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【私の感傷的百物語】第三十話 黒い球体

子供の頃、実家で黒い球体を見たことがありました。ちょうど僕がトイレへ行こうと、一階の畳敷きの部屋に差し掛かった時のことです。突然、野球ボールくらいの大きさをした真っ黒い塊が、視界の上からすごいスピードで現れたのです。いきなりのことに驚いた僕は、必死にその姿を目で追いかけました。球体は自分の周囲をあちこちと飛び回った後、部屋の出入り口へと向かい、そこで障子と障子の隙間にスルリと入り込んで、消えてしまいました。

その後、水木しげるの妖怪図鑑に「黒玉」という妖怪が載っているのを見ました。僕は「これだ!」と確信し、妖怪に出会えたとはしゃぎ回って喜んだものです。今考えてみると、強い光を見た後で視界に現れた残像を、妖怪だと勘違いしたのかもしれません。しかし当時の僕の目には、「となりのトトロ」に出てくる「まっくろくろすけ」のようなモノが、障子と障子の間へ、まるで逃げ込んだかのように見えたのです。

この黒い球体は、僕が唯一「視覚を通して捉えたなんだかよく分からない存在」です。そもそも音や気配と違って、お化けや幽霊を実際に見るのは非常に難しいでしょう。水木しげるも、以前観たテレビ番組の中で「妖怪感度」という言葉を使っていましたが、これも視認するのではなく、存在を感じ取るという意味合いでしょう。それだけに、怪異を目で追いかけたという前述の体験は忘れられません。「黒玉」とおぼしき塊を必死になって追っている間、僕は確かにお化けやモノノケの存在を信じていたのです。近代の生み出す理性の光を体中に浴びて成長し、現在もそのただ中で日常を送っていても、ふと、あの時の緊張と恐れと高揚感を、ほのぼのと、のびやかに、郷愁に似た気分で振り返ることがあります。

人間は、事実だけで生きている訳ではありません。

まるで墨汁を落としたような……。

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