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父と母

  きっと行き着く先は「ありがとう」の言葉で締め括られるのだろう。
 両新が死んだ時、死んだ後、私の死に際……
 私は私という人間としてこの人生を送りたいと思っていなかった。まだ私が人間として生まれる前に熱望していた記憶を忘れていたとしても当時と今とは違う。人生の中で育まれた価値観や考え方・人間社会で味わったストレス・限界・慣れ等を知ってしまった今では、有難い気持ちにはなれない。
「私を生んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう」
 今は仕方なしに生きている。死ぬ覚悟もなければ、生きる意味も理解できない。
 ただただ人間という生物として惰性の毎日を送っているだけだ。
 時が経ち、年を取り父と母は私よりも先に死んでいく。それを見送るときに、他人の目もありその時の感情もあり素直な気持ちを表に出すこともなく冷静さを装い弔問客に愛想笑いを浮かべるくらいしかできないだろう。
 私は本心から両親を恨んでいるのかもしれない。こんな世界に私を生んでくれなかったほうが良かったと痛感しているのかもしれない。
 しかし、憎しみだけで生きている人生でいいのか?
 何が悪いのか……私を作った両親、私が育ってきた環境、少し曲がった私の根性……
 両親は私という子供が欲しくて産んだのだろうか。ただ無計画にしっかり考えずに産んだのかもしれない。願っていた賢くて可愛い子供じゃなかった私にがっかりしたのかもしれない。
 その類いならば、私は望まれて生まれてこなかった人間、両親にも見放されている人間になるだろう。
 私の感情がそこに引き寄せられて卑屈で廃れた気持ちになれば私の持って生まれた魅力が見つからずに落ちぶれていくだけだろう。誰もが得をしない……
 いや、ただ私がこの社会に反発する人間として生きていくことに興味がないだけだろう。
 他者と比べて見劣りする両親、いつまでも不器用な両親、何故か時々優しく見える両親……
 私という人間はこの父と母から生まれて今まで生きてきたという事実しか記録としては残らない。
 私の存在を見せつけてやりたい。私が元気に過ごしていることに安心感を持たせて、私という子供を産んで良かったという感情を抱かせて、そして私に対して心から感謝させたい。
 そのモチベーションをもって「ありがとう」と言おう。
 将来、私の視点が間違っていたことに気づく時があったとする。泣き崩れて後悔する状況になるかもしれない。しかし、将来のことまでも具体的に想像できる聡明な頭脳は私にはない。
 だが、どんな時も私が口から出す「ありがとう」という言葉は、両親だけでなく私をも救ってくれると信じている。
 来たる時に、普段と違う私を演じて最後くらいはすっきりとこの人生もしくはこの両親を見送ろうじゃないか。
 思いを込めて憎しみを込めて愛情をこめて言おう。
 「お父さんお母さんありがとう」

 

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