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【私の感傷的百物語】第二十二話 ネクロフィリア

だいぶ前に、心理学ゲームの本を読んだ時、その娯楽性の強い本から、僕は「ネクロフィリア度上級」、つまり完全なネクロフィリア(死体愛好癖)であると診断されました。このテの本は肯定しようと思えばいくらでも肯定でき、同様に否定しようと思ばどうとでも言えます。ただ、ネクロフィリアの問題に関しては、僕にとって心当たりがあったので、なんとも妙な気持ちになりました。

死体愛好癖といっても、僕は現実の人間の亡骸(数えるほどしか見ていませんが)に偏愛の情を持ったことはありません。ただ、人間味のないイメージのほうに、昔から好感を覚えてきたというのは確かです。子供の頃から、いわゆる戦隊ヒーローよりも、お化けや幽霊のような「死後の産物」の方が好きでした。二十代の頃も、動物と静物どちらが良いかと問われれば、どちらかと言えば静物に愛着を感じやすかったです(現在はやっと、動物の魅力にも気づきはじめてきました)。

また、僕は長年、魚類を眺めたり調べたりするのをライフワークとしてきました。物言わぬ、無表情な魚という存在は、多分に死者とイメージが被ります。持論ですが、魚たちの住む水中、特に海中は、人間をはじめとした陸上の生き物にとって生命否定の地であると感じるのです。さらに。僕は水族館よりも魚屋を巡るほうが楽しいと感じますが、 魚に並んでいるのは、(新鮮とはいえ)ほぼすべて、死んだ魚です。食用目的以外で、そんなものを眺めたり写真を撮ったりして喜んでいる僕は、少なくとも魚類に関して言えば(性的な感情はともかくとして)、立派な死体愛好癖でしょう。

こうした感情の原因は、僕が抱く、生きている人間への恐怖心に由来すると思われます。僕は、自分以外の人間とうまくコミュニケーションをとりながら、親愛の情が溢れる日常を送っていける自信が、全くない、と言えば大げさですが、きわめて低いのです。こうした不安が、僕の生者への関心を遠のかせ、動かない、何の反応も示さないモノを「美しい」と感じさせてきたのでしょう。

もし何かのきっかけで、自分の中でなんとか保っている「生きている人間への関心」の一切が消滅してしまったら、どうなるでしょう。その時は、本当に霊安室へ忍び込んで、誰かの遺骸にすがりついているかもしれません。

美しき死体よ、どうか我が面前に、現れることなきよう……。

「美しい死体」を考えると、はじめにこの
「オフィーリア」が思い浮かぶ(ミレー画)。
夏目漱石曰く「風流な土左衛門」。
いい言葉だ……。

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