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『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』について

『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』について
 ゴダールの遺作である『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』において彼のソニマージュは凶暴といえるまでの有り様を見せている。

 佐々木敦は『ゴダール原論』の中で、「映像+音響=映画。実に単純な式。ただそれだけのことであり、ただそれだけのことを敢えて持ち出してみせたところにゴダールのラディカリズムの確信がある」と述べているが、今作のソニマージュはそのラディカリズムがさらに推し進められており、彼のフィルモグラフィーの中でもっともプリミティヴなかたちで顕れている。それには今作が『奇妙な戦争』と名づけられた未完の映画の予告篇であり、純粋な意味で彼の最新作ではないことに由来しているとも言える。

 ではこれは映画ではない? 
 答えはノンだ。むしろ、今作が予告篇であることはむしろ、彼のソニマージュの本質を端的に示している。そこに映像/イメージ(=イマージュ)と音響(=ソン)の複合物があれば、何を撮っても映画になってしまう。それこそが、筆者の考えるJLGのソニマージュの正体である。佐々木の言うとおり、ソニマージュは「実に単純な式」である。その式におけるイマージュとソンは定数ではない。方程式が変数にどんな数字を代入しても成り立つように、イマージュもソンも無限に代入される可能性を持った変数である。それがゆえにあらゆることが可能であり、しかもどんな変数であっても導き出される答えは映画である。それは逆説的に、映画から映画以外の領域に越境してしまうことさえ可能にするだろう。映画がイマージュとソンから成り立つ、と言う点のみを遵守していれば、何をやっていてもそれは映画なのだ。

 ここまで読み進めた読者は、それがあるものと類似していることに気づいたかもしれない。そう、モダンジャズにおけるモード奏法である。JLGのソニマージュと筆者の解釈から導き出されるものは、ジャズ・トランペット奏者のマイルス・デイヴィスの考案したモード奏法と非常に似通っている。モード奏法については、保坂も『考えあぐねている人のための小説入門』の中で、「「モード奏法」で小説を書く」と題したセクションの中でふれている。モード奏法についての説明を、その保坂の文章から引用する。


 モード奏法とは、Ⅱ章でも少しふれたように、マイルス・デイビスとギル・エヴァンスが作り出した奏法だ。それまでの奏法はコード奏法と呼ばれるもので、この奏法にはコードがCからGに行くのはいいけれど、Aには行けないというような決まりがあり、その制約のなかで即興演奏を行う。(中略)コード進行についての制約があることには変わりがなく、それがジャズから自由を奪っていると考えたのがマイルスとギルのコラボレーションだった。そこで彼らは、(ものすごく乱暴な言い方になるけれど)コードという概念を取り払って、ある音階だけを決めたら、音は自由に出していいというモード奏法を考え出した。        

保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』


 保坂の文章はこのまま、「登場人物やそれらの人間関係、そして場を決めたら、あとはテーマなど考えずに書き出す」という彼の小説の方法論へと展開されていくのだが、ここで注目したいことは、モード奏法もソニマージュのような変数をもった式であるということだ。ソニマージュが

X(という映像/イメージ)+Y(という音響)=映画

という式あるのに対して、モード奏法はある

コード×X=アドリブ

という式で表すことができるだろう。モード奏法の登場は、モダン・ジャズにおけるアドリブの可能性を飛躍的に向上させた。奏者はこれまでのようにコードに捕らわれることがなくなり、これまで以上に自由な即興演奏を可能にした。ソニマージュもまた、そのように映画の可能性を飛躍的に向上させることが可能なのではないか。たとえば、本論の主題であるように映画や小説といった芸術作品を「生に開いてゆく」ことへの手助けだってできるかもしれない。映画が、個である作品から「一回限りの生そのもの」へ開かれていくこと。しかし、そのことについて論じるのは、別の機会に譲ることにして、ここで我々は『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』について詳しく見ていくことにしよう。


 開始から数分の間、無音が続く。それも「無音という音」というよりは、文字通りの無音である。イメージはむき出しのまま投げ出されている。つまり、まだ映画(ソニマージュ)ではない。ただの「ぼんやりとした」イメージ。それは彼の手によるコラージュ(彼の集大成とも言える『映画史』やそれ以降の『アワー・ミュージック』、『ゴダール・ソシアリズム』、さらには前作である『イメージの本』といった長篇で用いられたあらゆる映像をコラージュしていく、という手法が、ここでは一つの静止画の中にいくつかのイメージや文言を組み合わせる古典的な美術の手法であるコラージュに変化していることも興味深い)やポスターにも使われた発色のよい赤と黒が印象的なアブストラクト・アートであり、もはや映像ですらない。ゴダールはこれまで、モンタージュやストーリーといった一般的かつ伝統的な映画の要素を解体してきたが、この遺作で彼は、映像さえも解体してしまった。しかし、それでもそれはただのイマージュである。まだイマージュだけ。われわれは、これは映画なのか?と首を傾げる。われわれが観ているものは、美術館で流れているヴィデオアートや個人の写真フォルダのスライドショーと何がちがうのだろう。

 それから数分経って、突然大音量のいかにもこれまでのゴダール映画的な管弦楽が鳴り響く。その瞬間、音響がつまりソンが現れる。我々はそこでイマージュにソンが足し算される瞬間を目の当たりにする。ソニマージュが、映画が生まれる瞬間だ。ここでゴダールは種明かし的に、何が映画を映画たらしめているかを提示して見せている。

 これこそ筆者が、この遺作においてソニマージュがもっともプリミティヴに示されていると感じた要因である。そうして見た時、それぞれ順番を示す番号が振られた連続する静止画は、ひとつのカットであるというより、むしろ引き伸ばされた一フレームである、と考えた方が適切である。四十数カットで二十分のこの映画を一般的な映画のフレーム数(一秒で二十四フレーム)で捉え直すと、それはほとんど十倍に引き伸ばされた二秒の映画と捉えられるかもしれない。スポーツの教則ビデオが、インストラクターのお手本をスローモーションにして見せることで、ある動きのメカニズムを視聴者に懇切丁寧に説明するように、この遺作においてゴダールは、静止画を用いることでスローモーション的にソニマージュの内実を観客に提示して見せているといえるだろう。

 しかし、本論においてこの作品を分析する際に、ソニマージュの方法論の提示以上のものを取り出すことは困難である。それにはこの作品はあまりに短すぎる。むろん、この映画には多くの論じるに値する点が存在している。叶えられることのなかったシャルル・プリニエの『偽旅券』の映画化、あるいは『アワー・ミュージック』の語り直しやモノローグにおける戦争についての言及など、多くの語るべきモチーフが残されている。しかし、それは別の機会にとっておくことにしたい。
 それは単純に、私がもっとも敬愛する映画作家の最後の作品について、何か一つの結論を言い切ってしまうことをためらってしまっている、ということでもある。

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