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往復書簡 第7便「霊性について」(返信:ウチダ)

このnoteでは、神戸女学院大学 内田ゼミ卒業生・タムラが、恩師・内田樹先生へ人生相談する様子を公開しております。
内田先生の学術的武道的な専門領域から遠く離れた、ごくごく普通の、市井のタムラへ、“教師としての仕事の1つ”と内田先生が位置付けていらっしゃる“卒後教育”をリアルタイムで更新中。

「ウチダせんせい、あの…」とやってくるタムラに、冬は「そこ寒いから、このおこたにでもに入って入って。」と、夏は「暑かったでしょ。とりあえず、麦茶でも。」と、内田先生がおっしゃる姿が目に浮かぶ、世界で(たぶん)一番ほっこりする『人生相談室』。

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・相談する人:タムラショウコ
 (神戸女学院大学 2007年度内田ゼミ卒業生)
・相談に乗る人:内田樹先生
 (凱風館館長、神戸女学院大学名誉教授、仏文学者、思想家、武道家)


世界で一番ほっこりする、人生相談室(冬バージョン)


タムラさま

こんにちは。内田樹です。
メール頂きながら、返信遅れて申し訳ありません。
神戸はこのところずっと寒いです。
今日も部屋にこもってます。

返事が遅れたのは、メールには「質問」とありましたけれど、何がいったい質問なのか、よくわからなかったからです。

集団が生き延びてゆくために必要な四つの柱のうちの一つが「祈ること」だというのは僕の考えですけれども、「四つの柱」論は別に一般的なものではありません。僕がひとりで勝手に言っているだけで、誰からも承認されたことがないただの思いつきです。四つじゃなくて三つかも知れないし、五つかも知れないし、いろいろな意見があってよいと思います。僕はなんとなく柱が四つあるほうが建物としては安定するかな・・・と思っただけです。

それが個人についても同じように適用できるかどうか、というのはタムラ君のオリジナルなアイディアで、僕はそれは思いつきませんでした。
わりといけるんじゃないでしょうか。
人間は自分の身体をモデルにして、道具を作ります。
同じように、自分の身体をモデルにして、社会組織も作っているんだと思います(組織の指導者を「頭(head)」って言いますからね)。

当然、個人の中にも「裁く」機能、「癒す」機能、「学ぶ」機能、「祈る」機能はあると思います。
ただ、個人の場合は組織ほど単純じゃなくて、「悲しむ」とか「愛する」とか「共感する」とか「敬する」とか「落ち込む」とか「怒る」とか、いろいろな感情的機能があって、それに行動が支配されることが多いので、人間の機能を四つの柱に集約するのはちょっと難しいかも知れません。

それに、人間個人については、できるだけ話を複雑にする方が、話を単純にするよりも「現実的」です。

個人における「霊性」の仕事は、第一義的には文字通り「超越的なもの」とコミュニケーションすることです。自分の理解も共感も絶した「鬼神」の類とでも、なんとかコミュニケーション(のようなもの)を立ち上げることです。
そのための作法が「礼」です。
「礼」というのは理解も共感も絶した他者とコミュニケーションを立ち上げるための工夫のことです。その主意は「鬼神は敬して之を遠ざく 知と謂ふべし」という『論語』の言葉に尽くされると思います。
「敬意」を示すこと。
相手は「鬼神」ですから、人語も通じないし、人情も解さない。でも、そんな「鬼神」でも「敬すればこれを遠ざけることができる」。これは鬼神の切迫をリアルに実感していた古代人ならではの言葉だと思います。
敬意というのはそれだけの「力」を持っているということです。

レイモンド・チャンドラーの造形した私立探偵フィリップ・マーロウはさまざまな名言を語っておりますけれど、これが一番有名です。

If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

「非情でなければ生きてはこれなかった。礼儀正しくなければ、生きているに値しない」

hard は「非情」でいいと思うんです(「タフ」という訳語がよく使われますけれど)。むずかしいのはgentle の訳語です。「穏やかな、親切な、優しい、礼儀正しい、物静かな」といろいろ意味がありますけれど、「非情でかつ親切」ってなかなか想像しにくいですよね(フィリップ・マーロウは別に「親切」な人ではありません。「穏やか」でもないし)。でも、きちんと仕事をしている人に対しては「礼儀正しい」(いばってるやつとか、嘘をつくやつとかに対してはむちゃくちゃ「無礼」ですが)。
ということはマーロウ氏は「どういう場合に礼儀正しくふるまうか」についてはきわめて神経質であったことが伺われます。そこに何か「本質的な程度の差」があると感じていたのでしょう。

彼はたぶん「礼」というものの力を感知していたのだと思います。ただしく「礼」を扱えば、いろいろなトラブルを回避し、「よきこと」を生み出すことができるけれど、「礼」の扱いを誤ると、命を落とすことになる。
それが「gentleでなければ生きているに値しなかっただろう」という言葉の真意ではないかという気がします。
人が「生きているに値するか」どうかを決定するのは本人ではありませんし、周りの人間でもありません。その決定の基準を知るものは人間の世界にはいない。それは人間界の「上位審級(appel)」に属します。鬼神の領域です。

鬼神をコントロールするために人間ができることは「敬する」ことしかないと孔子は考えました。たしかに、そのための「礼」の作法は一応整っているのですが、それだって、君子が長い時間をかけないと習得できない技法です。素人がうかつに手を出すと、鬼神を怒らせてしまって、命を落とす。
「敬する」側も命がけですけれど、果たして、あるふるまいが「敬する」ことであるかどうか、その判定基準を握っているのは鬼神であって、人間ではありません。「生きるに値するかどうか」決めるのは私じゃなくて、「上の方にいる誰か」です。それを鬼神と呼んでもいいし、天と呼んでもいいし、摂理と呼んでもいい。
だから「生きるに値しなかっただろう」というのは、マーロウ氏の「これまで私が生き延びてこられたのは、とりあえず礼儀正しくあるべきときには、適切に礼儀正しかったからだろう(よう知らんけど)」というふうに解釈してよろしいかと思います。

話がとっ散らかってしまいましたが、要するに僕が言いたかったのは、「霊性」というのは個人においては「超越者を畏れる心」のことであって、それは日常生活では、「gentleでなければ、生きているに値しないだろう」という自己規範に従って生きるということではないかと思います。

日常生活におけるgentle というのは別にそれほど難しいことではありません。エレベーターで「お先にどうぞ」と譲ってあげたり、混んでいる電車で、つらそうな人に席を譲ったあげたり、大きなカバンをもてあましている人がいたら、列車の網棚に載せてあげたり、ウェイトレスの人がうっかり服にお茶をこぼしても「気にしないで」と言ってあげたり・・・そういうことです。

僕はそれが個人における「霊性」の働きであり、「祈り」だというふうに思っています。

変な考え方ですけれども、僕はそう思います。



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