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「基礎の徹底」絶対派と「主体的な学び」礼賛派の対立は必然かもしれない

教員同士で話をしたり、Twitterでのやりとりの中で度々見られるのが二つの派閥の対立です。

二つの派閥とは「基礎の徹底」絶対派と「主体的な学び」礼賛派のことです。

「基礎の徹底」絶対派

この考え方をしている傾向として、本人が比較的真面目に公立学校を卒業し、努力して教員になった人が多いように感じます。(個人の感想です)

単語や文法の理解無くして英語を学ぶことはできない、計算能力なしに数学の学習は成立しない、という考え方の中で特に先鋭化した人たちです。

彼らは高校で言えば教育困難校(いわゆる底辺校)や小中学校の荒れた地域の学校に勤務している教員が多いのも特徴です。

また、自身の成長過程の経験則としても、そうした基礎学力の無い同級生の姿を横目に見ながら学習した人たちです。

彼らは実態として、教育や授業が成立しないことを経験し、現在進行形の課題として立ち向かっています。

そして、そうした学校の生徒の多くは基礎学力が極めて低く、意欲は皆無、指導する日本語の理解すら怪しい状況です。

学習に対しての意欲が低いが、それ以前に学習すること自体に否定的な雰囲気が出来上がっているような状況とも言えます。

その状況を打破するには、最低限の知識を教え込む必要があり、PBLの前に現実の課題に向き合うべきだという主張をしているのです。

「主体的な学び」礼賛派

「主体的な学び」に対して好意的以上に賛意を抱いていている人たちは、研究校やSSHやSELHi、あるいは比較的落ち着いた地域の小中学校に勤務する人が多い傾向があるようです。

偏差値的には高くないが、荒れていない地方の普通高校なども想定されます。

彼らの特徴として、国立大学附属や私立、あるいは比較的良好な教育環境で育ち、学習に前向きな人が一定数存在する環境で生活をしてきた経験がある人が多いように感じます。(これまた個人の感想です)

彼らの周辺では、真面目で指示には従うが能動性ややる気のない生徒が一定数いて、その子たちの尻を叩き、気持ちに火をつけることが課題となっています。

そうした生徒の多くは、定期試験はそれなりにこなせたり、既習内容の理解はある程度できているという前提であるため、よりマインドセットの切り替えに意識を払うべきだという主張になるようです。

見えている世界が異なる二派

彼らの議論は非常に不毛です。

学力不足で話し合いそのものが成立しないレベルの生徒の授業を話している人と、言われたことを覚えることを学習と認識している生徒では議論する前提があまりにも違い過ぎるからです。

この二派の人たちの目に見えている世界は異なっているということは彼ら自身の多くも理解しています。

しかし、発信活動を行うような先鋭化した人たちは勤務先の異動が偏りがちになります。

「基礎の徹底」請負人は困難校を渡り歩くことになり、学習意欲の枯渇した生徒を繰り返し見ることで、どこへ行っても世界は基礎学力の無い生徒で溢れているという世界観を強めるでしょう。

一方で、「主体的な学び」伝道師は研究校に引っ張りだことなるため、生徒が顔色を変えて学びへの志向を強める成功体験を何度も繰り返し、意欲を内在した生徒しかいないという性善説に偏向していくでしょう。

対立は必然

このように、前提となる状況設定が異なり過ぎる以上、こうした対立は必然なのでしょう。

私を含めた多くの名も無き一般教員、SNSで発信などしない人たちはその二つで常に揺れ動いている、というのが現実の教育現場でしょう。
(昨今、文科省は「主体的~」に全振りしていますが)

文科省の中途半端な態度が現場の対立を生む

とはいえ、社会で求められる能力は変化しており、その能力を身に着けるためにはこれまでのやり方では難しいのは事実です。

ところが、直接の出口である大学入試(高校入試も)の内容自体とその評価軸はそこまで変化していません。

本当に変わるべきは入試制度であり、いかなる批判も無視してこれを問答無用で変えてしまえば、現場の教員は間違いなく変わります。
(混乱はあっても、現場の人間は必ず帳尻を合わせられるでしょう)

はっきり言えば、学習指導要領などよりもよっぽど入試制度は現場への強い影響力を持っているとも言えます。入試制度は極めて強権的に学習内容や手法を変えることができます。

とはいえ、新共通テストの英語外部試験導入時のように、腰砕けの姿勢とならないような毅然とした改革でなければ意味がありません。

「基礎の徹底」と「主体的な学び」の対立は、「入試」と「実社会」という対立の代理戦争であり、それらを止揚した方針を打ち出すことこそが文科省の仕事なのではないでしょうか。

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