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【読書感想】みんなが少しづつ「魔女」を殺した-フェルナンダ・メルチョール『ハリケーンの季節』

読書会で『ハリケーンの季節』を読んだ.結構個人的には好きな作品だった.以下感想.

とある村で<魔女>が死んだ.

なぜその魔女が死んだのか.5人の視点から語られる断片的な事実から徐々にその輪郭が浮かびあがってくるという手法は,ミステリのようでもあり,自分自身が警察官やジャーナリストで聞き取りをしているかのようだ.

はじめに目を引くのは文体だ.この小説にはほとんど段落というものがない.

読書会の中でもこの文体については,議論があった.座談会の書き起こしを経験したことがある人はわかるかもしれないが,音声データの書き起こしは思っているよりも大変だ.なぜならば,もともと私達が話している会話は,一度構成しなければ,読める文章にはならないからだ.

逆に言えば,わたしたちは,普段会話しているときは,「なんとなく」でも相手の話していることをきちんと理解し処理できているのだから不思議だ.この小説の形式は,そうした書き起こしたデータをそのままの形で読んでいるかのような経験だった.

普通であれば,この小説の試みはただ読みにくいだけでマイナスに受け取られるかもしれない.だが,この本は,ジャーナリストである作者がおそらくは意図的にこうした手法を取っていると私は思う.この書き起こした「生」のデータを,編集して,整理するのは誰だろうか?それは私達読者だ.私達読者は,これらの生データを聞き取り,再編集し,魔女がなぜ死んだのかを伝えられる唯一の存在なのだという使命を作者から与えられている-そんな気がする.

この本のテーマはやはり「誰が魔女を殺したか」ということに尽きると思う.

ただ,それは物理的に魔女を殺したのは誰かという単純な問いではない.

この本に出てくるラ・マトサの住人たち【みんなが少しづつ魔女を殺した】のだと私は思う.【少しつづ人を殺す】というのは少し変な言い回しに聞こえるかもしれないが,抑圧された人が更に抑圧に加担する.その連鎖の一つの帰結として,村の象徴である魔女は殺されたと考えれば,誰もが被害者であり,加害者である.そういう意味でみんなが少しづつ魔女を殺したのだと私は思う.魔女はおそらくは,世の中にとっての必要悪であったり,土地の象徴そのものであったり,多様な存在として読むことが可能だろう.

私達読者もまた,少しづつ私達にとっての<魔女>を殺してはいないのか?そういったことを考えさせられる作品だった.

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