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ムスリムの「アバヤ」を公立校で禁止するフランスの学校教育と「laïcité(ライシテ)」という考え方


「アバヤ」禁止となったフランスの公立校

フランスのガブリエル・アタル教育相は一部のムスリム女性が着る、「アバヤ」について、公立校での着用を禁止すると発表したそうです。

頭部に巻く「ブルカ」に関しても2004年より禁止をしており、これによって衣装からだけではムスリムであることがより分かりにくくなくなるということになります。

私たちは日本人のとってフランスと言えば自由の国、平等、博愛といった言葉が思い浮かぶように、人権意識が高く個人の権利を最大限尊重するというイメージを持ちがちです。

そうした視点から見るとこの「アバヤ」禁止令は明らかにその原則に反するように見えます。

しかし実際にはフランスの国家原則からすれば今回の決定は十分に納得(それが正しいかどうか、ムスリムを尊重するかどうかとは別の話です)できる話なのです。

「laïcité(ライシテ)」と「世俗主義」

この手のフランスと宗教問題に関して日本のマスコミの多くは誤った訳語を用います。

今回のアタル教育相の言葉はその典型です。

 アタル氏は「世俗主義は、学校で自分を解放する自由があることを意味する」と述べるとともに、「教室に入った際に、その児童・生徒を見ただけで宗教が判別可能であるべきではない」との考えを示した。

リンク先の記事では「世俗主義」という言葉を用いていますが、これが問題の本質を分かりにくくしています。

「世俗主義」とは「政教分離原則」、「信教の自由」、「宗教差別の禁止」の三原則を含む考え方のことで、宗教的権威よりも世俗の権力を上に置くものであり、民主主義の土台の一部ともなっている考え方です。

ところが、この読み方ではフランスにおける「アバヤ」の禁止が正当化されるのか理解できません。

むしろ逆に、「信教の自由」を制限するようにすら見えてしまいます。

その原因が「世俗主義」という言葉をこの文脈で訳語として用いたことなのです。

ここではむしろ「laïcité(ライシテ)」という原語をそのまま用いることが適切でしょう。

フランスにおける「laïcité(ライシテ)」という原則の重要性

今回の文脈においては、「laïcité(ライシテ)」は「非宗教性」という言い方が伝わりやすいかもしれません。
(これも正確な訳語ではないし、むしろ日本語には訳語が存在しないのですが)

「laïcité(ライシテ)」フランス共和国憲法第1条で「不可分 (indivisible)」、「非宗教 (laïque)」、「民主的(démocratique)」、「社会的 (sociale) 」と国家の定義の中で掲げられているぐらい、国家観の一つとして重要視されています。

「laïcité(ライシテ)」について考えるためにはフランスの建国史を紐解く必要があります。

私は門外漢ですので詳しくは避けますが、フランス革命において世俗権威による政治である共和制に対して激しく反発したカトリックとの対立から生まれたとされています。

この過程を経たことで、フランスにおける「非宗教性」というのは積極的な宗教性の排除となり、特に「laïcité(ライシテ)」という言葉が用いられる文脈では「公的な領域から宗教的な要素を排除する」という意味を持つということになります。

フランスではそうした公的な場に宗教的な価値観を持ち込まないことによって、信教の自由が保証されるという考え方が主流だということです。

こう考えると今回の「アバヤ」や以前からの「ブルカ」の学校における着用禁止という政策に対して、論理的な整合性をとることができるでしょう。
(その賛否に関しては別の話です)

女性解放運動と「laïcité(ライシテ)」

今日の「laïcité(ライシテ)」をベースとした宗教的着衣の禁止問題は女性解放運動とも結びついています。

「アバヤ」や「ブルカ」の着用を義務付けられた女性たちは、イスラム主義やイスラム男性からの束縛を受けており、その非差別的な待遇から開放すべきであるというフェミニズムと結びついています。

ところが一方で、「アバヤ」や「ブルカ」を着用する文化はイスラム社会に根付いた習慣であり、肌を見せることに対し抵抗のある女性も多く、実際にかなりの割合の女性が自らの意思で身につけているという主張も存在します。

こうしてみると、イスラムという宗教だけでなく、そこに付随する文化的な習慣習俗がフランスの伝統的価値観である「laïcité(ライシテ)」とフェミニズムと結びついて宗教対立が起こっていることが分かります。

他人事ではない

現時点ではフランスとイスラムの問題は対岸の火事ですが、日本も早晩そうしたことを言えなくなる可能性はあります。

近年は在留外国人との摩擦が問題化する場面も増えています。

ここ最近で言えば、埼玉県川口市のクルド人問題などはその良い例でしょう。

良くも悪くも日本には宗教を排除する「laïcité(ライシテ)」という概念は存在しません。

その中で外国人をどの程度まで受け入れ、どのように共生するのかという問題はより身近になっていくでしょう。

フランスを良き先例として学びを深めたいところです。

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