自動車泥棒(前編)

 博多駅と糸島とを結ぶ地下鉄空港線・筑肥線を使うと、片道に三〇分ほど費やす。車で都市高速をなぞるように走れば、四〇分から五〇分ほどかかるため、大差がない。出退勤のためにこの二点を行き来する人間の多くは、電車の賃料・ガソリン代と駐車場料金を天秤にかけることになる。しかしながら、日中であっても割り込み、法定速度無視といった違反車両が往来するこの道のりは、忌避を禁じえない。そうして彼らは結局電車を選ぶ。かくいう青山はそのうちの一人であった。
 冬至を越して気温の下がった夜の博多駅、青山は高等学校来の友人を待ち構えていた。朝に感じたけだるさは昼下がりに消え去り、その男から空港に着いた旨のLINEを受け取った今では活力が彼の肉体に宿っていた。
 友人の名は手島という。福岡で働く青山に対し、手島は都内の企業に勤め、営業回りの日々を送っていた。東京都の電車のシステムは一つ一つの単純な論理の組み合った複雑なものであるが、その経験は日本中の路線にめっぽう強いだけの頭を作り上げた。東京の居住経験があっても、その理解に時間を徒に使うのがほとんどなのに、手島は大学進学に際した上京から一週間も経たぬうちにその論理を紐解いてしまった。

 青山と手島とは、別の高校に通う身でありながら、通う塾を同じくしたために知り合うことになった。
 高校に入学したばかりの青山はすぐに学習塾を利用することを選んだのだが、彼の高校には自分と同じ選択をする朋輩がいなかった。孤独に黒板の文字を書き写し、談笑をよそに白い机と向き合う日々を覚悟したし、実際半年はそうやって過ごしていた。いよいよ虚無が頂点に達しそうな頃に、青山の高校名を尋ねた男。それが手島だった。別の日に手島は菓子類を買いに行こう、と青山を誘い出した。
「ふうん、あの高校からお前は来たのか」
 と手島は言うと、自分と同じ中学出身の友人の名を挙げてみせ、彼らが青山の知り合いかを確認したので、青山はそうだと答えた。それを手島は涼し気な、興味なさげな顔を浮かべて聞いていた。青山が同じ質問を手島にすると、手島は、知らん、と冷たくではないにしろ突き放すような態度をとった。
「言いたくなけりゃ構わないけれど、青山はどこの大学を目指しているんだい」
「東京大学だよ、手島は?」
「俺もそうさ。だがあの高校から今まで東大に入学できたやつはいないはずだが」
「じゃあ、俺が最初になるだろうさ」
 青山は強がってみせ、それを嘲笑する権利など誰にもない、と考えた。
 春が終わって合服の期間だったので、二人とも白シャツに学生ズボンという似た格好をしていた。桜が消え、青い葉どもが歩道に並んで直射日光を断ち切ってまだらな影を落としていた。いつぞやこの葉が増えたそのとき、歩道は真っ暗な闇で覆い隠されてしまうのだ。
「俺はお前を馬鹿だとは思わない、しかし、難航があることは念頭に置いとくべきだ」
 受験と青春とを両立させる気がない、と手島は語り、続けた。
「三年で決着をつける、俺には根気というやつなんぞありはしないから、なんとしてもそうでなきゃならない」
 この決意を手島は固く保って、事実そうした。東京大学の入学試験に落ちた手島は、別で合格を勝ち取っていた私大へ通うことを選択した。対照に青山は浪人の道を選ぶこととなった。そのとき手島は「ほら見たことか」というつまらない確認ではなく、こう諭した。
「俺はお前を応援しているさ」
 それは些かの衒いもないやさしさだった。青山はそれを素直に受け入れた。
 一足早く大学に入った手島は、帰郷すれば時間を設けて青山と食事に行っては、互いの近況を共有していた。次第に精神が衰弱する青山を気にかけてのことだったし、青山にとってそれは救済以外の何ものでもなかった。
 ほとぼりが冷めただろうと想像した青山は、手島に尋ねたことがある。
「未練だとかは無いのか」
 手島の答えは率直だった。
「皆目無いね。悔しいに違いないが、それが人生だよ」
 しかしながら青山は、自分と手島とは径庭を明らかにするような人間であることの認識を強めていった。
 径庭とは、固執の違いだった。
 一つ心に決めた大学に入らねばならぬと決めた青山と、大学はどこであっても三年で決めねばならぬと決めた手島。青山からみた手島の並べ立てた文言とは、自分の失敗に対する感情を正当化するための理由に思えていた。将来のために自己の決心を捨てることは、小川が浸食によって手の付けられぬほどの河川へと変貌するように、自分の魂が薄れに薄れて虚ろを残して崩壊してしまう気がしていた。
 一方で、手島が社会からの評価を高くすることは確かだった。それは青山も分かっていた。青山は、手島の築いた立ち位置に対してある種盲目な憧れを抱いていた。手島のように生きることができれば、といつも彼の生き方を研究していたのだった。ところが先述の通り、彼の生き方は青山の中では、信念の保証がされぬという点において、不可能だった。
 板挟みだというのに、自分に何の苦悩も生まれぬのはふしぎだった。
 青山は結局、別の大学に入ることになった。

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