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母の総括 その一

 七十八歳の母の卵管がんが再発し、今年三月から入院している。

 初発は二〇〇三年だった。二〇〇五年、二〇一二年と再発し、今回は三度目となる。前回の再発から時間が空いたので、治ったのかもしれないと思っていたが、そうは問屋が卸さなかった。

 抗がん剤治療をしているものの、今回は再再再発なので、進行が早いようだ。病室のカーテンを開けるたび、今日はどんな様子かとドキドキしている。

 抗がん剤の投与で、がん細胞は多少滅びるかもしれないが、体力も落ちてしまうので、主治医からは、抗がん剤治療をする選択肢と同時に、緩和ケアのみをする選択肢も示された。が、母は「戦わないで死ぬ選択肢は考えられません」と、残された時間を緩和ケアのみを行って有意義に過ごす「クォリティ・オブ・ライフ(QOL)」という提案を受け入れなかった。今回は腹膜播種があることなどからもう手術ができなかったが、これまでは抗がん剤が効果を上げてきたから、抗がん剤を投与すればまた元気になれるとも思ったようだった。

 時代の流れか、再再再発だからか、今回は初めて緩和ケア科がチームに加わり、疼痛コントロールが始まった。夕方、病室を見舞った私に母は不満そうに言った。

 「今朝、緩和ケアチームの人たちが来たの。みんな、私のことを哀れんだ目で見ててさ、こっちが何を言ってもニコニコしていて、変な感じだった」

 まだ死ぬつもりのない、元来勝気な母と、死を前に精神的な苦痛を和らげることが柱の一つである緩和ケアチームの人たちが、相容れるはずがない。ちぐはぐな面談だったんだろうなと想像してしまった。

 その後、母は腸閉塞になり、「中心静脈栄養」を行うために、中心静脈カテーテルが首の付け根に挿入された。口から飲食できないとき、細いチューブを静脈の中に挿入して栄養を補給する方法だ。夕方、病室に行った私に母は言った。

 「やめてと言ったけど入れられちゃった。まだパパの総括ができていないのに」
 「総括って?」
 「パパの死に方があれで良かったのか……」

 昨年の二〇一八年に亡くなった父は、その四年前、肺炎に三度かかった。その時点でパーキンソン病を発症して十五年ほど経ち、認知症も併発していた。今振り返ると、本来の寿命は肺炎にかかったときまでだったのだろうと私は思う。しかし、母は父の延命治療を望んだので、人工栄養法の措置が取られた。口から食べられなくなったとき、どうするかも含め、父は自分の意思を全く残していなかったため、母が決めた。その後は胃ろうや気管切開が行われ、心臓が止まれば心臓マッサージで蘇生され、呼吸が止まれば人工呼吸器につながれ、父は晩年の数年をほぼ意識のないまま、病院で寝たきりで過ごした。

 亡くなる三カ月前に人工呼吸器につないだ後、私と母は父のベッドの傍らで、下がった血圧を上げるための昇圧剤を打つか打たないかをめぐって大ゲンカしたことがある。

 「これ以上、延命するのは見ていられない。本人の身になって」と私は言った。ハンサムで優しかった父の面影はもはやなく、私には父は生きる屍にしか見えなかった。

 「パパは生きたいのよ。ママには分かるの」と母が答えたので、私は「それはママのエゴでしょう!」と怒鳴った。大ゲンカは間に座っていた中学三年の娘が泣き出して、終わった。

 ケンカから数日後、母から新聞の切り抜きが自宅に郵送されてきた。「長生きは幸せか」がテーマの記事で「『生きていい』社会に」と見出しがついていた。「若い人からすれば『いい年になったら、治療はもういいでしょ』と思うかもしれませんが、いつが『いい年』なんて誰にも分からないのです」という大学教授の意見が紹介されていた。正論だと思う半面、きれいごとだとも思った。それを自信満々で送ってくる母がいやだった。

 そんなことがあったので、母が今回、父の死を「まだ総括できていない」と言ったのを聞き、母も母なりに悩んでいたのかと少しかわいそうになった。そうは言っても、その「総括」とは関係なく、母は今回の自分の入院に際しても「延命措置は何でもしてください」の項目にマルを付けているから人工栄養法も取られているし、感染防止のため皮下にカテーテルを埋め込む「ポート」の設置術も受けた。「早く総括してくれ……」と思う。

 痛みについては、緩和ケアチームの麻薬による疼痛コントロールが上手なのか、それほどないようだ。その分、母は緩和ケアの有難みが分からないようで、「麻薬を打っていると昔から飲んでいる睡眠薬が飲めないから麻薬を止めてほしい」と言って医師たちを困らせている。母はこの先、どうなるのだろう。本人の思うようにしてやりたいと思ってはいるが、予想がつかないでいる。
                 (黒の会手帖第6号 2019・6)
 

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