松崎

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松崎

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【短篇小説】日々に殺されてしまいそうになるには鈍感ではなくて、

   日々に殺されてしまいそうになるには鈍感ではなくて、しかし、だからといってだれかと話したいと言うようなこともなくて、たぶんぼくはこのままゆっくりと鈍くなってしまいたいのだろうけど、結局月曜の朝の満員電車の中ではふつうにイラついてしまうので、まあなんというか、イズムと行動というのは往々にして結びつかない。そんなとりとめもないことばかり考えているのは、明らかに昨日の夜の酒が頭の中に残っているからで、しかも三時間も寝ていないので、全てが薄ぼんやりとしてしまっていて、そういう時

    • 保坂和志「コーリング」論〜ツイッター的な、あまりにツイッター的な。あるいは拡散する「私」について

       保坂和志の中篇「コーリング」(1994年)は、ひじょうに実験的な形式の小説である。この小説では「東京コーリング人材開発派遣センタア」に勤めている/いた浩二、美緒、恵子のある一日が視点を移動しながら描かれる。ことなる場所にいる人びとの一日を、語り手は半ば強引に横断しながら語っていく。  このように、視点がフリーキーに移動していくのが、「コーリング」の特徴である。彼らに起こる出来事には何の連関もなく、互いが互いのことを思い浮かべたり思い出したりはするが、再会したり電話をかけた

      • カール・アンドレ展・あるいは生活と展示室、その間

         佐倉市のDIC川村美術館でカール・アンドレの個展『彫刻と詩、その間 Between Sculpture and Poetry』を見てきた。カール・アンドレ(1935-2024)はアメリカ生れの彫刻家、詩人。ミニマル・アートを代表する作家のひとりで、今回が日本初の個展らしい。  アンドレの作品は床に鉄板を並べてみたり、木材を積み上げてみたりといった物質がそのまま剥き出しになっているのが特徴で、だからこそ「ミニマル」と言われる。会場で配られた作品リストの解説によると、アンドレ

        • 『悪は存在しない』と「カメラを置くこと」について

           濱口竜介の新作『悪は存在しない』をぼくは公開日に観た、Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下で観た、しかしル・シネマの予告篇はいつも長い。13時10分上映開始で15時10分終了だったが、本篇は106分だったので14分も予告をやっていたことになる。たまにストーリーがほとんど分かってしまいそう、なくらい長い予告もある。今回は佐藤真という夭折したドキュメンタリー作家の特集上映の予告をやっていて、濱口竜介がコメントを出していた。「佐藤真の映画ではカメラが人物の前に回ることが多い。対立

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        • 『悪は存在しない』と「カメラを置くこと」について

          「すべての夜を思いだす」ということ

          すべての夜を思いだす、とはどういうことなのだろう? あるいはそんなことは可能なのだろうか? この映画のタイトルを目にしてだれもがまず思うだろう。まして、多摩ニュータウンという狭くはないが決して、「すべて」とは言い難い場所を舞台としている映画のタイトルなのだから。しかし、ぼくらは時々、すべての夜を思い出したような、そういうきぶんになってしまう。それもまたたしかなことだと思う。 ニュータウンと関わりのある表現だと、まず思い浮かぶのはtofubeatsの諸作だろう。tofube

          「すべての夜を思いだす」ということ

          『王国(あるいはその家について)』について(あるいは相対化と身体について)

          最近、ゴダールばかり観ているので、ゴダールの話からはじめてしまうのだが、ゴダールはむちゃくちゃなことばかりやっているせいであまり目につかないが、実は単純かつ圧倒的な「美しいショット」を撮れる映画作家だ──いや、正確にいえば映画作家だった。長篇でいえば2004年の『アワーミュージック』までで、「天国」パートの映像など、恋でもしたみたいにうっとりしてしまう。しかし、2010年の『ゴダール・ソシアリズム』以降になると話は変わってくる。ビデオカメラで撮られた映像はどぎつい色だし、まず

          『王国(あるいはその家について)』について(あるいは相対化と身体について)

          『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』について

          『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』について  ゴダールの遺作である『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』において彼のソニマージュは凶暴といえるまでの有り様を見せている。  佐々木敦は『ゴダール原論』の中で、「映像+音響=映画。実に単純な式。ただそれだけのことであり、ただそれだけのことを敢えて持ち出してみせたところにゴダールのラディカリズムの確信がある」と述べているが、今作のソニマージュはそのラディカリズムがさらに推し進められており、彼のフィルモグラフ

          『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』について

          【短篇小説】ハル、ヨル、メグル

           雨は今朝から降り続けていて、屋根から垂れてきた雨水が葉子の頬を伝って地面に落ちていった。 「電車来ないね」  葉子がつぶやく。あまりに小さなつぶやきだったので保は、最初じぶんの気のせいだと思った。 「うん」  ビルのむこうの曇天を眺めながら、何か言わないといけないような気がして 「この電車ってどこまでいくんだろう」 と、問いかけのような独り言のようなことを云う。 「荒川遊園」 「そっか。こどもの頃、行った気がする」  保はあらかわゆうえん、という響きを記憶の中から探してみる

          【短篇小説】ハル、ヨル、メグル

          映画『リコリス・ピザ』と社会化されない君とぼく(あるいは映画における「走る」ことについて)

          ●最近、映画において「走る」ことの意味について考えている。というのも、今年ものすごく夢中になった『リコリス・ピザ』がやたらと走る映画だったのと、こないだ『犬も食わねどチャーリーは笑う』を観ていた時になぜ自分がリコリス・ピザにグッときたのかの理由がよく分かったからだ。ふたつの映画の映画的な「質」にはたいぶ差があるように思うし、チャーリーに関してはキネマ旬報に載っていた宇野維正の「全篇を通してうっすらとスベり続けている」という評が適切だとも思う。けれど、チャーリーのクライマックス

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