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【おすすめ本】『人間臨終図鑑』山田風太郎

 あらゆる人間は、生きている以上、いつか必ず死にます。
 生まれて間もなく死んでしまう人もいれば、100歳を超えて「大往生」を遂げる人もいる。しかし、みんな死ぬという点では変わりません。
 死んだらどうなるのか。
 そんなことを考え出すと、どうも不安で、心細くなるので、ふだんは「死」のことは考えずに生きています。
 目の前の生活に集中して、自分が死ぬことを忘れているのが、ふつうの人の状態です。
 「死を思え(メメント・モリ)」なんて格言がありますが、できれば、死についてなど思い悩まずいる方が健全な生き方でしょう。
 ところが、ときどき、死について考えざるをえない瞬間が訪れます。身近な人が亡くなったり、歳をとって病気になったりして、自分の死を意識するときです。
 そんなとき、「死とは何か」を知ろうとして調べてみると、ずいぶんたくさんの本が出ています。みんな、実はそんなことが気になるので、この手の本はよく売れるのです。
 山田風太郎『人間臨終図巻』も、そんな読者を見込んで出版された本の一つだと思います。Amazonで検索すると、徳間文庫版、角川文庫版の2種類で、新品が売り出されています。最近は、マンガ化もされたようです。大ヒット作と言っていいでしょう。
 初版は1986年。それ以来、売れ続けているのだからすごいロングセラーです。

 この本には、15歳で処刑された「八百屋お七」から、121歳で亡くなり『ギネスブック』に長寿世界一として登録された「泉重千代」まで、900人近い著名人の臨終場面が、享年順に並べられています。
 略伝や、簡単な人物評も書かれていますが、あくまで、興味の中心は「いかにして死んだか」という点にあります。
 いろいろな書物からの引用もありますが、記述は簡潔で、ほとんどの場合、1人あたり、文庫本で1ページか2ページで書き尽くされています。
 どこを開いても、すぐに読める、という親しみやすさが、この本の魅力のひとつです。
 巻末に人名索引もついているので、気になった人物の名前をひいて、その人がどういう人なのか確認するという、辞典的な使い方もできます。

 しかし、そもそもの問題として、他人の死に様を知ることの何がそんなに面白いのか?と思う人もいるでしょう。
 たしかに、「臨終」の場面がずらずら並べられているなんて、陰気で悪趣味な本だと思うのがふつうです。
 私自身、病気をしたときに、この本を買ったのですが、看病してくれる家族に見られると、なんとなく気まずいので、隠すようにして読んだ経験があります。
 ところが意外にも、この本を読むと、むしろ気分が軽くなり、時によっては、生きる元気が湧いてくるのです。
 今でも、つらいことがあって生きるのが嫌になったり、逆に、死ぬのが怖くてたまらなくなったりすると、この『人間臨終図巻』を手に取って、パラパラめくってみます。いつもそうとは限りませんが、この本を読むことで、少し苦しみが紛れたり、気分が上向きになったりしたことは、実際、数えきれないほどあるのです。
 だから、とにかく騙されたと思って「この本を買ってください」というのが、私の言いたいことの全部です。人間、いつ「死」に接近するかわかりません。そのときのために手元に用意すべき本が『人間臨終図巻』です。買って損すると言うことはまずありませんと断言します。
 しかし、せっかくなので、もう少し、その理由を検討してみましょう。

 たとえば、ここに一人、死期の迫った病人がいるとします。
 彼は、自分の存在が、この世から消えてなくなるということを考えて、不安にとらわれています。自分の意識が雲散霧消してしまえば、この一生は、あってもなくても同じ、無意味なものとして時の流れの中に埋もれて行くだろう。苦労して生きてきたつもりなのに、それは何の意味もなかったのだ。その事実に直面して、泣きたくなるような、やるせない気持ちに襲われます。
 彼に子供がいたり、なにか大きな仕事を成し遂げた自覚があったとしても、それが「無意味ではない」という確信を必ず与えてくれるとは限りません。
 そんなとき、『人間臨終図巻』を手に取って、過去の人々の死の有り様を眺めてみます。すると、歴史に名を残し、一応「意味」のある一生を送ったはずの人たちが、ずいぶんと惨めに、あるいは拍子抜けするほど、あっさり死んでいることがわかります。
 数百人の人間の生と死を、数千年にわたる長い歴史を飛び越えたような視点から俯瞰してみると、各々の人生が笑ってしまうほど「どうでも良い」ものに見えてきます。自分の死もまた、他の人の死と大差ない、ちりのような出来事であり、時と場所の条件が違えば、自分もまた違うように生き、違うように死んだ可能性があったことが生々しく感じられてくるのです。
 もちろん、今まさに消えようとしている、この私のこの意識は、誰とも共有できないこの私の経験の積み重ねに他ならず、死を前にしてのこの苦しみや痛みは、誰とも交換できないし、そこから逃れることもできない絶対的な現実です。その意味では、これ以上なく「どうでも良くない」ことです。
 しかし、その「どうでも良くなさ」と、違う生でもあり得たという「どうでも良さ」は、一人の人間の中で、不思議と同居しています。
 『人間臨終図巻』を読んだときの、この自分の「どうでも良くなさ」からふっと解放され、「どうでも良い」存在としての人間の生と死をそのまま肯定できるようになる感覚。こういう感覚を与えてくれる作品を、「人間喜劇」と呼ぶことにします。

 「人間喜劇」とは、そもそも19世紀フランスの文豪バルザックの小説群に対してつけられた名称です。
 バルザックは、色と欲にまみれた人間のありのままの姿を、その迫力が感じられるような細密な描写で描き出した、リアリズムの大作家です。
 本人も、コーヒーをがぶ飲みして、ぶっ倒れるまで寝ずに原稿を書き続けるような、破天荒な人物像で知られています。
 「人間喜劇」は、彼が書いた膨大な小説が、ひとつの大きな世界を成していると見なし、自ら命名したものです。
 私個人の経験を言うと、高校時代、突然の病気で長期入院したとき、彼の『従妹ベット』という小説を読み、あまりの感動で眠れないほどの衝撃を受けました。
 この小説は、醜い容貌に生まれつき、周囲の美女たちへの嫉妬にゆがんだベットという女を中心に、妻を情熱的に愛しながらどうしても浮気をやめられないユロ男爵など、性欲や名声欲に取り憑かれた人々が織りなす波瀾万丈の物語。
 これを読んで、人間の一生というのは、なんとも悲惨で、しかも滑稽なものであると、痛烈に感じたのでした。それまでも小説はよく読んでいましたが、大げさに言えば私の「文学開眼」であったと言いたくなるようなショックを受けました。
 実際、人間のありのままの姿を描き出そうとする、バルザック的なリアリズム=「人間喜劇」の理念は、その後の文学の主流を成していると思います。
 日本の純文学の代表的なジャンルとされている「私小説」にしても、作者自身の生活を素材にして、人間の滑稽さ、悲惨さをありのままに映し出そうとしている点では、まさに「人間喜劇」に通じるものがあります。
 小説に限らず、ドラマや映画、マンガでも、人間の「リアルな姿」を表現した作品を良しとする価値観は、いまだに根強く残っています。仮にストーリーが荒唐無稽でも、そこに人間の「リアル」を求めようとする欲求は、近代芸術の基本を成していると私は思います。

 「人間喜劇」というと、「滑稽さ」を主眼としたもののように思われるかもしれませんが、「喜劇」はもともと「悲劇」ではないものを指すので、必ずしも笑いがテーマとは限りません。バルザックにしても、山田風太郎『人間臨終図巻』にしても、人間の崇高で偉大な姿を描く一面はあります。
 『人間臨終図巻』には、生に執着してジタバタする人間や、自分でも気づかないうちに命を落とす人間だけでなく、従容として死を受け入れ、静かに死んでいった人間や、戦争で敵と勇猛果敢に戦いドラマティックに殺された人間も登場します。
 だいたい人間は、卑小な欲と煩悩に支配された、くだらない存在かもしれないが、それを超克するような崇高さもまた、人間に備わったものではあるのです。
 バルザックの「人間悲劇」は、15世紀イタリアの詩人ダンテの『神曲』に由来しています。「神曲」は、別の訳し方をすれば、「神聖喜劇」。詩人が神に導かれて、地獄、煉獄、天国を見て回るという内容です。
 神の世界をすべて描き尽くしたダンテに対して、人間の世界を描き尽くそうとしたのがバルザックだということです。
 特に、『神曲』の「地獄篇」は、罪を犯して、地獄の悪魔たちに罰を受けている人々の姿が生々しく描かれているという点で、「人間喜劇」そのものであるといえます。「煉獄篇」「天国篇」は、その罪を清め、神の偉大さを讃える内容になるのですが、「地獄篇」は罪を犯した人間の描写に重点が置かれています。
 「罪」といっても、窃盗や殺人に限らないので、一部の宗教的な聖人を除けば、ほとんどの人間は罪人ということになります。バルザックや『人間臨終図巻』に出てくる人間は、9割がた地獄に落ちるはずです。そもそもキリスト教の洗礼を受けていない人は地獄行きなので、私も、おそらくこの記事を読んでくれている方の多くも、ダンテに言わせれば、地獄に落ちるでしょう。
 そんな罪人たちが、現世でどんな罪を犯したか、また、現世に心残りがあって、それを詩人ダンテに言付けしてもらおうと未練がましく語り出すのが『地獄篇』です。
 この作品も、人間の罪深い実相をありのままに描こうとした、「人間喜劇」の原点であるといえます。
 他に「人間喜劇」的な作品として、映画『仁義なき戦い』シリーズ(深作欣二監督)や、マンガの『ナニワ金融道』(青木雄二)などが思い浮かびます。

 『人間臨終図巻』の書評から、ずいぶんと話が広がってしまいましたが、最後に「リアリズム」という文学上のコンセプトについて、ひとこと書いておきたいことがあります。
 「リアリズム」というと、現実をありのままに写生するというイメージがあるかもしれません。「リアリズム」にはかなり広い意味があるので、それで間違いとはいえません。ただ、この文章で書いたような意味での、バルザック的な手法を「リアリズム」と呼ぶならば、それは単なる写実ではありません(言うまでもなく、これはただの素人の感想であって、文学史的な文脈を厳密に踏まえた用法ではありません)。
 たとえば、「人間は金に支配される存在である。」と書くのと、「結局、人間は金に支配される存在に過ぎない。」と書くのでは、ニュアンスが違います。
 私が言いたいのは、この「……にすぎない」という言い回しにこそ「リアリズム」の精神が宿るということです。
 基本的に、人間は幻想にとらわれた生き物です。鏡を見ても、自分の顔を客観的には見られません。だから、「ありのまま」の姿を描こうとすることは、この「幻想」を破壊することを意味します。
 「……にすぎない」「……でしかない」という文体は、そのことを象徴するものです。
 ただし、幻想を破壊すれば、そこに唯一無二の真実があるわけではありません。
 リアリズムによって提示されるのも、また無数に可能な「現実」の姿の一つにすぎない。リアリズムは「写生」ではなく、「レトリック」なのです。
 それは、「現実は……にすぎない」と書くことによって、常に新しい現実をそこに作り出し、その現実を生きていくことです。
 絶対的なものとして目の前に立ちはだかってしまう自分の無意味な「死」を、「それもまたどうでも良いものにすぎない」と、より広い視野から定位し続けること。リアリズム=「人間喜劇」というレトリカルな運動は、このようなものであり、『人間臨終図巻』はその不断の運動による活力によって、死を前にして生きる元気を与えてくれる一冊でもあります。

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