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SFという文学 その可能性について

science
-knowledge about or study of the natural world based on facts learned through experiments and observation

科学
-実験や観察によって得られた事実に基づく、自然界に関する知識や学問。

現代の私たちが生きている時代、それは科学の時代です。

17世紀、18世紀に俗に科学革命と呼ばれる価値観の一大転換が行われ、それまでの目に見えない「神」という存在を中心に置いた宗教というものに基づいた社会システムから、全員の目に見えて何度繰り返しても同じ結果になる事実というものを中心にした「科学」というものを意識した社会システムへと移行が始まりました。
私たちが生きている現代という時代は、その移行後のシステムの延長線上にあると言って差し支えは無いでしょう。

この時代を生きる私たちは、科学によって発展した技術を用いて栽培された食品を口にし、生成された素材の衣服を身につけ、快適性を保証された住居で暮らしを送っています。
科学的であるという言葉は、その事象の確実性を担保する保証書であり、その保証書なしに行動することを私たちは意識的にも無意識的にも避けて通るように教育されてきました。

では科学的であるとは、改めて考えるとどういうことなのでしょうか?
科学の中心は客観的で、観測可能で、再現性のある、エビデンスに基づいた事実です。ですから、科学的とあるということはすなわち事実がエビデンスに基づいている状態だということが出来ます。
裏を返せば、主観的で、観測できない、一度きりの出来事は科学的ではないということになるでしょう。

つまり、私たちが生きている時代が科学の時代ならば、この時代は客観的で、観測可能で、再現性のある事象を中心に据えて構成された時代だということです。

私はこの時代に息苦しさを覚えます。
おそらく私だけではなく、少なくない数の人達が同様の同じ思いを感じたことがあるのでは無いでしょうか?(そうでないならば、世界の自殺者の数はもっと少なくなっていると思うからです。)

この時代では、主観的であることを受け入れてもらうことは難しい。
あらゆる結果は、計測可能な数値として還元され、比較可能な変数となりその結果をもとに別の要素が決定されます。

いくら自分が難関大学に合格すると豪語しても、テストの点数という数値が、偏差値という数値が他者と比較されたときによろしくなければ、客観的には無理だと決めつけられ、現実味の無い夢物語、絵空事となってしまいます。

いくら主観的な考えを述べても客観的な観点には敵わないのです。
主観と客観に関して私の大好きな話があります。
彩色の精神と脱色の精神です。

『更級日記』にこんな話が書いてある。作者と姉とが迷いこんできた猫を大切に飼っている。あるとき姉の夢まくらにこの猫がきて、自分はじつは侍従の大納言どのの息女なのだが、さる因縁があってしばらくここにきている。このごろは気品のない人たちのなかにおかれて、わびしいといって泣く。それから姉妹はこの猫をいよいよ大切に扱ってかしずくのである。  
ひとりの時などこの猫をなでて、「侍従大納言どのの姫君なのね、大納言どのにお知らせしましょうね」などと言いかけると、この猫にだけは心がつうじているように思われたりする。  
猫はもちろんふつうの猫にきまっているのだが、『更級日記』の作者にとって、現実のなにごともないできごとの一つ一つが、さまざまな夢によって意味づけられ彩りをおびる。  
夢といえば、フロイトのいき方はこれと正反対である。フロイトの「分析」にとって、シャンデリアや噴水や美しい飛行の夢も、宝石箱や運河や螺旋階段の夢も、現実の人間世界の心的機制や身体の部分を示すものとして処理されてしまう。フロイトは夢を、この変哲もない現実の日常性の延長として分析し、解明してみせる。ところが『更級日記』では逆に、この日常の現実が夢の延長として語られる。フロイトは現実によって夢を解釈し、『更級日記』は夢によって現実を解釈する。  
この二つの対照的な精神態度を、ここではかりに、〈彩色の精神〉と〈脱色の精神〉というふうに名づけたい。

気流の鳴る音: 交響するコミューン 真木 悠介

彩色の精神は主観的な世界、絵空事を生きる精神、脱色の精神は客観的な世界、事実を生きる精神と言い換えることができるでしょう。その証拠に私たちは今、フロイト的な近代科学観を元にした世界を生きていると言えます。
この時代を生きるときの居心地の悪さの一因は、客観性が絶対必要だから、世界が脱色されてしまったからだと考えると、私としてはなかなかしっくり来るのです。

さて、この脱色された世界というものはとても強固な基盤に固められていて、ひっくり返そうとすれば、かなりの力が必要になります。それに科学というのものの力はとてつもなく強大である一方、多大な利益を我々に与えてくれてもいます。ですから、わざわざひっくり返してしまうほどのものでも無いのかもしれません。

では、この世界に居心地の悪さを感じている私たちはどうすればいいのでしょうか?確かにこの世界はひっくり返すほどのクソったれでは無いにしても、永遠と息苦しい思いをしながら、世界の片隅にとどまっているしか道はないのでしょうか?どうにかして、主観的な絵空事の世界に退避することはできないでしょうか?

その避難シェルターとしてSF、つまりScience Fictionには可能性があると思えるのです。

fiction 
something invented by the imagination or feigned

フィクション
想像力によって作り出されたもの、または偽物

一見すると、Science Fictionという言葉は相反している言葉遊びのようなものに思えます。サイエンスとは客観的なエビデンスに基づくものなのに、フィクションとは想像力つまり主観的なものだからです。言い換えれば、客観的な主観とでも言いましょうか。
しかし、冷静に見てみると、このサイエンスフィクションという言葉は、彩色の精神が脱色の精神に徹底的に打ち負かされている現代において、数少ない抵抗勢力になっているのではないかと思えます。サイエンスという強大な力をさえ飲み込んでしまうことができる文学の懐の広さを表しているように感じられるのです。

科学とは、AだとしたらBになる、BだとしたらCになるという客観的な因果関係の連鎖を精緻に積み上げていき体系化されたものです。
もし、それらの因果関係すらを主観により決定し、積み上げられた世界を構築できるとしたらどうなるのでしょう。私にはそれがサイエンスフィクションと呼ばれる世界に思えます。
つまり、徹底的に脱色した事実の累積をフィクションのなかで完結させる彩色の世界、それがサイエンスフィクションという文学なのではないでしょうか。

ここに私は一縷の望みを見出します。
どこまでも世界が脱色されてしまったとしても、その世界を彩りで覆うことが文学には、サイエンスフィクションには可能なのではないでしょうか。

それこそサイエンスフィクションという事実に基づいた虚構の可能性であり魅力なのではないでしょうか。


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