見出し画像

往復書簡 第7便「霊性について」(往信:タムラ)

このnoteでは、神戸女学院大学 内田ゼミ卒業生・タムラが、
恩師・内田樹先生へ人生相談する様子を公開しております。
内田先生の学術的武道的な専門領域から遠く離れた、
ごくごく普通の、市井のタムラへ、
“教師としての仕事の1つ”と内田先生が位置付けていらっしゃる
“卒後教育”をリアルタイムで更新中。
「ウチダせんせい、あの…」とやってくるタムラに、
冬は「そこ寒いから、このおこたにでもに入って入って。」と、
夏は「暑かったでしょ。とりあえず、麦茶でも。」と、
内田先生がおっしゃる姿が目に浮かぶ、
世界で(たぶん)一番ほっこりする『人生相談室』。
=====
・相談する人:タムラショウコ
 (神戸女学院大学 2007年度内田ゼミ卒業生)
・相談に乗る人:内田樹先生
 (凱風館館長、神戸女学院大学名誉教授、仏文学者、思想家、武道家)

世界一ほっこりする人生相談室、の図。
(冬バージョン)

内田先生

先般の「社会的信頼について」へのご返信、ありがとうございました。
「信頼」は「切れば血が出るリアルなもの」というところに、わたし自身のリアリティがなかったんだな…と、なんだかぐわぁ~んと頭を殴られたような気がしました。
(内田先生はそんな暴力的なことはなさりません。けれど、わたしにとってそのくらいの衝撃があった、ということです、念のため。)
そして、これはまずいな、と。
そもそもの生きている実感・リアリティは、希薄だったのかもしれん…これはなんか、まずそうだな…と。
生きているリアリティが希薄ということは、喜びへの反応も薄ければ、痛みにも鈍感。
そういうのって、「人として」だいぶまずい気がしたんです(今さら感は一旦脇へ置いておきます…)。
これは、ひとつまえの「社会的信頼とは」の質問に書いた「心臓の裏のあたりに、すぅーっと冷たいものが流れる」ような感覚よりも、もっとずっと自分自身にとって切迫した感じで、ある意味、この切迫感にはリアリティがありました。

『社会的信頼について』のご返信を拝読しながら、質問文を書いた時の自分を振り返ってみると、「社会的信頼」という言葉を用いて、特定の誰かの顔が浮かんでいたわけではなかったな、と思います。
ユニバーサルマークの人型みたいな人(らしき姿)が数人~10名程度。
こんな図像が思い浮かぶということからも想像がたやすいように、「信頼」の実感、切れば血が出るようなリアルは、そこにはないし、そして何よりも、自分自身の「実感」の欠落感がありありと感じられました(欠落感がありありと、ってすごく矛盾していますね)。

質問の文面をしたためているときに、「この内容、内田先生にとんでもなく失礼で、自分のよからぬものっぽいし、ひとに見せてはいけないものかもしれない。」と思いつつも、「ここに自分に必要な何かが潜んでいる(…かも)」というかすかな気配を感じていることを、どうにもごまかせませんでした。
自分が誰かを見るときの目と、自分が自分に向ける目に違いがあること。違いがあるように見えて、そうではないような感じ。そして、自分が自分に向けている目で、周りの人を見ている可能性は否定できないことが、突きつけられたように思います。
でも、なんだかこの辺に正直にならないと、いけない感じがしたんです。

そして、最終的には、「内田先生に、“君は正直だと思うよ”と以前言ってもらったし、もうそうする以外にない!」とか、「もう内田先生のセントバーナード性に頼らせてもらうんだ!」などと、思いながら、えいっ!とメールの送信ボタンを押したのでした。
(どこまでも失礼な教え子ですみません)

先ほど書いた、自分自身の「実感」の欠落感というのは、身体実感、生きてる実感みたいなもののような気がしてます。
結構へらへら生きてきた方だと思うのですが、もしかしたら、「死んだように生きてきた」のかもしれないな、と。
こんな表現をすると、すごく大げさですね。
なんでしょうね…ここにいる、という実感みたいなものがかなり希薄、というような…。
「信頼されるには、ここで存在するには、ここにいるためには、こうでなければいけない」という縛りのようなルールのようなもの条件があって、しかもそのルールが結構シビアで、そのすごく狭く厳しい範囲からほんのつま先ほどでもはみ出せば、信頼をまるっと失う。
…こうして書いてみると、わたしが「信頼」と思っていたものは、ほとんど「査定(それもとても厳しくて嫌な)」ですね。
そして、そういうのはどうも「信頼」ではなさそうだなぁ、と同時に思いました。

いただいたご返信に何度も目を通しているうちに、自分の中の大音量の謎のイデオロギーみたいなものでかき消されそうになりつつも、「んー、やっぱりさ、それちがうんじゃない?」という声が、自分の中でだんだんと通って、こちらに届いてくるような気がしました。
「自分で自分の生きていく力を減殺するのは、やめにしましょうよ」と。
「できることなら、今ここからでも、生きる知恵と力を高めていきましょうよ」と。

そういうことを考えているうちに、「スピリチュアリティ」「霊性」という言葉がふと浮かんできて、「霊性と言えば…」ということで、『現代霊性論』『日本霊性論』を立て続けに拝読しました。
自分の中にすでに存在してしまっているイデオロギーみたいなものが、どういう経緯で植え付いたのかを眺めていくことと、そうしてそのイデオロギーを無意味に、無意識に強化してしまわないように、言い方を変えれば、生きていく力を減殺する材料にしてしまわないようにすることも必要かな…と思ったときに、「霊性が大事な気がする」と思い、2冊の著作に手を伸ばしました。

自分の中にあるイデオロギーに触れていくことは、タイミングや内容によって、後悔することもあるし、嘆きたくもなる。
でも、後悔し続け、嘆き続けることで、自分の傷を深くしていくことにも、自覚的であることも大切(もちろんひと口にそう言えないこともたくさんあるけれど)。
それは「自分の生きる知恵と力に資するか」が分岐点で、生きる知恵と力を下支えして、あたたかく包み込んでくれているものが「霊性」なのかもしれない。
そんなふうに思い至った、というわけです。

ということで、今回の質問は、この「霊性」についてです。(前置きが長くてすみません)
『日本霊性論』や『困難な成熟』の中で社会集団が生き延びていくための4つの柱として、内田先生が書かれていた「祈り・癒し・学び・裁き」。
古代から、信仰・医療・教育・司法の4つが機能してきた社会集団は、生き延びることができる。
もしこれを、一個人という「社会の最小単位」にも転用すると、個人としても、社会集団としても、生き延びやすくなるのではないか、霊性を大事にしていけるのではないか、と。
また、個人に当てはめて考えるときに、「裁き」を「選択」に置き換えてみました。
これは、4つの柱に対応する英語を調べていたときに、「裁き」にはJudgeのほかに、Choice、Try、To separate from the othersといった言葉があり、「決めて、選んで、やってみる」というイメージから「選択」としてみました。
(内田先生のお言葉を勝手に変えるご無礼に、伏してお詫び申し上げます)

4つの柱のイメージは、こんな感じです。

<祈り>信仰、儀礼   :自分の直感を信頼する。自分の体を信頼する。自分自身の「なんとなく」の直感の芽を摘まない。「よくわからなさ」のうちにある儀礼の有用性に立ち返る。
<癒し>分離、手当、回復:自分に癒着したイデオロギーをはがした傷口を手当てし、回復に努める。
<学び>分離、移行   :イデオロギーからの分離・移行。
<選択>移行、再統合  :自分の生きる知恵と力が高まる方への移行・再統合。

生きる知恵と力を高める方へ、自分の霊性を大切にする方へと、自分で自分を導いていく4つの要素、というようなイメージです。
この4つを調和させながら自分の中で活性していくと、生きる知恵と力が湧いてきて、生きている実感がしてるんです、すでに私の中で(気が早いかな…)。

こうして書いてみると、霊性は「勇気」とともにある気がしてきます。
自分の直感を信じたり、そこに身を投じることは、「勇気をもって、選択すること」なのかもしれないな、と。

そんなこんなで、自分の「霊性」の手ざわりを取り戻すために、合気道を始めてみることにしました。
現在の住まいから、一番近い合気道の道場が自由が丘の多田先生のところという、ありがたいご縁に身を委ねております。

2005年の「現代霊性論」の講義を受講してから20年近くが経って、このような形で内田先生と釈先生の共著本を手に取る機会に改めて恵まれたことが、ありがたく、不思議ですし、でも多分これは偶然ではなくて必然なんですよね。
今思えば、神戸女学院大学は、学生の私にとって「のびのびを人生を過ごせた場所」であり、それは、自分自身の霊性を解放できる場ということだったのかもしれません。
内田先生が直接教鞭を取られるもののほか、さまざまな「不思議でおもしろい」講義に身を浸していたことで、わたしの「のびのび」をそのまま「のびのび」させてくださったのかなと思います。

霊性を賦活する。
SpiritualityのActivation。
これがいまの、これからのわたしに必要なことだな、と岡田山の景色を思い出しながら、感じます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?