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「大学無償化」反対のネオリベラリストが見ようとしない、高等教育機関のインフラとしての価値


都立大学無償化

東京都の小池都知事はは2024年度から授業料無償化の方針を打ち出しました。

その件に関して、経営コンサルタントかつ通信制大学の学長を務める大前研一氏は「大学まで無償化」ということに反対の立場をとっています。

大前氏の主張

大前氏が大学無償化に反対を以下のロジックで主張しています。

  • 大学は成人が通う場所である

  • そのため大学に進学するのは自己責任である

  • また、大学は社会人になった時の「稼ぐ力」をつけるための教育機関である

  • 進学資金が無ければ奨学金を借り、「稼ぐ力」を身につけるべき

  • したがって公金を投入すべきではない

加えて以下のロジックで現代の日本の大学を批判しています。

  • 奨学金を返済できない若者が増加している

  • 奨学金を返済できないのは「稼ぐ力」が身についていないからだ

  • つまり日本の大学は「稼ぐ力」を身につけさせられていない

  • 「稼ぐ力」を身につけさせることに特化した大学にしなければ海外人材に太刀打ちできない

一見するとなるほど、と思う論理展開です。さすがはMIT博士、元マッキンゼー日本支社長、経歴に違わぬ優秀さがうかがえる論理展開です。

大学は自己責任か

私の感覚としてはこの大学は自己責任、「稼ぐ力」を身につける場所であるという大学の定義そのものに対して違和感を抱きます。

確かに彼の滞在していたアメリカではそうした認識が一般的であることは否定できません。

しかし日本においてはどうでしょうか。

高校卒業者の半数以上、短大、専門学校まで含めれば8割強の人間が進学する時代においては大学を中等教育機関と分けて議論することが難しくなりつつあるように感じます。

そもそも教育は社会インフラであり、その受益者は教育を受けた本人というよりも、その個人が所属する社会全体であるという考え方が浸透しつつあります。(中教審の議論の中でもそうした提言が何度も出されています)

大前氏の主張する高等教育受益者本人説はあまりに視野の狭い暴論と言えないでしょうか。

日本の大学では「稼ぐ力」が身につかないか

では「稼ぐ力」に関してはどうでしょうか。

まず前提として、多くの大卒者は国内において十分に「稼ぐ力」を備えています。生活が困窮しない程度には給与を受け取っていますし、奨学金の返済ができない人は極僅かです。

令和2年度のデータですが、奨学金の延滞率は約3%となっています。

つまり97%の人は返済ができており、「稼ぐ力」がある、と言えてしまうのです。

また、文章中で氏は自身も関わるオーストラリア、ボンド大学のアントレプレナーシップ(起業家精神)コースに触れています。

仮に彼の主張する起業を「稼ぐ力」の指標としてとらえた場合、日本人は起業率が低く「稼ぐ力」がないのでしょうか。

これを見る限りでは確かに日本の起業率は欧米よりも低いのは間違いないようです。アメリカの半分、フランスの1/3ともなっています。

しかし、欧州経済のけん引役であるドイツなどは日本とそこまで大きな差はないことから、世界的にやや低く向上が期待されるが、決定的な要因とまでは言い切れないように感じます。

そもそも起業の率がアメリカでも10%程度であり、起業はあくまでも一部の人の選択にしかなっていないのが現実なのです。

ここから分かることは、日本の大学が「稼ぐ力」を身につけさせられていない、と一方的に批判を受けるほどの状況にはない、ということです。

最上位層が振るわない

一方で同資料で気になるのが、ユニコーン企業数の国際比較です。

社団法人.jp

日本は諸外国と比較してユニコーン企業(企業価値が10億ドル以上の未上場企業)が極端に少ないのが目につきます。

実際、この30年、スタートアップが巨大企業として成長した例は国内には少ないのに対し、アメリカではGAFAなどが台頭した状況と比較して明確に異なります。

事実、輝かしい経歴を持つ経済、経営のプロである大前研一氏ですが、氏の起業実績はマーク・ザッカーバーグにもジェフ・ベゾスにも遠く及びません。

そして氏のロジックを借りるのならば、最上位層のエリート教育が不十分であり、国際的な「稼ぐ力」を育成できていないというのはその層においてはたしかに成り立つ話なのかもしれません。

高等教育の社会インフラとしての価値

私は今回でも、そして過去記事でも何度も書いていますが、教育は社会インフラであり、生活基盤を支える社会の土台となるものと考えています。

これまでの社会ではインフラとしての最低限の教育レベルが中等教育でしたが、技術の高度化によって高等教育が求められるようになっている、というのが現代の日本の状況です。

もちろん、その過程で高等教育を受けるべきかどうかという学力レベルの人たちの問題が発生はしますが、これは高校進学が一般化した50年前にも一度起こった現象の再来でしかありません。

そしてこの議論はかつて大学進学をした人たちの優越感と懐古主義の表れであり、三丁目の夕日を見て涙する高齢者と同種のノスタルジーの発露でしかないのです。

教育の受益者が被教育者個人という考え方から、社会全体がその受益者である、という認識へ日本社会が変化する必要があるのではないでしょうか。

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