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トイレよ、お前もか?

20年ほど前、語学留学をした。

初めての海外一人旅。
初めての乗り継ぎ。
不安もあったが、それよりもわくわくでいっぱいだった。

空港で学校が手配した車に乗り込み、これからしばらく住むことになるアパートメントに向かう。

間取りは、日本でいえば2LDK。
2ベッドルームに、1.5バスルームと呼ぶのだろうか。ホテルによくあるユニットバス、バスタブとトイレと洗面台がひとつになったものとは別に、独立したトイレがあった。

部屋の探検もそこそこに、荷物を降ろし身軽になったわたしは、長旅の疲れから解放され、より開放感を味わうためにトイレへ行った。
向かった先は独立したトイレ。
慣れ親しんだものに、つい手が伸びてしまう。
そこから、てんやもんやの時間が始まるとは知らずに……。


用を足し、すっきりしたわたしはドアノブに手をかける。
「ん?」
「あれ?」
「うっそーっ!」
「がびーん」
どんな言葉を重ねても、あの時の気持ちは表現できない。

ドアノブをいくら回そうとも、うんともすんとも言わない。空回りを繰り返すばかり。扉が開く合図の「ガチャ」、というあの音が聞こえない。

ドアノブが壊れていたようで、内側からは開けることができなかった。わたしは、るんるんでたどり着いた異国の地に来てすぐ、トイレに閉じ込められた。

でも、最初はそんな状況を楽しんですらいた。
マンガやドラマでしかお目にかかれないと思っていた。まさか、実際に起こるとは、と感じ入りながら、ドアノブをガチャガチャ、ガチャガチャ。
簡単に開くでしょう、と高をくくっていた。

一時間も経つと、うきうき楽観的な気持ちは消え、次第に焦りが芽生える。
「まずい」
「どうしよう」

トイレを見渡しても、トイレットペーパーがあるばかり。難攻不落となったトイレの扉をこじ開けるものは、何一つ存在しない。
でも、ひとつだけ救いがあった。
到着したときは不在だったが、日本人のルームメイトがいた。彼女が帰ってくれば、ここから出られる。

帰りを待つしかない。
と、覚悟を決めたのも束の間、ふつふつと違う不安が湧き出てくる。いつ帰ってくる? 旅行に行ってたら? 何日もここに閉じ込められたまま?

そうなったらもう止まらない。
「ドアを壊そう」
体当たりをし、足でドアを蹴るを繰り返す。

……。

けれども、ドアはびくともしない。
ドアに全力をぶつけたくとも、排泄にはかかせない便器が邪魔をする。あの狭い空間では、助走をつけられない。あの時ほど、便器が憎らしかったことはない。
「体からいらなくなったもの全部受け止めて流してあげるよ、さあ」、とニコニコ顔でぱっかり口を開けている姿が小憎らしかった。


……これ以上やったら、自分の体を痛めてしまう。
体当たりを繰り返した体からの危険信号に、わたしは諦めるしかないことを悟った。

今できることは、待つことだけ。


そうして、何時間トイレで過ごしただろうか。
タイルの床で体が冷え切った頃、救いの女神があらわれた。

玄関の鍵を回す音、そしてガチャっとドアを開ける音。
わたしの中に鳴り渡る歓喜の歌!

トイレの中から「コン、コン、コン」と扉をノックし、トイレのドア越しにまだ見ぬルームメイトに「はじめまして」の挨拶をする。

そして、トイレにとらわれたわたしは、姫の手により救い出された。


これ以来、一人のときトイレのドアは閉めない。
そして、トイレには工具を備えている。


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