往復書簡 第2便「才能について#2」(往信:タムラ)

内田先生
 
 
こんにちは。タムラです。
先日は、ご返信ありがとうございました。
 
「才能について」の分類(平時/非常時、多数派/少数派)があり、その分岐点は「競争に耐えるかどうか」というお話を拝読して、
わたしがイメージしていた「才能」は、「平時の才能×多数派の才能」だったのかもしれない、と思いました。
というのも、スパルタ的な感じでビシバシ育てる(というか鍛える)厳しさに耐えられないと、「才能がない」と思ってきたかもしれない、と感じたからです。
少しオーバーな表現をすると、その厳しさに耐えられなくなった脱落者を横目に見ながら、歯を食いしばって耐え抜いた「勝者」が「才能のある人」という具合に。
 
だからだと思うのですが、内田先生がお考えの「おひさまにあてて、お水をあげて、丁寧に丁寧に見守って育てていく」という「才能の育て方」に触れたとき、とても驚きました。
この育て方だと、どんな才能もぐんぐん伸びていきそうですし、「未知なる自分」と遭遇することもできそうで楽しそうですし、競争とは無縁の環境にも思えて、「非常時×少数派」の才能も育ちやすそうですね。
 
 
ちょっとまだわたしのなかで、魚の小骨がのどにささったような感じがしていて、「才能」について重ねての質問、お許しください。

才能が枯渇する一つの原因に「(自己利益の増大の一種として)飯のタネにすること」があったと思います。
で、次のようなケースの場合、わたしの想像の方向性が誤っているか、必要なパズルのピースを持ち合わせていないか、なにかあって、理解に至らない点がありまして…。
 
例えば、運動能力に恵まれた人が、その資質を使ってプロ野球選手になり、メジャーリーグで活躍する選手になったとします。
日本のプロ野球界以上にものすごい年俸を提示されて、諸々の条件にも合意してメジャーリーグの球団を契約し、プレーをする。
このとき、「才能が枯渇する原因」となる「才能で自分を飾ること」や「周囲からの敬意や服従」や「周囲への威圧」などを当人がしなかった(そんな気がさらさらなかった)としても、「飯のタネ」にはなってしまっているように、わたしには感じられまして…。
なにか大切なところを、わたしが見落として、「飯のタネになっている」ように見受けていると思うのですが、自分で何度か点検してみたもののわからなくて、再質問に至りました。
 
先に挙げた例は、「平時×多数派」の才能の場合でしたが、「非常時×少数派」の場合でも「飯のタネになる(なってしまう)」ことはあるのかな、とも想像しています。
「平時×多数派」の才能の場合は苛烈な競争の勝者として、「非常時×少数派」の才能の場合は個別性によって、「飯のタネ(=対価や報酬)」が発生するのかな、と。
んー…でも、わたしは大事な何かを見落としているんですよね、これって。
内田先生、わたしは何を見落とし、見過ごしていますか?(切実)


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