【感想】すずめの戸締まり-Google的想像力からガジェット的想像力へ

昨日、すずめの戸締まり見てきたので、とりあえずの感想を書く。

点数で言えば、70点。良くも悪くも、新海誠の細部への無頓着さが目立った作品だったと思う。個人的には前作の『天気の子』の方が評価は高い。

まず、メインテーマとして、震災の問題を直接扱うことに関しては賛否両論あるが、私としては良かったと思う。『君の名は』で、隕石の衝突を描き、『天気の子』で、東京を海に沈めた新海誠が次に描くとすれば、このテーマしかなかっただろうと思う。

とはいえ、さすがに「福島の寄り道」のシーンなどは、あれで良かったのか?と思うところもある。もちろん、震災をテーマにする以上必要だったと考えられなくもないが、物語的に挿入しなければいけない必然性を感じられず違和感しかなかった。

まあ、概ねそこに関しては、私は新海誠は自身の興味のない細部へ全くこだわりがない作家だと納得することにしているので、ご愛嬌として、ツッコミも込みで友人たちと楽しむことにしている。

ただ、今作の中で、メインのテーマは、当初震災により、大切な人(母)を失ったすずめが、どうやってその過去と向き合うかという話だと思っていた。にも関わらず、途中から草太とのラブストーリーに主軸が置かれ、最後には自分で自分を救うという結末に至る。つまり、突然失われた母親との喪の儀式は、結局果たされたのかというのはいささか疑問である。

すずめにとっての母親は、よくよく考えると作品の中ではすごく希薄な存在だったのかもしれない。草太を応急処置するときに、すずめは形見の椅子に座った草太に何も言わずに包帯を巻いていた。あそこのシーンに違和感を抱いた人はいたのではないか?三本脚の壊れた椅子に大人の男が乗れば壊れるに決まっている。本当に大切なものであるならば、怒って然るべきである。なのにすずめは平然と受け入れていた。

さらにいえば、閉じ師という存在は、今作ではミミズという災害をもたらす存在を封じ込める役割を持っている。だが、あの東日本大震災のことを閉じ師たちは何も語らない。あの時なぜ、閉じ師たちは後ろ戸を閉められなかったのかの説明がないのは不自然だ。草太はまだ幼かったにしろ、草太の祖父は閉じ師として何らか動いていたはずだ。

(そもそも両親がいないことへの説明がないのだが、サダイジンは、実は草太の父親だったのではないか?というのは、虚構推理にすぎるか…)

本来ならば、すずめは、閉じ師という存在を知ったとき、母親を奪った災害の責任を閉じ師である草太に追求しても良かったはずだ。災害は、突然でだれも悪くないから、その死に対して、心構えしたり、恨んだりすることができない。だがこの作品では、明確に閉じ師という存在を描くことで、あの地震は誰かが、間に合ってさえいれば、起こらなかったはずだという陰謀論的な想像力さえ喚起させる。

新海誠は、『君の名は』で、ある種の奇跡によって、隕石の衝突を無かったことにしてしまった。ただ、『すずめ』では、起こったことを、語らないことによって、無かったことにしてしまった。本来、すずめの祖父や環たち大人たちは、震災の記憶をあまり持たない子どもたちに語るべきだったのではないか。

また、現在の要石の場所を閉じ師たちが、見失ってしまっていること。それは、記憶の継承がもはや機能していないことを示している。

ある意味閉じ師たちの戸締まりの能力は、ガンダムのようなニュータイプの超感覚を用いて、その土地の記憶にアクセスすることである。ただ、それは、Googleのデータベースにアクセスして、勝手に都合の良い物語を読み込む陰謀論とどう違うのか。私にはまだその違いが説明できない。

端的に言ってしまえば、データベース的な想像力が持ち味の新海誠は、歴史を物語ることを多分得意としていないと私は思う。

ただ、それでもなお新海誠が、震災を、物語を語ろうとしていることについて私たちは考えなければいけない。

思うに、すずめの戸締まりは、バラバラになってしまった過去の夢=ガジェットの再解釈の物語だったと言える。

すずめは、当初その夢(バラバラの物)をきちんと理解することができなかった。ただこの草太との出会いや他の人々に触れ合うことによって、もともと存在していたが忘れてたモノ=母の形見の椅子の大切さに気づき、夢を物語に再現して、真実に辿り着いた。だからこそこう言うのだ。

「大事なものはもう全部──ずっと前に、もらってたんだ」
すずめの戸締まり

いつもの新海誠は、セルフパロディ(自分自身のデータベース)が多かったが、過剰なほどに他作品へのオマージュが散りばめられている。乱雑とも言えるほどに。

それは、新海誠にとって大事なモノ(ガジェット)なのだ。すずめが、宮崎に引っ越す前に、だいじなものを埋めて残したように、この作品では新海誠にとって大事なモノを作品に込めたのだと私は思う。

だから、取り止めのない矛盾だらけの物語に見えたとしても、それでもなおこの作品のことを愛さずにはいられないのである。

付記
そもそも、ガジェットとは、もともと「名前の忘れられたもの」という意味から転じて、元々の用途から別に活用されるモノ、つまりよく使われている身の回りを改善してくれるものという意味へと繋がってくる。戸谷洋『スマートな悪』では、そこから、転用可能性、複数的なシステムへの開放性を実現させるものとして、ガジェットの持つ可能性を論じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?