往復書簡 第1便「才能について」(返信:ウチダ)

タムラさま
こんにちは。内田樹です。
「人生相談」往復書簡の第一便拝受しました。
ゼミ生は卒業してもずっと「教え子」であることに変わりはありません。「卒後教育」は卒業生たちが望む限りエンドレスです。
というわけですので、往復書簡を始めます。

第一便のご質問は「才能」についてでしたね。
僕の書いたものをよく読んでいるようですから、これまで僕が「才能」について書いたことは、ほぼご理解くださっているようです。
これは「知性」について書いたときも同じことを述べましたけれども、あらゆる人間的資質は「集団」的に発動するものだということです。
いくら知性があっても、学識豊かでも、芸術家として、アスリートとして天才であっても、あるいは金儲けが人一倍うまくても、「世界中の人がすべて死に絶えた後」に一人取り残されたら、そんな才能にはどれも使い途がありません。
まわりにいろいろな人がいて、その人たちそれぞれの資質の差異の効果として、才能は際立つ。それは「他の人ができないことができる」からですね。
ここのところを間違えないでくださいね。
「多くの他の人もできることを、他の人よりうまくできる」才能と「他にはそれができる人があまりいない」才能というのは、ちょっとカテゴリーが違います。
「他の人もできることを、他の人よりうまくできる」才能はこう言ってよければ、「世俗的才能」です。端的に社会的評価が高まり、みんなから「すごい」と称えられ、収入も増える。例えば「野球がうまい」とか「英語がうまい」とか「歌がうまい」とか。
「他にそれができる人があまりいない」という才能は「非世俗的才能」です。こちらは正直言ってあまり「いいこと」がありません。世間の人から評価されることもあまりないし、お金がざくざく稼げるわけでもありません。
でも、「世俗的才能」も「非世俗的才能」も集団のパフォーマンスを上げるためにはどちらも必要なんだと思います。
天才的なアスリートのプレイを観ていると、僕だってどきどきします。身体が一緒に動き出す。そして、人間てこれほどのことができるんだ。人間すごい・・・と人間の可能性に対してすごく開放的で、楽観的になれる。
それをもたらすのが「世俗的才能」からの贈り物です。
非世俗的才能はそれとは違います。
そんなことをしている人間があまり(ぜんぜん)いない人たちです。周りを見渡すと、僕の周りにはぽつぽつといます。養老孟司、安田登、中田考、平川克美、兪炳匡、池田清彦・・・
この方たちはみんな「少数派」です。そして、少数派であることをまったく気にしていない。「理解して欲しい」と(ちょっとは)思っているけれど、「理解されないこと」が子どもの頃からのデフォルトなので、理解されなくても気にしない。
この人たちは集団が危機的状況に陥ったときに輝き出します。いわば「非常時の才能」です。集団が前代未聞の危機に遭遇したときに、「あ、それ、オレ前にみたことあるから、やり方知ってる」と言い出すような人のことです。
こういう人が一定数いないと集団の安全保障は成り立ちません。
でも、「非常時の才能」なので、「平時」ではあまり高くは評価されません。
気の毒だけど仕方がありません。

でも、「平時の才能」も「非常時の才能」も集団が生き延びるためには、どちらも必要なんです。
そして、個人について言うと「非常時の才能」の開発を選んだ方がたぶん生きやすいと思います。
他人と競争しないで済むから。
「他人との競争」という条件で、才能の開花する方向は分岐するんだと思います。
「他人と競争することが気にならない」という人は「平時」に向かい、「他人と競争するのが苦手」という人は「非常時」に向かう。

僕自身について言えば、中学生までは「平時の才能」の開発に夢中でしたけれど、高校生になってからは「非常時の才能」にシフトしました。「他の人がしないことをする」というのではなく「多数派がすることでも、自分の意に沿わないことはしない」ということです。

多数派にまぎれこむと、たしかに「みんなと同じ」なので、安心ですけれども、その代わり、「みんなができること」について相対的な優劣を絶えず問われるという不快に耐えなければならない。
少数派であると、「みんなと違う」ので、自分の思いがなかなか実現しませんし、努力してもあまり評価されませんけれども、競争を強いられたり、査定されたり、格付けされたりすることは免れることができる。
なにしろ少数派は数が少ないので、そこにいるだけで「よく来てくれたねえ」と周りの人たちから歓迎される。これはすごく居心地いいです。

昔、早稲田大学にイスラエル文化研究会という組織がありました。すごく小さな研究会でした。僕はその研究会でただ一人の「フランス文学研究者」でした。あとは神学、聖書学、西洋史、政治学、考古学などさまざまな分野の専門家たちでした。僕よりはるかに年齢の上の方々ばかりでした。ですから、入会したときは「よく来てくれた」と大歓迎されました。研究会で発表したときも、フランス文学の学会だと、もうめちゃめちゃに批判されるんですけれども、イスラエル文化研究会では、誰も意地悪なことをいわずに「いや~、面白かった」とほめてもらえました。僕が発表したのは19世紀フランスの極右と反ユダヤ主義者についての思想史研究という日本で僕ひとりしかやっていない分野のものでした。仏文の先生たちからは「そんな、『誰もやっていないこと』を研究しても評価されないぞ」と脅かされていましたけれど、イスラエル文化研究会では「誰もやっていないこと」をやっているのがよろしいと言ってもらえました。

多数派と少数派って、そういうふうに組織のありようが違うんですけど、これは両方いないと集団は健全なものにならないんです。

あ、才能の話でしたね。ですから、才能には「平時の才能」と「非常時の才能」、「多数派の中の才能」と「少数派の中の才能」の二種類があるということです。

タムラさんがメモ書きしてくれたように、才能は自分のために使うと目減りするものです。これはほんとうです。天賦の才能を、お金に換えたり、周りの人に「崇拝」や「尊敬」を求める道具に使ったりすると、才能はたちまち枯渇します。
これは当然です。才能というのは「天賦」のものですから、自分で創り上げたものではない。「外部」から流れ込んでくるものです。だから、それがきもちよく自分の心身を通り抜けてゆくように、自分を「良導体」にする。激しい水流が通る「パイプ」のようなものです。内壁に汚れがあったり、つまりがあったりすると流れが悪くなる。
我執や自己愛や私欲は「内壁の汚れ」のようなものです。
それがあると流れが悪くなり、場合によっては流れが止まる。
すると、昨日まで楽々とできていたことがある日できなくなるということが起きる。でも、ずっと楽々とできたことなので、「できない状態からできる状態になる」プロセスを経験したことがない。
これが天才の陥る「スランプ」です。
そして、これには出口がない。
どこかで「自分を手離す」ということをしない限り、スランプのまま生涯を終えることになる。
けっこう怖い話です。
天賦の才能は、自分の身体を素通りして、外に流出する。それが一番いいんです。自分のためには使わない。世のため人のために使う。そうしていれば、いつまでもきもちよく流れ続けてくれる。
これは確かです。賢愚とりまぜ多くの人を観察してきた内田が言うのですから確かです。
才能を活かしたかったら、それで自分を飾ろうとしてはいけない。それを「飯のタネ」にしてはいけない。それを差し出す代わりに人々の「敬意」や「服従」を手に入れようとしてはいけない。

さいわい、非常時の才能・少数派の才能は、そもそも「金にならない」ので、才能があっても、それでスポイルされるということが(あまり)ありません。

よく個人で画像配信とかしていて課金する人がいますね。
あれはよくないと思います。まあ、配信のためのコストくらいは回収したいと思うでしょうから仕方ないけれど、「オレの話を聴きたければ金を払え」というのは自殺的だと思います。だって、その「オレの話」って、その人の天賦の才能が発露したものでしょう? それを「出し惜しみ」するというのは、「パイプを止める」ことなんですから。そんなことしたら、そのうち「流れが止まる」ことになる。なぜ、それに気づかないんでしょうね。

でも、内田は本なんか出して印税もらっているじゃないか。「金を出さないと読ませない」というのはどうなんだよ。「出し惜しみ」じゃないか、と文句をいう人がいるかも知れませんけれど、お金を出さずに僕の話しを読みたければ、ブログに過去20年分くらい書いたものがあります(その相当部分は単行本に収録されました)。ですから、無料で本100冊分くらい読めます。
それをあえて本にするのは「ひたすらブログ画面をスクロールするより本読む方が楽」だからです。その「らくちん」分のコミッションです。それくらい払ってくださいよ。

え~と、話がとっちらかってしまいましたが、要するに才能にもいろいろあるけれど、どちらを選ぶか、これはけっこう考えどころだと僕は思いますね。
数日のうちに第二便にお答えします。
では~。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?