると、利親の嫡男・勝千代(後の斎藤利良)が幼少であったため、当主の地位を継ぐ。
 1497年、元服し又四郎と名乗る。
 1499年、急死。

(5)斎藤彦四郎

(?-1519;在1499ー1512)
 利国の三男。 持是院家5代目当主。美濃守護代。
 1499年、急死した兄の後を継ぐ。
 1512年、守護土岐政房と対立したため一旦尾張へ逃れ、織田氏の援助を得て再び美濃に戻り、墨俣城に籠城した。しかし、土岐政房と甥の大黒丸(又四郎の遺児)の軍勢に敗れ、再度尾張へ亡命した。
 1518年、後継者争いで敗れた頼芸派を支持し、再び美濃の国へ入国。勝利する。
 1519年、政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景(宗淳)は弟である朝倉景高に美濃出陣を命じ、景高は頼武・利良と共に美濃に侵攻、彦四郎は破れ、戦死したとみられる。

(6)斎藤利良

(1487?ー1538;在1512ー1521)
 利親の子。美濃斎藤氏持是院家6代目当主。幼名・勝千代。法号:妙全。
 1497年12月、祖父と父が戦死した時は、幼少であったため叔父が家督を継ぐ。家督を継いだ叔父・彦四郎は、後に守護・土岐政房と対立し、尾張へ追放された。
 守護・土岐政房が次男・頼芸を溺愛するあまり嫡男・頼武を廃嫡しようとすると、利良は頼武派に与す。
 頼芸派(長井長弘ら)は尾張へ亡命していた前守護代彦四郎と連絡を取り、逆襲の機会を狙った。
 1518年、再び合戦が起こり今度は頼芸派の勝利となった。頼武と利良は、利良の従兄である越前の朝倉孝景(宗淳)を頼って亡命した。
 1519年6月、政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景(宗淳)は弟である朝倉景高に美濃出陣を命じ、景高は頼武・利良と共に美濃に侵攻、頼武は美濃守護に就任する。
 1538年9月、死去。

(7)斎藤正義

(1516-1548)
関白近衛稙家の庶子。幼名・多幸丸。
子に加木屋正次(亀若)。
斎藤道三の養子となり、持是院家の名跡を継いだと思われる。
1532年、土岐頼純方との合戦で日根野弘就に従い初陣を飾る。
1537年、烏峰城を築城する。
1548年2月、配下の久々利城主の久々利頼興の館へ酒宴に招かれて謀殺された。

【6】斎藤氏③道三流斎藤氏

①松波庄五郎(?-1533)
②斎藤利政(道三)(1494-1556)
③斎藤義龍(1527-1561)
④斎藤龍興(1547-1573)

(1)松波庄五郎

(?-1533)
 幼名:峰丸。新左衛門尉と称す。
 子に斎藤道三。
 京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。
 還俗して松波庄五郎と名乗った。
 京都妙覚寺での弟弟子にあたる南陽坊(斎藤利藤の末子)が1516年、美濃常在寺の住職となり、日運を名乗っていたことから、彼を頼り、小守護代の長井長弘家臣となることができた。その際、断絶していた西村氏の名跡を継ぎ、西村勘九郎(正利)を名乗る。
 1518年、長井の名字を与えられ長井新左衛門尉を名乗る。
 家督争いでは、主君・長井長弘は土岐頼芸派に属した。1525年、政権奪取を図り再挙兵。稲葉山城を落とし、反乱は成功した。
 1533年、病没。

(2)斎藤道三

(1494-1556;在1542-1554)
松波庄五郎の子。長井規秀、斎藤利政。法号:道三。
正室:小見の方、側室:深芳野ほか。
子に 義龍、孫四郎、喜平次、日饒、日覚、利堯、利治。土岐頼香室、帰蝶(織田信長正室)、土岐頼純室、斎藤利三正室、伊勢貞良正室、稲葉貞通正室、斎藤利之妻、畠山昭高正室。
 1525年、土岐頼芸が政権奪取を図り再挙兵。道三は長井長弘の下で、大いに貢献し、1530年、土岐頼芸は土岐頼武を越前へと追放する。
 1533年、土岐頼武と内通したとの名目で、長井長弘を殺害。
 1538年に美濃守護代・斎藤利良が亡くなるとその名跡を継ぎ、斎藤利政に改名。
 1541年、道三が土岐頼満を毒殺したことで頼芸と対立。
 1542年に道三は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸を尾張へ追放。
 しかし、織田信秀の後援を得た頼芸は頼純と結び、美濃へ侵攻した。結果、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純は革手城に復帰した。
 1547年9月、織田信秀が稲葉山城攻めを仕掛けたが、道三は織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い)。
 織田信秀と和睦し、1548年に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。
 相羽城主・長屋景興や揖斐城主・揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城に留まっていた頼芸を1552年に再び尾張へ追放した。
 1554年、家督を義龍に譲り隠居。入道し道三と名乗る。
 1556年、長良川の戦いで息子義龍に討たれる。

(2-2)長良川の戦い


(3)斎藤義龍

(1527-1561;在1554-1561)
 道三の長男(庶子)。利尚、高政。母は側室の深芳野。幼名は豊太丸。
 1554年、道三から家督を譲られ、稲葉山城主となる。しかし、道三は、正室・小見の方の子である孫四郎・喜平次らを溺愛した。
 一説には、母・深芳野が土岐頼芸の側室だったために、頼芸の子ではないかと疑われたためだという(江戸時代の創作との説もある)。義龍は身長が六尺五寸(約197cm)ある大男で、馬に乗っても足が付くほどであったという。
 1555年、義龍は叔父とされる長井道利と共謀して孫四郎・喜平次らをおびき出して日根野弘就に殺害させた。
 1556年、義龍は長良川の戦いにて、道三を討ち取る。このとき末弟・斎藤利治が尾張の織田家に亡命する。
 京都の将軍足利義輝より「一色氏」を称することを許される。1559年には上洛し、足利義輝に謁見している。
 1561年、若くして病没。

(4)斎藤龍興

(1547-1573;在1561-1567)
 義龍の子。
 1561年、父・義龍の死により14歳で美濃斎藤氏の家督を継ぐ。同年、森部の戦いにおいて勝利したものの、重臣(斎藤六宿老)の日比野清実、長井衛安らを失う。
 1563年、新加納の戦いで再度侵攻した織田信長と戦い、勝利する。
 1564年、斎藤飛騨守に私怨があった竹中重治と、その舅であり西美濃三人衆の1人・安藤守就によって飛騨守を殺害されて居城の稲葉山城を占拠される。
 1565年、中濃攻略戦。織田家に降った加治田城主・佐藤忠能により、堂洞城主の岸信周が討たれる。
 1567年、稲葉山城の戦い。西美濃三人衆が信長に内応した為、稲葉山城を落とされ、伊勢・長島へと落ち延びる。1570年に始まる長島一向一揆に長井道利と共に参加し、信長に対する抵抗活動を続ける。
 1569年1月、三好三人衆と結託し、信長が擁立した室町幕府第15代将軍・足利義昭を攻めるが、敗退(本圀寺の変、六条合戦)。
 1570年8月には、三好康長、安宅信康、十河存保や石山本願寺法主・顕如らとともに三好三人衆の籠城を支援(野田城・福島城の戦い)。
 その後、縁戚関係にあったことから越前国の朝倉義景の下へ逃れる。
 1573年8月、刀禰坂の戦いに従軍、朝倉軍が織田軍に敗れて刀禰坂で追撃を受けた際、戦死した。

(5)一族

[一]斎藤利堯(1537-?)
 斎藤道三の子。母は深芳野(稲葉一鉄の姉)。通称:玄蕃。
 織田信長に降伏。加治田城を継いだ実弟の斎藤利治の城代となる。1575年、美濃国方県郡福光郷一円を与えられる。
 織田信忠が織田家家督を継ぐと、信忠の家臣となった。
 1582年、本能寺の変の際、岐阜城の留守居であり、中立を保った。
 清須会議後、織田信孝に美濃国が与えられた際、その家臣となり、加治田城主となる。
 稲葉一鉄に勧められて織田信孝から離れ、1583年4月、賤ヶ岳の戦いにより織田信孝が自害して以降は誰にも仕えなかった。
 家臣に加治田衆、長沼三徳、西村治郎兵衛。

[二]斎藤利治
(1541-1582)
 斎藤道三の子。通称:新五郎
 母は小見の方。妻は佐藤忠能の娘・正室院。
 子に 義興ほか。
 義龍により父道三が討たれると、信長を頼る。
 1565年8月織田信長による中濃攻略戦では、佐藤忠能らと共に岸信周の堂洞城、同年9月に、長井道利の関城をそれぞれ攻め落とす。
 堂洞城攻めで佐藤忠能の子・忠康が討ち死にしたため忠能の養子となり、1567年に忠能が隠居すると加治田城主となる。
 1576年、織田信忠が信長から織田家の家督を譲られたことから、信忠の家臣となる。
 1582年、本能寺の変では信忠と行動を共にし、討ち死に。

[二の二]斎藤義興
利治の子。
織田秀信に仕えた。
関ヶ原の戦い後は、池田輝政に1100石で召し抱えられた。

[三]斎藤利之
()
妻は斎藤道三の娘。
子に斎藤元忠。

[三の二]斎藤元忠
(?-1612)
利之の子。
織田秀信に仕えた。

[三の三]斎藤徳元
(1559-1647)
元忠の子。
父と共に織田秀信に仕えた。墨俣城主。

[四]長井道利(道益)
(?-1571)
斎藤道三の弟(諸説あり)。通称:隼人佐。
美濃竹ヶ鼻城主、美濃金山城主。
義龍が可児郡の明智氏を滅ぼすと、明智庄の代官となった。
1567年、稲葉山城が陥落すると、龍興と共に長良川を降り伊勢国に逃れた。
1571年8月、摂津白井河原の戦いで討死

[四の二]道勝
(?-?)
道利の長男(諸説あり)。井上道勝。不破郡今須城主。
父が亡くなると、井上姓に改め信長・秀吉に仕える。

[四の三]頼次
(?-1614)
道利の次男。

[六]時利
(1566-1615)
道利の三男。美濃国田畑城主。 

【7】織田家支配下の美濃

(1)織田信長

(2)織田信忠
 1576年、織田家の家督を継ぎ、美濃東部と尾張国を与えられ、岐阜城主となる。
 美濃衆:森長可、斎藤利治、坂井越中守、佐藤秀方、遠山友忠

(3)織田信孝
 1582年、清須会議後、美濃一国と岐阜城を与えられる。
 翌年、織田信雄に攻められ、自害。

(4)羽柴秀吉
 1583年、賤ヶ岳の戦い。戦後、池田恒興が岐阜城主となる。

【8】美濃の武将

(1)土岐氏庶流

浅野氏
土岐浅野氏は土岐光衡の次男・土岐光時が美濃国土岐郡浅野に居住し、浅野二郎、浅野光時を名乗ったことに始まる。
 肥田氏
 
土岐肥田氏は浅野光時の次男・肥田光房が美濃国土岐郡肥田に居住したことに始まる。船田合戦では、石丸方に与して大敗。肥田氏は衰退する。
1556年、勝行の代に斎藤義龍の攻撃を受ける。勝行、勝隆、勝長、同族の惟任氏当主の惟任康秀とともに戦死。断絶した。
石谷氏
土岐光行の嫡男・土岐国衡(石谷冠者)の子である石谷親衡が美濃国方県郡石谷に居住したことに始まる。後に美濃長屋氏一門が、土岐氏惣領家の命で石谷郷を拠点に定めて、美濃石谷氏と称したので、国衡の系統は京に移住して、足利将軍家の奉公衆として、仕えていた。土岐光政などを輩出。
猿子氏
猿子氏は土岐光行の嫡男・國衡の子・國村の子・国氏の子・国行が猿子国行と名乗り、土岐郡猿子村に拠ったことに始まる。
饗庭氏
土岐光行の次男・饗庭光俊が美濃国大野郡饗庭に居住したことに始まる。
 小弾正氏
 饗庭氏支流。饗庭二郎太郎国綱の三男・小弾正二郎国継、その子・小弾正二郎太郎国家が本巣郡小弾正に居住したことに始まる。
 八居氏
 
饗庭氏支流。饗庭光俊の子・国綱の子・国行を祖として本巣(大野)郡屋井に始まる。
 多治見氏
 
饗庭氏支流。饗庭光俊の子・国綱の子・国純を祖として土岐郡多治見に始まる。多治見国長が討ち死にした後、子の国義は母方の一族を頼り、常陸国に移った。
 郡家氏
 饗庭氏支流。光俊の二男・郡家三郎光継を祖として美濃国大野郡郡家郷には始まる。
 土居氏
 
饗庭氏支流。饗庭国綱の八男・土居国常が方県郡土居に居住したことに始まる。
舟木氏
本巣郡舟木郷。
蜂屋氏
蜂屋氏は源頼光の七代孫にあたる山県三郎頼経の子・頼俊が美濃国加茂郡蜂屋に居住し蜂屋冠者を称したことに始まる。 頼俊の子、蜂屋頼親に嗣子がなく、土岐光定の子・定親を婿養子に迎えたことから土岐氏の庶流となる。
原氏
蜂屋定親の次男・原師親が美濃国恵那郡遠山荘原郷に居住し原彦次郎を称したことに始まる。師親の孫の原秀成が関東管領・上杉憲方の被官として、常陸国信太荘守護代として関東に下向した。
笠毛氏
土岐光定の子・笠毛光教(光時)が美濃国不破郡笠毛に居住したことに始まる。
 大島氏
乾氏
土岐頼貞の子・乾頼郷が池田郡東野郷を拠点とし、土岐氏の居城より北西(乾)の方角であったため名字としたという。
外山氏
本巣郡外山。
今岑氏
土岐頼遠の子である氏光・光行兄弟を祖とする。厚見郡今峯を拠点とする。
岩手氏
長山頼基の子・岩手満頼、その子の岩手頼重が不破郡岩手を拠点とし、岩手氏を称したことに始まる。
 竹中氏
 
岩手氏の分流。
丸毛氏
丸毛氏は清和源氏小笠原氏の一族で、小笠原信濃守長氏の子・兼頼がはじめて丸毛の家名を称し、美濃国多芸郡大塚城を拠点としたのがはじまりとされる。
明智氏
土岐頼貞の九男・九郎長山頼基の子・明智彦九郎頼重の後裔。代々可児郡長山の明智城を拠点とした。
惟任氏
明智頼兼の子・光行は父よりも先立ち、その子の光房も幼かったために叔父の長山頼基の子・頼助を養子に迎えて、明智氏を継がせた。
光行の家系は、光行の生母が豊後国の豊後大神氏一門の娘であったために、惟任氏と称した。
妻木氏
土岐光定の9世の孫である彦九郎弘定がその根拠地であった妻木郷から妻木氏を称したことに始まる。
 土岐頼弘の同母弟・土岐頼熈の子?
 土岐頼弘の子・明智妻木彦五郎頼範の子?
久々利氏
久々利氏は土岐頼清の五男・康貞が可児郡久々利に久々利城を築いて居住し、家督を継いだ康頼が久々利姓を称したことに始まる。
肥田瀬氏
肥田瀬氏は土岐頼清の六男・直氏の子・直詮(肥田瀬宮内少輔)が武儀郡肥田瀬庄を拠点としたことに始まる。
島田氏
島田氏は土岐頼雄の次男・満貞を氏祖とし、美濃国多芸郡島田(嶋田)郷を拠点とした。満基に子がなかったため還暦を過ぎて、土岐政房の庶子・頼満を養子に迎えれたが、頼満が斎藤道三に毒殺され断絶した。
稲木氏
西郷氏
鷲巣氏
土岐頼忠の子・鷲巣之康(忠之)を祖とし、美濃国多芸郡鷲巣を拠点としたことに始まる。
植村氏
田原氏
徳山氏
東漢姓坂上氏の庶流。大野郡徳山を拠点とする。土岐頼忠の子・貞長が徳山氏の養子として名跡を継ぎ、土岐氏の庶流となる。
揖斐氏
土岐頼雄の四男が大野郡揖斐に拠点を置いたことに始まる。
1547年、斎藤道三による攻撃で揖斐城が落城した。
大畑氏
土岐成頼の次男・定頼が1496年、大桑城を改築し、居城とする。子の大桑定雄が大桑城主となると、多治見郷大畑に移住し、大畑定頼と名乗ったことに始まる。
 大桑氏
 
大桑氏は、土岐頼忠の子・頼名とその子・頼重が大桑に居住し、大桑氏  を名乗ったことに始まる。土岐成頼の次男・定頼が1496年、大桑城を改築・居城とし、その子・大桑定雄が大桑城主となった。
 金森氏
 
大桑定頼の次男・大畑定近が一族を連れて美濃を離れ、近江国野洲郡金森  に居住したことに始まる。
 佐良木氏
 
大桑氏の庶流。各務郡更木郷。
城山小里氏
土岐成頼の四男の土岐元頼の子・頼連を氏祖とし、その子・光忠が土岐郡小里に拠点をおき、姓を小里としたことにはじまる。
1534年、光忠が小里城を築城。
青木氏
千石氏
仙石氏は藤原北家利仁流美濃前田氏に属する後藤氏の一族・後藤則明を祖とする。山県郡中村千石谷を拠点とする。久重の代、久重の母方が土岐氏一族であったために以降、土岐氏一門と称した。
鷹司氏
鷹司氏の本姓は藤原氏。近衛家の分家筋で五摂家のひとつ鷹司家の一門であったが、元は公家であったが武家となった。鷹司冬基が美濃守護・土岐頼忠の息女を正室としたことで、守護・土岐氏の縁戚となり美濃国大野郡長瀬村を知行して長瀬城主となった。
深沢氏
土岐郡日吉郷深沢。
小柿氏
本巣郡小柿。
福光氏
本巣郡福光。
下石氏
土岐郡下石。
荻原氏
土岐郡荻原。
神野氏
土岐郡
高山氏
土岐郡高山。
羽崎氏
可児郡羽崎。
気良氏
郡上郡

(2)家臣

安藤氏(伊賀氏、安東氏)
藤原秀郷の9代子孫である伊賀朝光が伊賀氏を名乗る。守就の代より安藤氏に改めた。
席田郡北方城主。
稲葉氏
伊予・河野の一族・越智氏であった通貞を祖とする。通貞は1464年、美濃に移り、守護・土岐成頼に仕え、後に稲葉と改姓した。
安八郡曽根城主。
氏家氏
 宇都宮朝綱の子の公頼が下野国の芳賀郡氏家郷に土着して氏家を名乗ったのが始まりとされる。美濃氏家氏は南北朝時代、氏家重定・氏家重国が北朝方であった斯波氏の配下として、南朝方の重鎮新田義貞を討ち取る功績をあげ、恩賞として美濃に拝領したことに始まる。
安八郡大垣城主。
日根野氏
日根野氏は和泉守護・細川氏と結び、力を蓄えた国人であったが、細川氏が滅んだため、弘就の父・九郎左衛門尉の代に和泉から美濃に移住したものと考えられる。
日比野氏
竹腰氏
宇多源氏佐々木氏流大原氏の分かれといわれ、大原備中守持綱の孫・重綱が、尾張国中島郡竹腰村に移住して竹越七郎を称したことに始まる。
美濃国羽栗郡(尾張国葉栗郡)竹ヶ鼻城を拠点とした。重綱の弟尚綱は大垣に城を築き、その跡は重綱の子重直が継いだ。本巣郡唯越城主・竹腰守久は天文・弘治・永禄の頃に本巣郡に移ったという。また各務郡岩田城は竹腰重綱と竹腰尚綱の居城だったという。
佐藤氏
藤原秀郷の流れを汲む。応仁の乱で京都へ進出して功を挙げた一族が美濃国加茂郡の加治田城主となる。
岸氏
佐藤氏の分流
佐藤氏
北面武士から歌人となった佐藤義清の弟・佐藤仲清の子孫とされる。佐藤氏は代々斎藤家に仕えた。上有知の支配者浅野氏が領地を返上した永正年間以降にその地を与えられて、天文年間に鉈尾山城を築いた。
国枝氏
美濃池田郡本郷を拠点とした。本郷城主。
船田合戦では國枝大和守為助が石丸方の副将として一軍を率いている。
飯沼氏
美濃国池尻城主。
長谷川氏
厚見郡長森。
一柳氏
河野通直(弾正少弼)の子・宣高が父の没後、伊予国を去り、美濃国厚見郡西野村に移ってこの地を領したことに始まる。
堀池氏
林氏
本巣郡十七条城主。
市橋氏
市橋氏は源頼親の末裔と伝わる。頼親の6代孫の成田光治は承久の乱で鎌倉幕府に従った功績から、美濃池田郡市橋庄の地頭に任命され、光治の弟である成田光重が下向し、市橋姓を称したことから始まった。市橋家は利治の時代に一度断絶したが、他家から養子(利信)を迎えて再興した。
村山利重(?-?)
大沢基康
(正秀)()大沢次郎左衛門。鵜沼城主。
野々村正成(?-?)三十郎。
小牧道家(源太)(?-?)
武井夕庵(?-?)
堀田道空(?-?)
梅村良澤
(?-?)

石谷対馬守
(?-1556)
石谷氏最後の当主。長良川の戦いで道三に従軍し、敗北。

[]西美濃十八将

相場国信(饗庭国信)
衣斐光兼
揖斐光親   大野郡揖斐城主
岩手道高   不破郡岩手城主
軽海光顕
国枝正則   池田郡本郷城主
郡家光春
小柿長秀   本巣郡小柿城主
小弾正国家
高橋治平
竹越守久   本巣郡唯越城主
竹中重治
所信国
林道政    本巣郡十七条城主
船木義久
松山正定
八居国清
山岸光信。

(3)本巣郡の武将

[一]舟木氏
 ①頼重(頼直/頼真)()土岐光定の子
 ②頼春(頼玄/頼員)()頼重の子
  光賢()頼重の子
  頼乗()頼重の子
 ③頼夏()頼春の子
 ④頼尚()頼夏の子
 ⑤政尚()頼尚の子
 ⑥政頼()政尚の子
 ⑦光俊()政頼の子
 ⑧光頼()光俊の子
 ⑨光春()光頼の子。
  光教()光頼の子
■不明■
  義久()大学頭[美濃国諸旧記]。

[二]外山氏

■不明■
頼安()
修理[美濃国諸旧記]

外山頼安
()
長良川の戦いに義龍方で参加。

[三]石丸氏
石丸氏は尾張国の出身で斎藤氏の家宰を務めた家柄。
 実光()
 利光()実光の子。斎藤妙椿に仕える。小守護代。船田城主。
 秀道()実光の子。
 利元()利光の子
 利高()利光の子
 利定()
一族
 正信()

石丸利光
(-1496)
実光の子。官位:丹波守。
子に利元、利高、娘(織田寛定室)。
船田城主
斎藤氏の家宰。斎藤妙椿に仕えて応仁の乱を戦う。
1473年10月、伊勢国桑名郡に侵攻、東軍勢が篭る梅戸城を落とす。
文明美濃の乱では斎藤利国を奉じる。
しかし、西尾直教の讒言を受けた妙純から次第に疎んじられるようになると、主家にとって代わることを考えるようになる。
 美濃守護・土岐成頼と美濃に帰還した利藤の誘いに応じて、成頼に与し利藤から許しを得て「斎藤丹波守利光」と名乗り、小守護代に補された。
船田合戦で斎藤利国に敗北し自害。

【4】長井氏
長井秀弘(?-1497)
長井長弘(?-1533)
長井景弘(?-?)
長井利隆(1445-1515)
長井玄佐(?-?)
長井衛安()斎藤六宿老の一。

長井秀弘
(?-1497)
斎藤妙純に仕える重臣。
1497年、土一揆に襲われ主君・斎藤妙純とともに討ち死にした。

長井長弘
(?-1533)
長井秀弘または長井利隆の子。藤左衛門尉、越中守と称す。法名:桂岳宗昌
子に景弘。
白樫城主だったが、守護代・斎藤利親が戦死し、跡を継いだ利良が幼少のためこれを補佐した。このとき稲葉山に館を建て移ったとされる。
常在寺の住職・日運(斎藤利藤の末子)の推挙で油商人であった松波庄五郎を家臣とした。断絶していた西村氏の名跡を継がせ、西村勘九郎(正利)を名乗らせた。
土岐政房の家督争いでは小守護代であった長弘は頼芸を支持した。
1517年の戦いでは敗北するも、翌1518年の戦いに勝利し、頼武を越前に追放する。
1519年、政房が亡くなると朝倉氏が美濃に派兵し、頼武を守護の座に就けた。
1525年、政権奪取を図り再挙兵。利良に代わって新しく守護代に就いた斎藤利茂らと戦い、稲葉山城を攻め取り、同年6月には美濃守護所の福光館も占拠し、反乱は成功した。
1530年、頼武は再び越前に逃れる。
これにより、頼芸が実質的な守護の座に就き、長弘が美濃の実権を握ることになる。
1533年、越前に追放された頼武と内通したとの名目で、長井規秀(後の斎藤道三)に殺される。
子の景弘も、1533年から1534年のうちに病没、または暗殺される。

長井利隆
(1445~1515)
斎藤利藤の子(斎藤利安、または斎藤妙純の子とも)。法名:清康宗所
子に氏家行隆室
竹ヶ鼻城主だったが、守護代・斎藤利親が戦死し、跡を継いだ利良が幼少のためこれを補佐した。
1497年、利良後見のため、竹ヶ鼻城から加納城に移る。

長井玄佐

長井衛安

[五]日根野氏
 弘就(1518-1602)斎藤六宿老。
 盛就(-1585)弘就の弟。
 高吉()弘就の嫡男。
 吉明(1587-1656)高吉の嫡男。
 高継()高吉の次男。

日根野弘就(1518-1602)
 子に 高吉、信頭(円通庵庵主)、吉時、弘正、弘勝、女(浅野氏次室)、養子に可次(金森政近の子)。
 
美濃本巣郡本田城主。齋藤家六家老の一。はじめ斎藤道三に仕え、子の斎藤義龍の代に重用される。1555年、義龍の命で義龍の異母弟である孫四郎、喜平次兄弟を斬殺した。西美濃三人衆とは不仲であったようである。
 織田信長の手によって稲葉山城が落ちると浪人となり、今川氏真に仕えた。今川没落後は浅井長政に仕え、1572年には浅井家を去り、長島一向一揆に参加。1574年、長島一揆が壊滅すると、長島を脱出。やがて織田信長に馬廻として仕える。
 1575年8月の越前一向一揆討伐に参陣、1578年11月の有岡城の戦いにも参陣。本能寺の変時には在京して宿をとっていた。
その後は、秀吉に仕え1584年3月には伊勢に出陣、続いて小牧・長久手の戦いに従軍。1585年7月、四国攻めに羽柴秀次の元で参加し、阿波の脇城を攻める。その後、秀吉の機嫌を損ね一時追放されたが、1590年に許され、小田原攻めでは先鋒を務める。
 1595年、秀次事件後の所領の整理が行われ、弘就の所領は伊勢・尾張・三河内に合わせて16,000石であった。
 1600年関ヶ原の戦いでは、東軍西軍どちらにも付かず、戦後に減封処分を受ける。

日根野盛就
(-1585)
日根野弘就の弟。
1563年4月の新加納の戦いでは日根野弘定と共に織田軍を迎え撃ち、池田恒興・坂井政尚らを破った。
斎藤氏滅亡後は兄弘就ともども浪人となった。今川氏真、浅井長政に仕えた後、長嶋一向一揆に参加した。その後、織田家に仕える。
1585年7月、四国攻めに従軍。8月に死去。

[六]林氏
 通忠()
 通政(道慶)(-1556)駿河守。
 政秀()

林道慶(通政)
(-1556)
通忠の子。
子に政秀。
斎藤道三に仕える。織田氏に仕えた林秀貞(通勝)は従兄弟。

(4)席田郡の武将

[一]安藤氏(伊賀氏、安東氏)
 伊賀光就()
 伊賀定就()
 伊賀定重()定就の子。
 
守就(1503-1582)伊賀貞重の嫡男。
 頼郷(?-?)伊賀定重の次男。
 郷重(?-?)伊賀定重の三男。(十蔵)
 郷氏(?-1582)伊賀定重の四男。
 定治(?ー1582)守就の嫡男
 郷利(?ー1570)守就の次男
 郷春(?-?)守就の三男(勘左衛門)
 守吉(?-?)守就の四男(太左衛門)
 定郷(?-?)守就の五男(二郎左衛門)
 賢郷(?-?)守就の六男(半十郎・蒲生将監)
 郷純(?-?)守就の七男(三右衛門)
 郷忠(?-?)守就の八男

伊賀定重
伊賀定就の子
子に安藤守就、安東頼郷、安東郷重、安東郷氏、金森長近室ほか

安藤守就(1503-1582)
安藤守利(定重)の子。
子に定治、郷利、賢郷、竹中重治(半兵衛)正室、遠藤慶隆(但馬守)正室ほか。
美濃国北方城主。西美濃三人衆の一。はじめ土岐氏、斎藤道三が政権を奪取した後は道三に仕える。長良川の戦いでは義龍方に付く。
斎藤龍興には疎んじられ、諫言を聞き入れられなかったために、1564年、娘婿の竹中重治と稲葉山城を攻撃し、占拠した。龍興が謝罪すると、すぐに返還している。
1567年、信長の美濃侵攻に内応する。1568年の上洛戦、1570年の姉川の戦い、1571年の伊勢長島攻め、1573年の槇島城攻め、同年8月の越前朝倉攻め、1574年の伊勢長島一向一揆の殲滅戦、同年4月の石山本願寺攻めに参加。
1575年、信長が子・織田信忠に家督を譲り、美濃衆のほとんどが信忠の下に付けられた後も、信長直属のままだった。
1577年8月、柴田勝家の援軍として加賀に出陣、1578年5月、羽柴秀吉の中国攻めの援軍として播磨国神吉城攻めへ出陣、同年11月、荒木村重の有岡城包囲戦にも参加。
1580年8月、突如、信長に粛清され、追放処分となる。一説には子・定治がた武田勝頼に内通していたためという。
1582年、本能寺の変が起ると挙兵して北方城を奪う。しかし、北方城の領主・稲葉一鉄(良通)に攻められ敗北し、自害。

(5)各務郡の武将

[一]佐良木氏
 光俊()
大桑頼名の三男。
 兼頼()
 頼政()
 政房()
 政重()
 重頼()
 重房()
 重成()
 重時()
 重継()

[二]竹腰氏
 
重綱()佐々木氏の流れをくむ大原綱高の子。各務郡岩田城主。
 尚綱()綱高の子。
 重直(道鎮)(-1556)重綱の子で、尚綱の養子。摂津守。重吉。
 吉保()重直の弟。柳津城主。(重光)
 尚光(-1564)重直の子。成吉尚光。斎藤六宿老の一。柳津城主。
 尚隆()尚光の子。竹鼻城主。
 直光()
 重時()重直の子。
 重昌()重時の子。(正時)
 正信(1591-1645)重昌の長男。
 成方()
 正晴()
 正辰()
本巣郡
 守久()本巣郡唯越城主。

竹腰重直(道鎮)
(-1556)
重綱の子。摂津守。美濃国大垣城主。
子に竹腰尚光。
1556年、長良川の戦いでは、斎藤義龍方で先陣を務め、討ち死。

竹腰尚光
()
重直の子。
尾張国葉栗郡・柳津城主。斎藤六宿老の一。

(6)山県郡の武将

[一]大桑氏
 頼名()土岐頼忠の子。
 頼重
()頼名の子。
 兼忠()
 定雄()大畑定頼の子。
■不明■
 定雄
()次郎兵衛[美濃国諸旧記]

[二]仙石氏

 基秀()
 久重()基秀の甥
 久盛()
 秀久()久盛の子。

(7)方県郡の武将

[一]石谷氏

 ①親衡()氏祖。土岐光行の嫡男・土岐国衡の子
 ②頼氏()
  光重

[二]土居氏

 ①国常()氏祖。饗庭国綱の八男。
  光宣()右京亮。

(8)厚見郡の武将

[一]今岑氏
氏光
()頼遠の子。
光政()頼遠の子。
■不明■
光次
()源八[美濃国諸旧記]
光之()頼母[美濃国諸旧記]

今岑光次
()
1541年「村山砦の戦いに参加」。長良川の戦いに義龍方で参加。

[二]長谷川氏
 重矩()
 重則()重矩の子
 重成(-1603)重矩の子
 重次()

長谷川重成
(-1603)
重矩の子。
子に重次。
はじめ斎藤龍興に仕える。後に織田信長に仕えた。美濃長森に領す。
本能寺の変後は、羽柴秀吉の家臣となり、1,500石を与えられ黄母衣衆に列した。
1600年の会津征伐では徳川家康に従軍、戦後は徳川家に仕えた。

(9)多芸郡の武将

[一]丸毛氏
丸毛兼頼()
丸毛兼貞()長山頼基の子
丸毛光兼()
丸毛兼利()光兼の子
丸毛利勝()光兼の子

丸毛光兼(長照)
()
別名:兵庫頭

丸毛兼利
()

[二]島田氏
 満貞()土岐頼雄の次男
 満名()満貞の子。
 満清(-1440)満名の子。
 満基(1440-)満清の子。父の死後生まれた。
 頼満(-1541)最後の当主。土岐政房の子。満基の養子に入る。

[三]鷲巣氏
 之康()土岐頼忠の子。
 光敦()土岐政房の六男。
■不明■
 光龍
()六郎[美濃国諸旧記]

(10)石津郡の武将

[一]高木氏

(11)安八郡の武将

[一]稲葉氏
 
通貞()
 通則(1465-1525)通貞の長男
 良通(一鉄)(1515-1589)通則の子
 重通()良通の子
 通重()重通の子
 道通()重通の子
 貞通()良通の次男(嫡男)
 典通()貞通の子
 通孝()貞通の子
 直政()良通の三男
 方通()良通の四男

稲葉通則(1465-1525)
通貞の長男。
子に 通勝、通房、通明、豊通、通広、良通、深芳野。
1525年、石津郡・牧田に駐屯していた浅井亮政に対し出兵した主君・土岐頼芸に従い出陣。頼芸が浅井軍の急襲を受けて窮地に陥ると、その救援に赴いて頼芸を逃したが、長男の通勝をはじめとする息子たちや家臣数十人とともに討ち死にした。
生き残ったのは末子・良通のみであったという。

稲葉良通(一鉄)(1515-1589)
通則の六男。
子に重通、貞通。
子に幼少時に崇福寺で僧侶となり、快川紹喜の下で学ぶ。父と5人の兄達全員が牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したため、還俗。家督と曽根城を継いだ。西美濃三人衆の一。はじめ土岐頼芸に、次いで斎藤道三に仕える。長良川の戦いでは義龍方に付く。
1561年の森部の戦い、1562年の軽海の戦いに出陣。
しかし、1567年、信長の美濃侵攻に内応する。
1569年、大河内城攻撃に出陣。
1570年、姉川の戦いの際は、1,000の兵を率いて先陣を務めた。
1571年の伊勢長島攻め、1573年の槇島城攻めに参加。
1574年、入道して一鉄と号す。
1575年、長篠の戦い、越前一向一揆攻め、美濃岩村城攻めに参加
1576年、天王寺の戦いに参加
1577年、紀州征伐、加賀一向一揆攻め、播磨国神吉城攻めに参加
1578年、有岡城の戦いに参加。
1579年、家督と曽根城を嫡子の貞通に譲り、美濃清水城に移る。
1580年、安藤守就が北方城を追われ武儀郡谷口に蟄居した後、織田信長は一鉄に安藤氏の旧領を与えた。
1582年、本能寺の変が起ると安藤守就が挙兵して北方城を奪うも、一鉄はこれを奪還する。
同年、清洲会議後、織田信孝が岐阜城を相続。一鉄は信孝と対立を深める羽柴秀吉に従うようになる。
1583年、賤ヶ岳の戦い。信孝から城下の焼き討ちを受ける。柴田勝家方の不破氏の西保城を攻めた。
1584年、小牧・長久手の戦いに参加。
1588年、美濃清水城にて死去

稲葉重通(?-1598)
良通の庶長子。
子に牧村利貞、通重、道通、稲葉正成正室、一宙。養女に福。
はじめ織田信長に馬廻として仕え、1万5000石を与えられる。
庶子のため家督は弟・貞通が継ぐ。
1588年、父の死後、重通には別に美濃国・清水に1万2000石を与えられた。
1584年の小牧・長久手の戦い、1587年の九州平定、1590年の小田原征伐に参加。
1598年、死去。

稲葉通重(?-1618)
重通の子。
1598年に父が死去したため、家督を継ぐ。
1600年の関ヶ原の戦いでは、叔父の貞通と共にはじめ西軍に属し、後に東軍に寝返った。そのため、戦後に所領を安堵された。
しかし、1607年、酔った勢いで蛮行を働き、改易され、常陸国筑波に流罪とされた。清水藩は廃藩となった。
嫡男の稲葉通勝は同族の稲葉正勝の家臣となっている。

稲葉貞通(1546-1603)
典通、赤座弥助室、中坊秀政正室、秀方、通孝、大学、玉雲院、柴田勝豊正室。
1579年に家督を譲られ、美濃・曽根城主となる。
1583年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に与したが、美濃は信長の三男・織田信孝の支配下にあったことで躊躇したためか、長男・典通に家督を譲っている。
1587年の九州征伐に典通と共に出陣するが典通が秀吉の機嫌を損ねて蟄居を命じられたため、再び家督の座についた。
1588年、美濃国・郡上八幡城主となり4万石を与えられる。
1600年、関ヶ原の戦いでは、当初は西軍に属して尾張国犬山城を守備したが、後に東軍に寝返り、東軍の遠藤慶隆、金森可重らが攻撃している郡上八幡城の救援に向かう(八幡城の合戦)。長島城の守備を経て、加藤貞泰と共に西軍の長束正家が守る水口岡山城攻略戦に参加。
美濃国郡上藩4万石から豊後国海部郡、大野郡、大分郡に領地を持つ5万60石余の臼杵城主として初代臼杵藩主となった。

[二]氏家氏
 ①公頼()
 ②公信()
 ③仲綱()
 
④重定()
 ⑤重国()
 
⑥定国()
 
⑦重起()
 ⑧盛国()
 ⑨泰国()
 ⑩
行国()
 ⑪
行隆()
 ⑫直元(卜全)(1512-1571)氏家氏12代当主。
 ⑬直昌(?-1583)直元の子。氏家氏13代当主。
 ⑭行広()直元の子。氏家氏14代当主。
 行継()直元の子
 元高()行継の子

氏家直元(卜全)(1512-1571)
 子に 直昌、行広、行継。
 西美濃三人衆の一。はじめ土岐頼芸に、次いで斎藤道三に仕える。1567年、信長の美濃侵攻に内応する。
 1569年の大河内城攻めや、1570年の姉川の戦いなどに参加。
 1571年、長島の戦いの際、六角一族の佐々木祐成に討ち取られた。

氏家直昌(?-1583)
直元の子。
子に重近。
1571年、長島一向一揆攻めで父が戦死したため、家督を継いだ。
1573年、一乗谷城の戦いでは旧主・斎藤龍興を討ち取るという武功を挙げる。
石山合戦や荒木村重討伐などに参加。
1583年、賤ヶ岳の戦いでは、堀尾吉晴にされ、秀吉方に付く。
同年、死去。

氏家行広(1546-1615)
直元の子。
1583年、兄が死去したため家督を継ぐ。美濃国三塚1万5,000石に移封される。
1590年、伊勢国桑名2万2,000石に加増移封。
1600年、中立の立場を取ろうとするが、やむを得ず西軍に付く。結果、関ヶ原の戦い後、家康の命で改易されて浪人となる。
1614年、大坂の陣に豊臣方で参加。翌年、大阪城落城の際に自刃。

氏家行継(1551?-1615)
直元の子。
子に 元高、細川興秋室。
1583年の賤ヶ岳の戦い、1584年の小牧・長久手の戦いに参加。近江国・伊勢国などに1万5000石の所領を与えられた。
関ヶ原の戦いでは西軍に与し、戦後、改易された。
しかし、翌年に許されて、細川忠興の家臣となり6000石を与えられた。

[三]青木氏

青木重直
(1529-1613)
重藤の子。
子に一重、小寺則頼室、重経、直継、可直
土岐頼芸、次いで斎藤道三に仕えた。
1559年に織田信長が初めて上洛した際に斎藤義龍の命令で信長の命を狙ったという。
斎藤氏滅亡後は織田氏に仕え、丹羽長秀の与力。山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに参加した。後に豊臣秀吉の家臣となって、御伽衆に列した。
1593年、摂津国豊島郡のうち1,400石を与えられ、1595年、菟原郡のうち360石を加増された。

青木一重
(1551-1628)
重直の嫡男。
養子に 正重、重兼。
はじめ父の下を離れ、今川氏真に仕えた。
1570年、徳川家康に召されて仕えることになる。姉川の戦いで真柄直隆の子・隆基(十郎)を討ち取るという武功を上げる。
1573年、三方ヶ原の戦いでは、弟・重経が戦死。
同年出奔し、父・重直が仕えていた丹羽長秀のもとに任官した。
山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに参加。
長秀が死去すると、羽柴秀吉に仕え、後に黄母衣衆に選抜された。
同年、摂津国豊島郡内に知行を与えられ、備中国・伊予国内などで加増されて、併せて1万石を領し、麻田城主(麻田陣屋)となった。
1600年、七手組頭として大坂城の一方を守備。戦後も大坂城に出仕した。
1614年の大坂冬の陣でも、七手組頭として大坂城の一方を守備した。
京都所司代・板倉勝重に、「もし大坂に戻れば(家康に近侍していた)弟の可直を誅殺する」と警告されたため、大坂夏の陣には参加しなかった。
戦後、剃髪し宗佐と号して隠棲した。
 二条城に召し出され、家康に再び仕えることになったが、減封はなく、父の遺領(約2,000石)を継ぎ、摂津豊島郡、兎原郡、備中国後月郡、浅口郡、小田郡の5郡、および伊予国における所領、併せて1万2,000石となった。後に可直に2000石を分与して、1万石となった。可直はそれまでの所領を併せて5千石の旗本となった。
幕府への配慮からか、夏の陣で一重の代理で指揮を執っていた養嗣子・正重は病気を理由に廃嫡、代わりに可直の子である重兼を新たに養嗣子として迎えて、跡を継がせた。可直の家は次男の直澄が相続した。

[四]西尾氏
 広教()
 直教(-1497)広教の子
 秀教()

西尾直教
(-1497)
広教の子。兵庫助。
子に秀教。
斎藤氏の重臣。
船田合戦終結後、妙純の近江遠征に加わったが、土一揆に襲われ妙純・利親父子と共に戦死した。

[五]飯沼氏
 長常()
 長就()
 長継()
 長実()
 長資()
 長重()

飯沼長継
(-1583)
長就の子。
美濃国安八郡池尻城主。
はじめ斎藤氏、続いて織田氏に仕えた。
1582年、本能寺の変後、長継は羽柴秀吉に仕え織田信孝と対決する。
しかし、秀吉に信孝との内通の疑いをかけられ、大垣城にて処刑され、所領は没収された。

飯沼長実
(-1600)
長継の子。
1583年、父が秀吉に処刑されたため、家督を継ぐ。
前田利家に仕えたが、殺人を犯し出奔。その後は豊臣秀吉、織田秀信に仕えた。騎馬隊長・大番頭として9千石を給した。
1600年、関ケ原の戦いでは、主君・秀信と共に西軍に属し、岐阜城の戦いにおいて、岐阜城外で戦死した。

飯沼長資
(1580-1600)
長実の子。
長資は武勇に優れ「岐阜四天王」の一人に称されている。
1600年、関ケ原の戦いでは、主君・秀信と共に西軍に属し、米野の戦いにおいて戦死。

(12)不破郡の武将

[一]笠毛氏
①光教()氏祖。土岐光定の子。
②光清
③光吉
④宗安()近江守
 益季()弟。近江守
 光経()弟。修理大夫
⑤満光
⑥康光
 康保()弟。蔵人

[二]岩手氏
①満頼(頼行)()
②頼重(光明)()
③重朝()岩手成基(垣富蔵人)?
④重久()岩手信頼?
⑤信忠()
⑥信久(-1556)信忠の子
 信俊()信忠の子
⑦信冬(長誠入道)()信久の子
■不明■
 道高
()弾正。岩手城主。

岩手信久
(-1556)

岩手信冬(長誠入道)
(-1558)
信久の子。
菩提山城の戦いで討死。

[三]不破氏
 光治()
 直光()
 広綱()

[四]富島氏
 
吉中()守護代
 氏仲()
 又五郎()
 光仲()
 為仲()応仁の乱に東軍として従軍
 高景(-1444) 長江重景の子。富島氏の養子として名跡を継ぐ。

[五]長江氏
 秀景()義景の孫。
 師景()秀景の子。
 明義()秀景の子。師景の弟。
 胤明()明義の子。長屋行景の父、
 ①頼景()今須長江氏の祖。秀景の子。不破郡松尾山に城を築く。
 ②景助()頼景の子。
 ③重景()景助の子。
 ④高景(-1444)重景の子。富島氏の養子として名跡を継ぐ。
 景秀(-1468)高景の子。
 元景(-1468)景秀の子。
 景次(-1468)
 利景()景秀の子。尾張に逃れ、桑下城を築く。
 景則()利景の子。
 景隆()景則の子。

[六]長屋氏
 行景()長江胤明の子。相模国長屋を拠点とした。
 ①景頼()美濃長屋氏の祖。行景の子。美濃国不破郡垂井に移住。
 ②宗秀
 ③宗房
 ④景家
 ⑤景国
 ⑥景盛
 ⑦景元(-1495)舟田合戦で戦死
 ⑧景教()景元の子
 重景()景元の子
 正重()景元の子
 ⑨景興()景教の子
 道重()重景の子
 定重()道重の子
 ⑩景重()景興の子。道重の養子。
 景直()景興の子。

(13)池田郡の武将

[一]乾氏
 頼郷
(道謙/周済)
 頼宣()頼郷の子
 頼久()頼宣の子
 光忠()頼宣の子
 頼冬()頼宣の子
 益久()頼久の子
 益宣()益久の子
 宣重()益宣の子
 重頼(-1522)宣重の子
 和宣(-1570)重頼の子。
 和信(1544-1586)和宣の嫡男。山内一豊に仕える
 宣光()和宣の次男。山内一豊に仕える
 和三()和宣の三男。山内一豊に仕える

[二]市橋氏
 ①光重
 利治
 利信
()利治の養子
 利尚
()利信の子
 長利
(1513-1584)利尚の子
 長勝()

[三]国枝氏
 ①守長
(-)
 ②守房(-)守長の子。
 ③為助(-)守房の子。3代当主。大和守。舟田合戦で石丸方の副将
 ④正助
(-)為助の子。4代当主。大和守。
 ⑤宗龍(-)5代当主
 貞次(-)宗龍の兄弟
 秀守(-)宗龍の兄弟
 正泰(-)宗龍の兄弟
 ⑥重光
(-1543)6代当主
 助光(-)重光の弟
 ⑦重元(-)7代当主。
 重高(-)重元の子。
 ⑧政森(-)重元の子。修理亮。8代当主。
 重泰(-)重元の子。
 泰光(-)重元の子。
■不明■
 正則
()大和守。本郷城主。西美濃十八将のひとり。

[四]堀池氏
 定治()
 元盛()斎藤義龍の元で奉行を務める。

堀池定治
()
揖斐光親の後の揖斐城主。

堀池元盛
()
斎藤義龍家臣。奉行人。

(14)大野郡の武将

[一]饗庭氏
 ①光俊(-1221)氏祖。土岐光行の次男。『承久の乱』で戦死。
 ②国綱()光俊の子
 光継()光俊の子。郡家光継。
 ③国頼()国綱の子
 国継()国綱の子
 国行()国綱の子。八居三郎国行。
 国澄()国綱の子。多治見国長の父。
 ④国信()国頼の子
 国清()国行の子。八居三郎太郎国清。
 国成()国澄の子
■不明■
 元明(頼政)()饗庭氏の後裔
 国信()掃部助[美濃国諸旧記]。西美濃十八将のひとり。

饗庭国綱
土岐(饗庭)光俊の子。
子に国頼(饗庭弥太郎)、国継(小弾正二郎)、国行(八居三郎)、国澄(
又太郎)

[二]揖斐氏
 ①詮頼()土岐頼雄の四男
 ②友雄()詮頼の子
 ③基春()友雄の子
 ④基信(?-1547)基春の子
 ⑤光親(?-1556)
 光就(?-?)光親の子。
 ⑥光兼(?-?)光親の子。

揖斐基信
(?-1547)

揖斐光親
(?-1556)
土岐政房の五男。基信の養子。
揖斐城主(1万貫)。

揖斐光兼
()

[三]鷹司氏
冬明
政光

鷹司冬明
鷹司政光

[四]竹中氏
①重氏(重道)
()岩手重久の子
②重元
重基)()重氏の子。大野郡大御堂城主。
③重治
()半兵衛。重元の子。
 重行()重元の子。
 重矩()重元の子。
 重広()重元の子。
④重門()重治の子。
⑤重常()重門の子。
 重次()重門の子。
 重利()重門の子。
⑥重高()重常の子。
重氏系統
 重光()重氏の子
 重利(1562-1615)重光の子
 重定()重光の子
 重義(-1634)重利の子
 重房()重定の子
 重長()重定の子

竹中重元
(1499-1562?)
重氏の子。遠江守。
子に 重行、重治、重矩、重広。
美濃の土豪。大野郡大御堂城主。
土岐氏、斎藤氏に仕える。
1558年、子の重治と共に菩提山の岩手弾正忠誠を攻め破り、菩提山城を築いて居城とした。6千貫を知行した。
1559年、不破光治の襲撃を受けたが、家臣竹中善左衛門の活躍によってこれを退けた。
1560年、六角義治の求めに応じて近江に出陣、浅井氏と戦った。
1562年、死没。

[四]徳山氏
 貞信()氏祖。
 貞長(?-1438)徳山氏の養子として名跡を継ぐ。土岐頼忠の子。
 貞次(?-1476)貞長の子。
 貞友(?-?)貞長の子。
 貞輔(?-?)貞次の子。
 貞孝(?-?)貞輔の子。
 則秀(1544-1606)貞孝の子。

(15)武儀郡の武将

[一]佐藤氏
 清信(-1563)初代美濃国鉈尾山城主。
 秀方(-1595)
 清重()
 方政()

佐藤清信
(-1563)
通称六左衛門尉、将監。
子に佐藤秀方、遠藤慶胤室。
美濃国鉈尾山城主。

佐藤秀方
(-1594)
清信の子。美濃国鉈尾山城主

(16)加茂郡の武将

[一]蜂屋氏
 定親()蜂屋氏の養子として名跡を継ぐ。土岐光定の子。
 定経()定親の子
 光経()定経の子。
 頼員()定経の子。
 定秀()定経の子。
 定房()光経の子。
 光房()光経の子。定房の弟。
■不明■
 頼隆()兵庫頭[美濃国諸旧記]

[二]佐藤氏
 清房()
 忠能(-1578)清房の子。加治田城主。
 秀清()清房の子。
 忠康()
 昌信()
同族
 信則(1495-1577)
 堅忠(1548-1613)伊深佐藤氏の祖。信則の子。忠能の養子。
 継成()
 吉次()
 成次()
 信成()
 吉成()
同族
 信連()

佐藤忠能
(-1578)
清房の子。
子に忠康(信氏)、昌信、斎藤利治室、佐藤継成室、仁甫竜義大姉、岸信周養女(八重緑)。養子に斎藤利治。
美濃斎藤氏に仕え、斎藤道三方として土岐頼芸の追放に加わるが、弘治2年(1556年)の道三に子の斎藤義龍が反乱した長良川の戦いでは義龍方として従軍した。加茂郡・武儀郡で4,389貫の所領を得た。
織田信長の侵攻に備えるため、関城主・長井道利、堂洞城主・岸信周の三者で盟約を結ぶ。しかし、一方で忠能父子は家臣の梅村良澤を遣わして、信長に内通していた。
1565年、織田信長が美濃国に侵攻すると織田側に与し、そのために岸信友に嫁がせた娘は磔にされ、加治田城に面した長尾丸山に晒された。
1567年、信長の命で斎藤利治を養子として加治田城を任せ、自らは隣村の伊深村に隠居する。
主要な家臣
長沼三徳、西村治郎兵衛、湯浅新六、井戸宇右衛門、梅村左平治、白江権左衛門、横井兵助 、清水九郎兵衛、吉田弥三、田中七郎右衛門、小森半平

佐藤忠康
()

佐藤昌信
()

佐藤信則
(1495-1577)
法名:道本。
子に堅忠。
初め斎藤道三および、その子の斎藤義龍に仕えた。その後、佐藤忠能と共に織田信長の家臣となる。美濃国加茂郡伊深村に城を築く。

佐藤堅忠
(1548-1613)
信則の子。忠能の養子。法名:宗雪。
子に継成、吉次。
斎藤利治が城主になるとその同族として行動した。
本能寺の変で斎藤利治が討死した後は、美濃斎藤氏の斎藤利堯に仕えた。

佐藤継成
(1570-1634)
堅忠の子。
子に成次、信成、吉成

[四]岸氏
 信周(?-1565)
 信貞(?-1565)
 信房(1534-1565)信周の子。孫四郎。
 信清()
 信友()

岸信周
(-1565)
佐藤信連の子。佐藤秀胤。美濃国堂洞城主。
子に 信房、信清、信友。
1542年に斎藤道三が主君・土岐頼芸を大桑城から追放した戦に従軍。
1547年、加納口の戦いで尾張国の織田信秀の甥・織田新十郎を討ち取った功により、道三から感状を受けた。
1556年、長良川の戦いでは義龍方で参戦。義龍の死後は子の龍興に仕えた・
1565年、関城主・長井道利、加治田城主・佐藤忠能と中濃三城盟約を結ぶ。堂洞合戦において織田氏に寝返った佐藤忠能と戦う。長井道利の援軍も撃退され、堂洞城は完全に包囲される。自刃。

[五]梅村良澤
美濃国加茂郡加治田城下の住人。

(17)可児郡の武将

[一]久々利氏
 康頼()氏祖。土岐頼清の五男・康貞の子。
 春頼()
 頼忠()
 頼興(-1583)

[二]明智氏
 頼兼()土岐頼清の次男。
 ①頼重()土岐頼貞の九男・長山頼基の子。頼兼の養子。
 ②頼篤()頼重の子。氏王丸
 ③国篤(-1427)
 ④頼秋()
 頼秀()
 頼弘()
 頼定()
〇頼尚()
〇頼明()頼尚の子。彦九郎。
 光継(1468-1538)頼尚の子。=頼典?
 光綱(1497-1535)光継の子。 
 光安(宗寂)(1500-1556)光継の三男。光秀の叔父で育て親。
 光安(1516-1556)光継の四男
 光秀(-1582)光綱の子。
 光慶()光秀の子。

明智光継
(1468-1538)
頼尚の子。頼典と同一人物とされる。駿河守、一関斎宗善。官位:民部少輔。
室は 武田信豊娘。
子に光綱、山岸光信、光久、原光広、明智光廉。娘(岸信周室)、娘(岸信周後室)、小見の方、娘(進士信周室)。
東美濃明智長山城主(1万5000貫)
小見の方を道三に人質という形で差し出している。小見の方は道三正室となって、織田信長正室である濃姫を出産する。

明智光綱
(1497-1535)
頼尚の子。側室の子。
光秀の父(諸説あり)。
父・光継の隠居に伴い家督を継ぐ。
斎藤道三に攻められ討ち死にしたという。

明智光安
(1500-1556)
頼尚の子。幼名: 亀寿丸。法名:宗寂。官位:兵庫頭
正室である武田信豊の娘との間の子。
光綱の死後、甥・光秀の後見者となる。
1556年、揖斐光就・長井道利らに攻められ、弟・光久らとともに自刃する。

明智光安
(1516-1556)

[三]惟任氏

 ①光行()土岐(明智)頼兼の子。
 ②光房()
 ③光元()
 ④光高(光重)()
 ⑤光頼()
 ⑥頼秀()
 ⑦康秀 () 頼秀の子
 ⑧秀光()

(18)土岐郡の武将

[一]浅野氏
 ①光時()氏祖。土岐光衡の子
  光清()光時の長男。浅野太郎。
  光房()光時の次男。肥田光房。肥田次郎。
 ②光忠()光時の三男。肥田光忠。浅野三郎。
  光仲()光時の四男
  光朝()光時の五男。浅野八郎。
  光純()光時の六男。浅野九郎。
 ③光盛()光忠の子。肥田光盛。
 ④国盛()光盛の子。
  良盛()光盛の子。
 ⑤頼隆()国盛の子。 国衡の弟。
 ⑥頼長()長隆。
  長直
  長盛
 ⑦詮長(-1399)土岐直氏の子。
 ⑧長範
 ⑨持長()長保。
  光同()

[二]肥田氏
 ①光房()氏祖。浅野光時の子
 ②光保()
  有光()光保の長男。
  重光()光保の次男。
 ③光慶()光保の三男。浅野小三郎。
  光長()光慶の子。
 ④光興()光慶の子。
  光洲(みつくに)()
  光康()
  光勝()
  勝道()
  勝富()
  頼勝()
  勝行(-1556)浅野弥三郎
  勝隆(-1556)
  勝長(-1556)断絶。
■不明■
  家鎮()玄蕃[美濃国諸旧記]
中津川肥田家
  国衡()国盛の子。 中津川肥田家の祖。
  国村()
  国氏()
  国定()

[三]多治見氏
 国長()饗庭国澄の子。四郎次郎、蔵人、左衛門尉。
 国慶(国頼)()饗庭国成(国長の兄弟)の子
 慶孝(頼孝)()国慶の子
 国義()国長の子
 国玄()国長の子
■不明■
 光清(国清)()修理進[美濃国諸旧記]。

[四]大畑氏
 定頼()
 定近()金森定近

[五]妻木氏
 
①弘定()氏祖。
 ②広俊()
 ③広美()
 ④頼安()
 ⑤広忠(1514-1582)土岐郡妻木城主。12代当主
  範熈()頼安の子。勘解由左衛門[美濃国諸旧記]。
 ⑥貞徳(1526-1620)伝兵衛
 ⑦頼忠()貞徳の子。雅楽助
  頼久()貞徳の子
  頼通()貞徳の子。
 ⑧頼利(1585-1653)頼忠の子。
  頼遠()頼忠の子。
  康広()頼忠の子。
 ⑨頼次(1620-1658)頼利の子。
  頼長()頼利の子。
  幸広()頼利の子。

妻木広忠

妻木貞徳

妻木頼忠

[六]猿子氏

猿子国基
()

猿子国宗
()
土岐国村の四男。
主計[美濃国諸旧記]。
長良川の戦いに義龍方で参加。

[七]新城小里氏(尾里氏)
 国定()土岐国村の次男。
 国平()国定の子
■不明■
 頼長
()出羽守[美濃国諸旧記]

[八]城山小里氏
 頼連()土岐元頼の子
 光忠(光親)()頼連の嫡男。
 光次(?-1572)
 光明(1536-1601)
 光親(?-1621)

(19)恵那郡の武将

[一]原氏
 
師親()氏祖。蜂屋定親の次男。
 秀成
 憲秀
 景秀
 治頼()土岐政房の三男。景成の婿養子。
■不明■
 光広
 久頼

[二]日比野氏
 清実(-1561)斎藤六宿老。

日比野清実
(-1561)
通称:下野守。
斎藤六宿老の一。
森部の戦いで討ち死。

(20)郡上郡の武将

東氏は千葉氏の庶族。千葉常胤の六男・東六郎大夫胤頼が、下総国東庄を領したために東氏を名乗ったのが始まり。東胤行の代に下総系東氏と美濃系東氏(郡上東氏)に分かれる。

東氏
①東胤行(?-1263)郡上東氏初代。
②東行氏(1228?-1300?)胤行の子。郡上東氏2代。
③東時常(?-?)行氏の子。郡上東氏3代。
④東氏村(?-?)胤行の子。郡上東氏4代。
⑤東常顕(1304?-1371?)氏村の子。郡上東氏5代。
⑥東師氏(1343-1426)常顕の子。郡上東氏6代。
⑦東益之(1376-1441)師氏の子。郡上東氏7代。
⑧東氏数(?-1471)益之の子。郡上東氏8代。
⑨東常縁(1401?-1484?)益之の五男。郡上東氏第9代。
⑩東常和(?-1525)常縁の二男。郡上東氏第10代。
⑪東常慶(?-1559)郡上東氏第11代。最後の当主。
東常尭(?-1586)常慶の子。

東常和
(?-1525)
常縁の二男。官位:左近将監・下野守。法号:素安。
子に常慶、素経。
郡上東氏第10代。胤行以来の和歌を「東家代々集」にまとめた。

東常慶
(?-1559)
 常和の子。
 子に常尭、女(遠藤盛数正室、のち長井道利正室)
 郡上郡篠脇城主。
 1540年、越前の朝倉孝景の兵が領内に侵入、これを撃退する。これを機に赤谷山城に拠点を移し、篠脇城は廃城となった。
 1541年、阿千葉城の鷲見貞保を攻め滅ぼす。
 実子の常堯が悪逆非道だったため、遠藤盛数を婿養子に迎え、家督を継がせることとした。一方、常堯にも遠藤胤縁の娘と縁組させようとしたが、胤縁は常堯の非道を理由に同意しなかった。常尭はこれを恨みに思う。
 1559年、常尭が家臣長瀬内膳に命じ、遠藤胤縁を射殺する。
 遠藤盛数は兄の弔い合戦を大義名分に赤谷山城を攻め落とし、常慶は戦死した。
 常堯は逃げ延び、抵抗を続けたが1586年、天正大地震の際、飛騨の帰雲城の崩壊に巻き込まれ死去した。

[二]遠藤氏

 遠藤氏は東六郎大夫胤頼の舅、遠藤左近将監持遠を祖とする。持遠の子・遠藤盛遠は出家し、真言宗の僧・文覚上人となる。文覚の子・遠藤左近将監盛広は鎌倉幕府御家人となり、その子・遠藤兵庫頭盛正は頼朝の死後、美濃国に移り住み、土岐判官代光行に仕えた。
その子・遠藤太郎右衛門尉治盛は、美濃国厚見郡に移り、その子・遠藤小太郎盛勝は土岐光定・頼貞に仕えたという。
 美濃遠藤氏は、東氏家臣として関東に下っていたが、盛胤の代に美濃に帰ったことに始まる。盛数の代に東氏を攻め、家督を奪い取って代わる。

持盛( ?-?)
盛隆( ?-?)
①遠藤盛胤( ?-?)
②遠藤胤好( ?-?) 盛胤の子。郡上郡木越城主。
③遠藤胤縁( ?-1559) 胤好の長男。
④遠藤胤俊(1546-1570) 胤縁の長男。郡上郡木越城主。
⑤遠藤胤基( 1548-1594) 胤縁の次男。郡上郡木越城主。
遠藤胤重(?-?)胤縁の三男。
遠藤胤安(?-1587)胤縁の四男。
⑥遠藤胤直(?-?)胤重の子、胤基の養子。

①遠藤盛数( ?-1562) 胤好の次男。郡上郡八幡城主。
②遠藤慶隆(1550~1632)盛数の子。郡上藩初代藩主。
遠藤慶胤(?~1600) 盛数の子。
遠藤胤直( ?-1604) 胤重の子。胤基の養子。
遠藤慶勝(1558~1615) 慶隆の子。

遠藤盛胤

遠藤胤好
( ?-?)
遠藤盛胤の嫡男。通称:新兵衛。
子に胤縁、盛数。
美濃遠藤氏二代。郡上郡木越城主。

遠藤胤縁
( ?-1559)
遠藤胤好の嫡男。通称:新兵衛。法号:祐心
子に胤俊、胤基、胤重、胤安。
美濃遠藤氏三代。郡上郡木越城主。
1559年、東常堯により射殺される。

遠藤盛数
( ?-1562)
胤好の次男。通称:六郎左衛門。
妻は東常慶の娘。
子に 慶隆、慶胤、慶直、見性院 (山内一豊室)?。
郡上郡八幡城主。斎藤義龍に仕える。
1559年、東氏を滅ぼすと八幡城を築いた。
盛数は胤縁の子・胤俊に木越城主を継がせ、所領のうち半分を分与する。
1561年、織田信長と齋藤龍興の戦いでは、齋藤方で墨俣に出陣。砦を築こうとする織田方の佐久間信盛や柴田勝家を敗退させる功績を立てる。
1562年、討ち死。

]遠藤慶隆(1550~1632)
盛数の長男。
子に慶勝、娘(金森可重正室)、女(遠藤胤直室)、女(三木直綱室)。養子に慶利。
1562年、父・慶隆が死去し、家督を継ぐ。
1564年、竹中重治が稲葉山城を奪取。慶隆が避難している期に乗じ、木越城主の遠藤胤俊が八幡城を奪取した。道利の援軍を得ると、胤俊は和睦を申し出、慶隆は八幡城を返還された。
1567年、稲葉山城が落ち、斎藤氏が滅亡すると、鷲見らが謀反し、八幡城を落とそうとしたが、慶隆はこれを撃退する。その後、信長に降り、領土は安堵された。
1570年には岐阜参陣。姉川の戦いで奮戦する。志賀の陣では、森可成に属し、その死後は坂井政尚に属した。胤俊と堅田を守備するが、浅井・朝倉軍に攻められ、坂井政尚は討死。胤俊も戦死して、慶隆は兵100余人を失い、わずか1人の兵と共に京都の大徳寺まで逃れた。
1576年、織田信忠が美濃国主となると、慶隆は信忠に属した。
1582年、本能寺の変後、美濃の諸将の多くが秀吉になびく中、信孝に従う。
1583年、立花山の戦い。立花山を死守するが、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗死し、岐阜城包囲で信孝も降伏したとの報を聞き、降伏。
1584年の小牧・長久手の戦いでは秀吉方で出陣するが、惨敗。多くの家臣を失う。
1585年の紀州攻め、飛騨の三木自綱征伐、1587年、九州征伐に参加。
1588年、立花山の戦いなどで秀吉に反抗したことを理由に、両遠藤氏で2万余石あった領地を没収され、慶隆は加茂郡・小原7,500石、胤基は加茂郡・犬地5,500石に減封された。
1600年、関ヶ原の戦いでは、東軍として参加。戦後、1万9500石を加増されて2万7000石となる。

遠藤胤俊
(1546-1570)
胤縁の長男。紀四郎、新右衛門、大隅守。
子に
郡上郡木越城主。斎藤義龍・龍興、織田信長に仕える。
1559年、叔父の盛数が東氏を滅ぼして八幡城主となり、胤俊は木越城と郡上郡西北の地を分与された。
1562年、盛数が死去して、その子慶隆が13歳で後を継ぐと、胤俊は1564年に竹中重治が稲葉山城を奪取したのに乗じて、八幡城を攻め取った。
しかし、慶隆が苅安城に入って抗戦し、1564年に継父・長井道利の援軍を得ると、胤俊は慶隆と和睦し、八幡城を返却した。
1567年に織田信長が稲葉山城を陥落させると、織田氏に従う。
1570年11月、坂井政尚の下で慶隆と堅田を守備していたが、浅井・朝倉軍に攻められ、政尚ともども討死した(志賀の陣)。

[三]鷲見氏
鷲見頼保(?-1201)
鷲見重保()頼保の子。
鷲見家保()重保の子。承久の乱で幕府軍に付き地頭職を安堵される。
鷲見保吉()家保の子。
鷲見諸保()家保の子。
鷲見長保()
鷲見忠保()足利尊氏に従軍。
鷲見保憲()
鷲見干保()土岐康行の乱で康行討伐に功を挙げる。
鷲見氏保()
鷲見行保()
鷲見保照()行保の嫡男。
鷲見保重(-1510)行保の次男。鷲見城、北野城主①。
??()行保の三男。鷲見城主。
鷲見保房()行保の四男。
鷲見貞保(-1541)保照の子。鷲見城主鷲見氏最後の当主。
鷲見正保(-1652)貞保の子。大嶋鷲見氏の祖。
鷲見保定(-1517)保重の嫡男。北野城主②(政房・頼芸に仕える)。
鷲見直保(-1547)保重の次男。北野城主③(政房・頼芸に仕える)。
鷲見保光(-1585)保重の三男。北野城主(義龍・龍興に仕える)。
鷲見忠直(-1556)保房の四男。北野城主(道三に仕える)。
鷲見定重()保光の子。

鷲見保重
(?-1510;北野城主1478-1510)
行保の次男。
美濃守護・土岐成頼の武将として転戦し、鷲見氏の領地を(尾張国の一部をも含む)18万石にまで拡大させた。
1478年、鷲見城を弟の保兼にゆずり、新たに北野城を築き自ら城主となった。
1510年、美濃守護代・斎藤利良と不和になって攻められ、自刃。
その後、美濃守護・土岐政房が、保重の子・保定を北野城主にした。
1517年、保定は土岐頼芸の乱では、政房・頼芸方で戦い討ち死する。保重の次男・直保と三男・保光は追われたものの、翌1518年、政房・頼芸方が勝利し、直保が北野城主に返り咲く。

鷲見保兼

鷲見貞保
(?-1541)
保照の子。
先代・保兼の代に、東氏と争って破れ、ついにはその旗下となる。居城も阿千葉城に移る。
1541年、東常慶が阿千葉城の鷲見貞保を攻め、貞保は自刃。鷲見郷領主としての鷲見氏は滅亡する。
貞保の遺児・千代丸は落ち延び、1559年ごろ織田信長に家の再興を願い出たのが聞き入れられる。八幡城主遠藤盛数に大嶋村を与えられて正保と名乗り、大嶋鷲見氏の祖となった。
正保は小早川秀秋に仕え、備前岡山にて350石を領した。

鷲見直保
(-1547;北野城主1518-1547)
保重の次男。
1517年、土岐頼芸の乱。先代で兄である保定は政房・頼芸方で戦い、討ち死する。保重の次男・直保と三男・保光は追われたものの、翌1518年、政房・頼芸方が勝利し、直保が北野城主に返り咲く。
直保も政房・頼芸に仕え、天文16年(1547年)に斎藤道三が大桑城の頼芸を攻めると、奮戦の末討死した。
道三は、北野城を鷲見忠直を与えたが、1556年の長良川の戦いで忠直も戦死した。

鷲見保光
(-1585)
保重の三男。
子に定重、次定。
長良川の戦いで義龍方で参加、義龍・龍興に仕える。
稲葉山城の戦いの後は、元鷲見城主の叔父・保兼の養子となり、遠藤慶隆らに仕えた。1585年、金森長近の飛騨征伐に従軍、討ち死にする。
次男・次定は斎藤龍興と共に伊勢長島に転戦し、その子次久は、仙石秀久に仕え700貫を領する。

【9】遠山氏

(1)遠山氏と遠山七頭

 平安時代末期、加藤景廉が美濃国遠山荘の地頭職を与えられ、長男・遠山景朝が遠山姓を名乗ったことに始まる。岩村城を本拠地として美濃東部で遠山七頭が繁栄。

(2)岩村遠山氏

遠山氏宗家。美濃国恵那郡岩村城を拠点とする。1572年、遠山景任の死で断絶。織田信長は四男・御坊丸(織田勝長)を養嗣子として送り込んだが、武田軍によって包囲され岩村城は降伏した。

①遠山景朝()
②遠山景員()景朝の三男
③遠山景資()
④遠山景茂()
⑤遠山景明()
⑥遠山景秀()
⑦遠山景興()
⑧遠山景重()
⑨遠山持景()
~~~~
⑩遠山頼景(1444頃??-1516頃??)明知遠山氏・遠山景房の子。断絶した岩村遠山氏を再興。
⑪遠山景友(1463頃??-1524)岩村遠山氏当主。
⑫遠山景前(1483頃??-1556) 岩村遠山氏当主。
⑬遠山景任(1513-1572) 景前の嫡男。

[二]遠山頼景
(1444頃??-1516頃??)
明知遠山氏・遠山景房の子。
伊勢宗瑞(北条早雲)率いる今川軍が三河岩津城を攻めた(今橋合戦)際、松平長親に加勢した。

[三]遠山景友
(1463頃??-1524)
頼景の子。
子に景前。
岩村遠山氏当主。

[四]遠山景前
(1483頃??-1556)
景友の子。
子に景任、武景、直廉。
1524年、父の死により家督を継ぐ。
1534年、小笠原貞忠が小笠原長棟に松尾城を攻められたため、恵那郡から撤退。これを機に遠山氏は旧領を取り戻す。
1555年、武田晴信が東美濃に侵攻、岩村城を包囲する。景前は降伏して武田氏に臣従した。。
1556年、没す。

[五]遠山景任
(1513-1572)
景前の嫡男。
妻は織田信長の叔母のおつやの方。
1524年、父の死により家督を継ぐ。景任がまだ幼かったために後継者争いが起こったが、武田氏が東美濃に派兵し調停した。
1558年、三河に侵攻し、今川方と争う。
1570年、上村合戦(武田氏の軍勢が、徳川氏の本拠地・三河を攻める目的で進軍途中、東美濃の恵那郡上村へ侵入、遠山氏と徳川氏の連合軍と衝突した戦い)。岩村遠山氏は参戦しなかった。
1572年、没す。
信長は景任の養嗣子として自らの子(御坊丸)を送り込み、おつやの方を後見人とした。このとき、武田信玄は、伊那郡代の秋山晴近(虎繁)と依田信守を恵那郡へ派遣して岩村城の奪還を命じた。岩村城は武田勢に包囲され、城主となっていた信長の叔母のおつやの方は秋山と婚姻するという条件で降伏し開城した(岩村城の戦い)。

(3)明知遠山氏

遠山三頭の一。遠山景朝の次男の遠山景重を祖とする。拠点は明知城。

①遠山景重()
②遠山景長()
③遠山朝廉()足利尊氏に仕える
④遠山景忠()
⑤遠山景房()湊川の戦いに参加
⑥遠山頼景()
⑦遠山景基()
⑧遠山景次()
⑨遠山景勝()
⑩遠山景保()
⑪遠山景成()景保の子。
 遠山直景(-1533)景保の子。
⑫遠山景行(1509-1570)景成の子
⑬遠山一行(?-1588)景行の嫡孫。
 遠山利景(1540-1614)景行の子。
 遠山方景(1575-1638)利景の子。

[二]遠山景成

景保の子。

[三]遠山直景
景保の子。武蔵遠山氏の祖。
1521年頃、明知城を出奔。関東へ赴き北条早雲の配下に入った。

[四]遠山景行
(1509-1570)
景成の子。
子に景玄、友治、利景、小里光次室、三宅伊通室
1543年、家督を継ぐ。
1552年、高山城
1570年、上村合戦(武田氏の軍勢が、徳川氏の本拠地・三河を攻める目的で進軍途中、東美濃の恵那郡上村へ侵入、遠山氏と徳川氏の連合軍と衝突した戦い)で戦死。

[五]遠山一行
景玄の子。
1570年、上村合戦で、先代・景行が戦死。
嫡男・景玄も戦死したため、景玄の子・一行が家督を継ぐ。叔父・友治に支えられる。
1574年、明知城の戦い。明知城は落城し、叔父・友治も討ち死にする。
1575年、岩村城の戦いに勝利し、明知城を奪還する。
1582年、本能寺の変後は徳川方に従うことを誓う。しかし、羽柴秀吉より美濃金山城主・森長可に従い人質を出すように命じられる。
1588年、信濃と甲斐の国境の平沢峠で大雪に遭って凍死。

[六]遠山利景
(1540-1614)
景行の子。
子に 方景。
幼くして飯高山満昌寺に入り僧となる。
1574年、明知城の戦い。明知城は落城し、兄・友治も討ち死にする。
嫡流の一行は未だ幼少であったために、還俗し、家督を継ぎ、一行を養嗣子とする。
1582年、徳川旗下で甲州征伐に参加。
1584年、小牧・長久手の戦いが始まると、明知城を奪還。しかし、戦後、明知城は森忠政の所領に加えられることになる。
1590年、小田原征伐に参加。上総国で知行地を給わる。
1600年、関ケ原の戦いでは明知城を奪還。美濃国恵那郡と土岐郡6,530石の知行地を得る。
幕府成立後は、交代寄合となる。

(4)苗木遠山氏

遠山三頭の一。遠山景朝の長男・遠山景村を祖とする。拠点は苗木城。

①遠山景村()
 遠山景利()元弘~建武年間(1334年~1336年)、広恵寺城を築く。
 遠山景信(-1361年)
 遠山景直()長山頼基の子の長山光景を養子に取り後継とした。
~~~~~~~
〇遠山昌利(一雲入道)()広恵寺城から高森山に拠点を移す
〇遠山景徳
〇遠山武景(?-1552)岩村遠山氏・景前の次男。苗木遠山氏の養子。
〇遠山直廉(?-1570)岩村遠山氏・景前の三男。明照遠山氏の祖。
〇遠山友勝(1511-1570)飯羽間遠山氏当主。苗木遠山氏の名跡を継ぐ。
〇遠山友忠(1531頃??~1605頃??)友勝の子。
〇遠山友政(1556-1620)友忠の三男。
〇遠山秀友(1609-1642)友政の嫡男。美濃苗木藩の第2代藩主。

[二]遠山武景
(?-1552)
岩村遠山氏・景前の二男。
養子として苗木遠山氏を継ぐ。
1552年、伊勢湾を尾張へ渡る舟に乗船中に盗賊の船に襲われて殺害される。

[三]遠山直廉
(?-1570)
岩村遠山氏・景前の三男。
阿寺城を築いて明照遠山氏の初代となった。
1552年、苗木遠山氏の養子となっていた兄・武景が伊勢湾を尾張へ渡る舟に乗船中に盗賊の船に襲われて殺害されたため、直廉が苗木遠山氏を嗣ぐこととなった。
1554年、武田氏の東美濃侵攻が始まるとこれに帰順。
1560年、桶狭間の戦いに苗木勘太郎の名乗りで織田方として参戦。
1568年、信玄に従って駿河侵攻に参加。
1569年、大威徳寺の戦いで矢傷を受ける。その傷がもとで死去。

[四]遠山友勝
(1511-1570)
子に友忠。
1570年、先代・直廉が後継者がないまま亡くなったため、織田信長の命令により飯羽間遠山氏の友勝が苗木遠山氏を相続し、飯羽間城は子の友忠に譲ることになった。
同年、上村合戦(武田氏の軍勢が、徳川氏の本拠地・三河を攻める目的で進軍途中、東美濃の恵那郡上村へ侵入、遠山氏と徳川氏の連合軍と衝突した戦い)で戦死。

[五]遠山友忠
(1531頃??~1605頃??)
友勝の子。
子に 友信、友重、友政
1570年、父・友勝が苗木遠山氏の家督を継ぐことになったたため、友忠が飯羽間城主となった。
1571年、明照城を次男・友重に任せて、自らは三男(嫡男)・友政をつれて苗木城に入った。
1574年、武田勝頼が東美濃に侵攻。苗木城は陥落。
1575年、岩村城の戦い。武田方に付いた遠山勢は悉く討ち死に。
1582年、甲州征伐に参加。本能寺の変が伝わると、岩村城を奪還すべく森長可を暗殺しようと図るが失敗。
1583年、羽柴秀吉と織田信孝が対立しはじめると、秀吉から美濃金山城主に戻った森長可の指揮下に入るよう命令されるが、これらを拒絶。敗北し、落ち延びる。徳川氏の家臣である田峰城の菅沼定利の預かりとなる。
1605年頃??、死去

[六]遠山友政
(1556-1620)
友忠の子。
子に 秀友。その他女。
関ケ原の戦いでの功績が認められ、苗木城と恵那郡北部と加茂郡東部の旧領1万500石の知行を賜る。

(5)飯羽間遠山氏

遠山七頭の一。宗家5代当主・遠山景明の子の遠山景義が祖。武田氏による飯羽間城攻撃の際に、城主・遠山友信が降伏。武田氏滅亡後、織田信長に処刑され断絶。

①遠山景義()
〇遠山友勝(1511-1570)
〇遠山友忠(1531~1605)友勝の子。
〇遠山友信(?-1582)友忠の長男。
 

[二]遠山友信
(?-1582)
友忠の子。
右衛門尉。
飯羽間城陥落時に捕虜となるも、武田勝頼に武勇を評価されて助命され、信濃・伊那郡箕輪に所領を与えられる。
1582年、武田氏滅亡に際し、残党狩りで処刑されてしまう。

(6)明照遠山氏

遠山七頭の一。遠山直廉が祖。美濃国恵那郡・阿寺城(明照城)が拠点。
1557年、岩村遠山氏・景前の家督争いの結果、三男・直廉が阿寺城を築く。しかし、苗木遠山氏を継いだ兄武景が盗賊に殺されたため苗木遠山氏を嗣いぐことになる。そのため、飯羽間遠山氏の友忠が継ぐ。1574年、武田勝頼の東濃侵攻の際、木曾義昌の軍に敗北、落城。友重が討ち死し断絶。

①遠山直廉(?-1570)岩村遠山氏・景前の三男。
②遠山友忠(1531~1605)苗木遠山氏・友勝の子。
③遠山友重(?-1574)友忠の二男。

[二]遠山友重
(?-1574)
友忠の二男。

(7)串原遠山氏

遠山七頭の一。明知遠山氏四代当主の遠山景忠の子の遠山景綱を祖とする。串原城を拠点とする。1574年、武田勝頼の東濃侵攻の際、串原城が陥落。断絶する。

①遠山景綱()
 串原弥左衛門親春(-1570)上村合戦で死亡。

[二]遠山経景
遠山景男(右馬助)の子。
1570年、上村合戦に参加。父・景男は討ち死。
1574年、武田勝頼の東濃侵攻の際、串原城が陥落。
明知遠山氏の遠山利景の養子となる。
関ケ原の戦い後、利景から500石を与えられ、明知遠山氏の家老となる。

(8)安木遠山氏

遠山七頭の一。宗家・遠山景員の三男の遠山景賢を祖とする。美濃国恵那郡・阿木城(安木城)を拠点とする。1574年、武田勝頼の東濃侵攻の際、安木城が陥落。断絶する。

①景賢()
②景経()
③景高()
④景平()

【10】城郭・古戦場・地理

[1]美濃中心部の城郭

稲葉山城/岐阜城
(斎藤道三:1533年~
斎藤義龍:1544年~
斎藤龍興
織田信長:1567年~
織田信忠
織田信孝
池田元助
池田輝政
豊臣秀勝
織田秀信)
厚見郡(山城)
二階堂行政が井口の山(金華山・稲葉山)に砦を築いたのが始まりとされる。二階堂行藤の死後、廃城。
美濃守護代・斎藤利永が、城を修復し居城とする。
1525年、長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。支配下に置く。
1533年、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が城主となる。
1554年、斎藤義龍が家督とともに城を譲り受ける。
1561年、義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
1564年、竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を占拠する。
1567年、稲葉山城の戦い。織田信長が、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転   
    し、城と町の名を「岐阜」と改めた。
長森城
厚見郡(平城)
1185年、長森庄地頭の渋谷金王丸が長森城を築城。
1339年、土岐頼遠が土岐郡から長森城に移る。
1353年、土岐頼康が革手城を築城し、拠点を移す。土岐直詮が長森城の城主となる。
1530年頃、廃城。廃城後は切通陣屋が築かれる。
革手城
(土岐頼康:1353年~)
厚見郡(平城)
土岐氏の第3代守護・土岐頼康は、手狭となった長森城に代わり、1353年、革手城を築城する。以降第11代土岐頼芸までの本拠地となる。
1494年、船田合戦で焼失。後に再建される。
1509年、土岐政房は福光館を築き、拠点を移す。
1530年頃、廃城。
鷺山城/福光館
厚見郡()
鎌倉時代・文治年間(1185年 - 1190年)、佐竹常陸介秀義が築城する。
土岐氏が革手城を築城するとその支城となる。
1509年、土岐政房の命で斎藤利綱が鷺山の麓に福光御構の普請を行っており、革手城から鷺山城に美濃守護所が移された。
1519年、土岐政房が死去すると、越前国の大名朝倉孝景の支援を受けた土岐頼武と守護代・斎藤利良が鷺山城と福光館を落とし、福光館に入った。
1525年には、頼武の弟・土岐頼芸に鷺山城が占拠されるが、翌年迄に頼武は鷺山城を奪い返している。
1530年頃には、頼芸方の勝利に終わる。
1532年、頼芸は枝広館に移る。
1556年、長良川の戦いの後、廃城となる。
沓井城/加納城
(斎藤妙純)
厚見郡(平城)
1445年、革手城の備えのため、斎藤利永によって沓井城として築城される。
船田合戦では斎藤妙純の居城となっていた。
1538年までに廃城。
船田城
厚見郡(平城)革手城の支城で、守護代斎藤家の家宰を務めた石丸利光が城主となった。
大桑城
山県郡(山城)
守護・土岐氏の守護所が置かれた城で、古城山(別名・金鶏山)の山頂付近に存在した。
承久の乱での功績で逸見義重が大桑郷を領地とし、子の大桑又三郎が大桑城を築いたとされる。
守護・土岐成頼の三男の土岐定頼が1496年明応5年に改築し、大桑兵部大輔と名乗って一代限りで住んだともいう(後に大畑と改姓)。
1509年土岐氏は拠点を革手城から福光館に移し、さらに1532年に岐頼芸は枝広館に移す。
1530年、土岐頼武の死後、土岐頼純が拠点とする。
1546年、斎藤道三との間で和議が成立。
翌年、(斎藤道三の再侵攻により落城して?)廃城となる。
鵜沼城
各務郡()
永享年間(1429年 - 1440年)に大沢利治によって築城。木曽川の北岸にある天然の岩山・城山の上にある。木曽川の対岸に尾張犬山城がある。
大沢正秀の代、木下藤吉郎の調略により落城。
鷲巣城
本巣郡()
北方城
(安藤守就:1567年以前 - 1580年)

 席田郡(平城)。明応年間(1492年-1501年)に伊賀光就が築城。伊賀氏四代である安藤守就が1580年、織田信長に追放されるまで伊賀氏・安藤氏の拠点。
 その後、稲葉良通が城主となる。1582年、本能寺の変が起ると安藤守就が挙兵して北方城を奪うが、稲葉良通に攻められ自刃。北方城は廃城となる。

[2]西美濃の城郭

大垣城
(氏家直元:1567年以前 - 1571年
 氏家直昌:1571年 - 1583年)
安八郡(平城)。麋城(びじょう)または巨鹿城とも呼ばれる。1500年に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたとも、1535年に宮川安定が大尻に築いたともいわれる。当時は、牛屋城と呼ばれていた。
 1544年に織田信秀の攻撃により落城し、織田播磨守が5年間城主を務めた。その後、1549年、斎藤氏に攻め落とされて配下の竹越尚光が城主となる。
1559年に桑原直元(氏家直元)が城主となり、1563年に城の大規模な拡張を行い、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。
1583年、賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉により池田恒興が城主とされた。所領は15万石とされる。
1585年に輝政は岐阜城主に転じ、豊臣秀次の家老の1人に任命された一柳直末が、大垣城に配されて3万石を領した。
1586年の天正地震の被害をうけて全壊焼失した。
1590年の小田原の役で一柳直末が戦死したため、この戦いで功を挙げた伊藤盛景が城主とされ、1599年に盛景が死ぬと子の伊藤盛宗が跡を継いだ。
1600年、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して根拠地となった。城内には福原長堯(三成の義弟)らが守将となって残った。
曽根城
 (稲葉良通:1567年以前 - 1579年
  西尾光教(2万石):1588-1601)
安八郡(平城)。永禄年間(1558年 - 1569年)、稲葉良通(一鉄)が築城。
 1588年、稲葉良通が亡くなると嫡子の稲葉重通が継承したが、郡上八幡に移封された。
 1588年、西尾光教が城主となる。関ヶ原の戦い後、西尾光教は揖斐陣屋に移り、1601年、廃城となる。
池尻城
安八郡(平城)
天文年間(1532~1555年)、土岐頼芸の家臣・飯沼長就によって築城された。不破関と濃尾平野の間の要衝にあり、は朝倉氏や浅井氏の侵攻に備える重要な城であった。
長就の子・飯沼長継が城主となり、織田信長に仕えた。
1582年本能寺の変後、長継は羽柴秀吉に協力する姿勢を示したが、織田信孝との内通を疑われて翌年に氏家行広に大垣城で殺され、池尻城は没収された。
その後、池田輝政が城主となり、池田家の家老が城代を務めた。
1584年に小牧・長久手の戦いの功で池田氏は岐阜城に転封され、池尻城は廃城となった。
墨俣城
安八郡(平城)
津屋城
多芸郡()
菩提山城
 
不破郡(山城) 1559年、竹中重元が菩提山城を築く。
 1600年、重門が麓の竹中氏陣屋に居を移し廃城
垂井城
 
不破郡(平山城)
 長屋景頼が、垂井の領主になってから築かれた。
 1547年、斎藤道三の侵攻により相羽城で景興が戦死し、長屋氏は没落する。
松尾山城
 不破郡(山城)
 応永年間(1394年〜1428年)に富島氏によって築かれた。
相場城
大野郡(平城)
 土岐光行の子の光俊が饗庭姓を名乗り、建暦・建保頃(1211-1219)に築城した。1545年に斎藤道三に攻められて落城し、後に鷹司氏が城主となるも天文18年(1549年)に織田信秀に攻められ、やがて廃城となった。
清水城
 (稲葉良通:1579年 - 1588年
 (稲葉重通:1588年 - 1598年
  稲葉通重:1598年 - 1607年)
池田郡(平城)。天正年間(1573年-1592年)、稲葉良通(一鉄)が築城。
 1588年、稲葉良通が亡くなると、庶氏の稲葉重通が継承した。
 1598年、稲葉重通が亡くなると、さらにその子通重が継承するが、1607年、狼藉を働き改易。清水藩は廃藩となった。
本郷城
池田郡()
美濃國枝氏が15世紀後半に池田郡本郷に築城した城。
1495年に小守護代石丸利光が土岐成頼の子・元頼を擁立して、船田合戦を起こすと國枝為助が石丸方の副将として一軍を率いる。
しかし、中野の戦いで國枝一族は全員討死にを遂げ、没落。
その後勢力を回復し、1600年、本郷城主であった国枝政森は関ヶ原の戦いで織田秀信に属して西軍にくみし敗れて城を焼き払われる。
揖斐城
 池田郡(山城)
 1434年、土岐頼康あるいは弟の頼雄が築城。頼雄が城主となって、頼雄の末子の詮頼が揖斐氏と称して、子孫が代々後を継いだ。
 1547年、土岐光親の代に斎藤道三による攻撃で落城。その後は堀池氏が居城とする。
 織田信長の美濃国侵攻に伴い、稲葉良通によって落城。良通の子・稲葉貞通が城主となる。やがて廃城。跡地には揖斐陣屋が建てられた。
今尾城
尾張?
(平城)
文明年間(1469-1487)に斎藤氏の家臣・中島重長が築城。4代・70年以上にわたって居城とした。
織田信長の下、高木貞久が城主となる。後、森寺氏や戸倉氏が居城、1583年頃は森寺忠勝が城番となっていた。
翌1584年には小牧・長久手の戦いの恩賞として吉村氏吉に今尾城一帯が与えられた。
1587年に市橋長勝が城主となり、1599年には1万石を領す。翌1600年、関ヶ原の戦いの功績で1万石を加増された。
市橋長勝は1608年に伯耆国矢橋藩に移封され、代わって竹腰正信が今尾藩主となると今尾城は廃されて跡地に今尾陣屋が設けられた。
高須城
(平城)
1338年、美濃国石津に地頭職を賜った氏家重国が館を構える。
1522年、大橋重一が築城。信重、重長と続き、重長は織田信秀と争ったのち、属する。後に高津直幸、平野長治、秋山信純は城主となる。
1592年からは高木盛兼が1万石で入城した。
関ヶ原合戦後、徳永寿昌が5万0700石で入り高須藩を立てる。

[3]中美濃の城郭

小野城(本城山城、栃洞山城)
武儀郡(山城)大永年間(1521年-1528年)に築城。斎藤宗久(斎藤利直)、斎藤宗祐が城主となった。1554年に廃城。
関城
武儀郡(山城)。1528年に長井長弘が築いた。その後城主は長井道利になる。中濃三城盟約の一。1565年、織田方、斎藤利治に包囲され降伏(関・加治田合戦)。
小倉山城(おぐらやま)
武儀郡(平城)1605年、金森長近が築く。1611年、金森長光に嗣子無く没し上有知藩が改易、廃藩となり、小倉山城も廃城になった。
大洞城/一柳城(津保城)
武儀郡(山城)明応年間(1492年-1501年)土岐氏の家臣・宇佐見弘房が大洞城を築城。その後、美濃を攻略した織田信長が、郡上八幡城の遠藤氏に備えて、一柳直末に命じて大洞城を改修させ、一柳城と改称した。
関ケ原の戦い後、一国一城令に基づき廃城となった。
鉈尾山城(上有知城)
武儀郡(山城)1467年、浅野氏に代わって美濃佐藤氏が上有知を支配し、1540年、佐藤清信が築城。清信の子・佐藤秀方は織田信長に服属。
方政の子・方政は関ヶ原の戦いにおいて西軍についたため、戦後領地を没収された。
隠居した金森長近が鉈尾山城に入った。その後、新たに小倉山城を築き、鉈尾山城は廃城となった。
堂洞城
加茂郡(平山城)。中濃三城盟約の一。織田信長の侵攻時、岸信周が城主であった。1565年、堂洞合戦の後に落城。そのまま廃城となった。
加治田城
加茂郡(山城)。永禄年間(1558年 - 1570年)に佐藤忠能・忠康父子が築城したと伝えられている。中濃三城盟約の一。織田信長の侵攻時、佐藤忠康が城主であった。織田信長に内応し、堂洞合戦や関・加治田合戦において斎藤氏に攻め込まれる。佐藤忠康が戦死したため、斎藤道三の末子・斎藤利治が城主となった。
本能寺の変において利治が死去すると、斎藤利堯が跡を継ぎ織田信孝の家老となった。
その後、森氏の所領となり、廃城。
烏峰城/美濃金山城
可児郡(山城)
 
1537年、斎藤正義が築城した。
 1548年、斎藤正義が久々利城主氏に討たれる。
 1565年、織田信長が烏峰城を奪取し、森可成を城主に据えた。森可成は金山城と改称した。
明智城(明智長山城)
可児郡(山城)。
1342年、土岐頼兼が築く。以降、明智氏の拠点となる。
1556年、斎藤義龍の攻撃を受け、明智城代明智光安は弟光久らと籠城の後、自刃。廃城となる。
美濃大森城
可児郡(山城) 永禄年間。奥村元信の子である奥村元広が築城した。1582年、森長可に攻められ廃城になった。
土田城(どた)
可児郡()文明年間(1469年〜1487年)、土田氏によって築かれた。秀久・
泰久・源太夫と続くが、1556年、明智城が長井道利によって攻められると、土田源太夫が討死、土田氏の嫡流は断絶。母方の尾張国小折城主・生駒家広の養子となっていた生駒親重が、小折城と土田城主を兼ねた。
久々利城
可児郡(山城)土岐頼康の弟である土岐康貞が延元、正平年間(1336年-1370年)に築城。1583年に金山城主の森長可に攻められ陥落。
1600年、森氏の転封に際し、廃城。

[4]奥美濃の城郭

篠脇城
 
郡上郡(山城)。東氏が8代・約230年間にわたって居城とした。
 初代・胤行の晩年に築城が始まり、四代・氏村のとき本格的に城が完成して移住したとされる。
 1468年、斎藤妙椿に攻められて落城するが、関東に在陣していた東常縁がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した。
 1540年、朝倉氏の攻撃を退けるも、翌1541年には赤谷山城を築城、居城を移したため、篠脇城は廃城となった。
赤谷山城(東殿山城)
 
郡上郡(山城)。1409年、東益之が築城(古城、犬吠山城)。1540年、東常慶が 新たな城(新城)を築城し、1541年、篠脇城から拠点を移す。
1559年、遠藤氏に攻められ炎上し、そのまま廃城となった。
木越城
 郡上郡(山城)。15世紀末、遠藤盛胤によって築かれた。以後、遠藤氏の拠点。
東氏を滅ぼした盛数は郡上八幡城を築き、自身が郡上郡を支配して、嫡子胤俊には木越城を与えた。
 胤俊の弟・胤基の代、織田信孝に与したために、羽柴秀吉に所領を没収され、転封となる。木越城はそのまま廃城となった。
郡上八幡城
 
郡上郡(平山城)
 1559年、遠藤盛数が、赤谷山城を攻撃するために砦を築いたのが郡上八幡城の起源である。
 その後盛数の長男慶隆が城主となったが、織田信孝に与したために、羽柴秀吉に所領を没収され、転封となる。
 1588年、稲葉貞通が城主となり、郡上八幡城の大改修を行った。
 関ヶ原の戦いの後、遠藤慶隆が再び城主となった。

[5]東美濃の城郭

岩村城(霞ケ城)
恵那郡(山城)鎌倉幕府の御家人加藤景廉の長男遠山景朝が1221年以降築く。岩村遠山氏が本拠地とした。遠山十八支城。
江戸時代には岩村藩の城となった。
広恵寺城/苗木城(霞ケ城)
恵那郡(山城)
遠山景利が元弘・建武年間(1334年~1336年)に広恵寺城を築く。苗木遠山氏が本拠地とした。遠山十八支城。
1526年、高森山に館を移す。
遠山正廉が天文年間(1532年~1555年)高森に苗木城を築く。
江戸時代には苗木藩の城となった。
飯羽間城
恵那郡(平山城)遠山氏の分家飯羽間遠山氏が本拠地とした。
遠山十八支城。
1574年、武田勝頼の東美濃侵攻の際に陥落し、そのまま廃城となった。(飯羽間城の戦い)。
明知城(白鷹城)
恵那郡(平山城) 遠山景重が1247年、築城。明智遠山氏の拠点となる。
遠山十八支城。1615年廃城。
阿木城
(山城)安木遠山氏が本拠地とした。遠山十八支城。1574年、武田勝頼の東美濃侵攻の際に陥落し、そのまま廃城となった。
串原城
(山城) 串原遠山氏が本拠地とした。遠山十八支城。1574年、武田勝頼の東美濃侵攻の際に陥落し、そのまま廃城となった。
阿寺城(明照城)
(山城)明照遠山氏が本拠地とした。遠山十八支城。1574年、武田勝頼の東美濃侵攻の際に陥落し、そのまま廃城となった。
釜屋城
恵那郡(山城)
美濃松本城
恵那郡(山城)
漆原城
恵那郡(山城)
久須見城
恵那郡(山城)
小里城
土岐郡(山城)
1534年、小里光忠が小里川南岸に築く。
1570年、上村合戦(武田氏の軍勢が、徳川氏の本拠地・三河を攻める目的で進軍途中、東美濃の恵那郡上村へ侵入、遠山氏と徳川氏の連合軍と衝突した)。光忠と小里光次は戦死した。光忠の子・小里光明は、小里城に在城していた。
1583年、小里光明は織田信孝に仕えたが、賤ヶ岳の戦いにより豊臣秀吉に敗れて信孝が自害した後は、徳川家康の下に身を寄せた。
1600年、光明の子・小里光親は関ヶ原の戦いの前哨戦の東濃の戦いでの戦功により、土岐、恵那郡の旧領を再び与えられ、3,620石の旗本となった。このとき小里城を取り壊して近くに小里陣屋を構えた。
妻木城
土岐郡(山城)
神篦城(鶴ヶ城 (美濃国))
鎌倉時代初期に、源頼朝に仕えて功を挙げた土岐光衡によって築城されたと伝わる。光衡は、麓の一日市場館を本拠として「土岐」を号したとされ、土岐氏発祥の地と云われている。
1221年の「承久の乱」では、光衡の子・土岐光行(土岐左衛門尉)は幕府方、土岐光時(土岐判官代)は上皇方についた。
光行の孫・土岐頼貞の代でも一日市場館を本拠としており、1324年「正中の変」の直前には、日野資朝が土岐館(一日市場館)に訪れた。
建武の新政後の1339年、土岐頼遠は、父の死により家督を継いで土岐氏惣領となり、美濃守護に就任する。同年に本拠地を鶴ヶ城から厚見郡に移動、守護所を長森城に定めた。
土岐氏が去った後は、恵那郡の遠山氏の城の一つとなり、神野遠山氏が入ったが、戦国時代末期には延友信光(遠山佐渡守)が入り城主となった。

[6]その他

美濃十七宿
 江戸と京を結ぶ中山道六九宿のうち十七宿が美濃国内にある。
 戦国時代までは東山道と呼ばれた道だが、織田信長が六角氏攻略のため近道を整備し、醒ヶ井宿から鳥居本宿間で東山道と異なる道を整備し、後の中山道となった。
 馬籠・落合・中津川・大井・大湫・細久手・御嶽・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今須

美濃路
 
美濃路は東海道・宮と中山道・垂井とを結んだ脇往還(脇道)である。
 宮(熱田)・名古屋・清須・稲葉・萩原・起・墨俣・大垣・垂井

兼山湊
 
木曽川の上流域に位置していた木曽川上流域の唯一の商用港。

不破関
 
古代東山道の関所の一つ。伊吹山の南方に位置する。

伊吹山地
 伊吹山地は、岐阜県と滋賀県にまたがる山地。関ヶ原で一旦低くなった後、鈴鹿山脈へと続いている。その最高峰が伊吹山(標高1377m)である。近江国との国境となる。

木曾川
 木曽川は長野県から岐阜県・愛知県・三重県を経て伊勢湾に注ぐ木曽川水系の本流。木曾三川の一つ。尾張国との国境となる。

参考文献:Wikipedia
     中世武士選書46「斎藤妙椿・妙純」横山住雄著、戎光祥出版


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