政治とか経済と信仰とか。ちょっとだけCrypto。

はじめに(終わりに)

※元々「終わりに」として書いたが、あまりにも結末が見えない文章を書いたので、「終わりに」を「はじめに」として載せた。本来の意図とは異なるので、最後にも一応載せている。

自分でも想像を絶するほどにまとまりのないものを書いた。まとまりきってないけど、うようよ湧いている考えのやり場を与えようとして書いているのだからある意味当たり前ではある。
もちろん、普通に考えたらこんなもの公開する必要もない。けど、同時に綺麗に整った、論理だった主張をする文章を書く気があるかと言われると、それもNoではある。めんどくさいのもさることながら、こういうのはどれだけ論理立てても結局信じるか信じないかみたいな変な世界に突入するだけのような気もしている。それこそ、世界の覇権の大転換みたいな、歴史上何回も繰り返されてきたものですら、それがまた起きるかもしれないという、単なる確率としての事実を素直には受け入れられない人が多いのだから、ある意味この手の話が信じるか信じないかになってしまうのは仕方ない。
自分はこの文章を書くことで、問題意識が似通っている人が何となくふーんって思ってくれたらそれでいいと思っているので、きちんと骨のある文章を書く理由も正直なところない。
でも、神のいない社会で、結局人の「自由意志」がトランプによる「救済」を求めていたり、たくさんの人がここぞとおしゃれしてテイラー・スウィフトのツアーに巡礼にいくのをみていると、信仰を回避し続けても限度があるような感じは拭えない。人によってはCrypto(あるいはDAO)を多様なステークホルダーのコーディネーションを促進する技術と称しているし、僕も割とそういう人間ではある。では、Crytpoは多様な信仰を宿し、共存、あるいは併存させることができるのかというところが、暇な頭の向かう先である。遥か先の話なので、長い目で見、あるは取り組んでいきたいと思う。

はじめに

本当はもう少し他にやりたいことが色々あるが、びっくりするくらい変な感じの体調になっているので、頭の中にあるものを吐き出すくらいのことしか正直できない。

ふと、5歳くらいの時の悩みを思い出した。世界にある親とか友達とかそういうのは、もはや自分の頭の中にあるものなんじゃないかって考えて、勝手に孤独感を感じていた。そんなことを考えるようになったきっかけは忘れたが、とにかく彼らは自分のことを気にかけているようで、実際は僕がコントロールしているんじゃないかって必死で悩んでいた。今になって振り返ると、主観とか認識論とか、あるいは自分の有意識とは別のメタ的な何かの存在を感じ取っていたのかもしれない。そう思うと我ながら感心する。少なくとも今の自分には到底できそうにもない芸当に思われる。

何となく思い出したことを書いてみたが、せっかくなので、ここ1、2週間何となく頭の何%かを占めてた諸問題に対する悩みをここで書き起こす。
ほとんど校正、整理はしてない。頭の中に湧いてきたものをそのまま文章にしているので、おそらく相当読みにくい。

結局、問題はもっと奥深いところにある。

きっかけは色々あった。3月末の「なめ敵」の会でのとある方のコメントは個人的にセンセーショナルだったし、すごく腹落ちがした。

ここ2、30年、数値化して捉えやすく、それゆえに課題としても明確であり、解決も比較的容易な問題ばかりが解かれすぎた。それらの問題が解かれたこと自体は喜ぶべきことだが、より根源的な問題が蔑ろにされた結果としての今がある。
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もはやどれだけこれらのわかりやすい問題を解いても、異なる目的関数を持った人たちが相互にハックし合うことで、社会は絶望的なことになっている。

イベントの性質や諸々踏まえて、ここでは発言者の名前は伏せておく。本人からの何らかの要請があれば公開するつもりだが、おそらくそんなことは気にも留めてないだろうと勝手に思う。

ここで言っている、わかりやすい側の問題は、経済とか政治とかのシステムとして捉えることができるようになったことであり、わかりにくい問題としては、信仰とかアイデンティティのことである。
ある意味、この前者と後者は手段と目的の関係性にも近しい。人間個人や集団として保有する手段と目的、その手段はどれだけ最適化されても、目的そのものは放置されている。

(本人も話の流れで言及していたが、)アメリカの大統領選挙なんかはすごくわかりやすいと思う。もはやここまで二極化し、大統領府に対する暴動まで起きているようでは、民主主義が機能しているとは言い難い。もちろん、そこには機能的な不備の問題も色々言われてはいる。ただ、それぞれの政党の支援者がデマをばら撒きあっていて、お互いに不正投票を疑い合っている状況で、投票制度が悪い!とか議会制度が悪い!とか言っても、それがすごい芯をとらえているような感じもしてこない。それが間違っているとも思わないが。確かに、今の民主主義制度は、ある意味インターネット以前の世界観に基づいているだろう。あの大統領制をデザインした人間の誰も、SNSがここまで普及し、人間の考えを操ることがここまで簡単になることを想定して設計はしていなかったと思う。だから、「改善の余地があるじゃないか!」と言われても、そうだよなとは思う。
でも、結局人々が感じている痛みが違いすぎると、それらを統治をするのは複雑を極める。
社会契約論では、

各個人は独立した存在として自己の欲求を充足させるために行動し、生存の障害が発生すればその解決のために各個人同士で協力関係を求める。

うぃきぺでぃあ

らしい。読んだのが遥か昔のことすぎてもはや覚えてないので、こんなふざけた引用をしているわけだが、ここで言われる自己の欲求とか自由意志があまりにも違う方向を向けば、それはまあめんどくさい。
元来は、各地域には共同体があって、共通の信仰があって、異なる共同体、異なる信仰同志の間のコンフリクトを外交努力なり戦争なりで解決?してきた。政治家の物言いがめんどくさくなるのも納得の構図である。
多様性の実現、特に信仰やアイデンティティにおけるそれは、そのめんどくさいことを遥か遠くのお偉いさんが処理するものではなく、自分たちが処理しないといけないことにした。そりゃめんどくさくなるし、社会契約を守るのはものすごく大変なことになる。特に「神は死んだ。」なんて言い出したら大変なことだ。宗教が偉大なのは、個々人がそれを信じることによって、自然と共同体を傷つけにくいようなプロトコルに沿って動くようになるからだと思っている節が僕にはある。(この例外も当然ある。)。そのプロトコルがない中で、自由意志なんて言ってたら、それは大変なことをしでかす人が湧いてくるのも無理がない。

かなり雑な整理をした。実際には、例えば経済環境の違いや政治信条の多様性みたいなものは、大都会にある大きな大学よりも、地方にある小さな大学の方が実感しやすいという論文をかつて読んだ。人の流動性が高まれば似たもの同士が結果として集まるというだけではある。

でもまあ、言いたいのは、かつての人集団の統治原理の根幹にあった宗教観が薄まったり、多様性が広がる中で、統治の手段の問題では対応できないことがあまりにも増えたんじゃないかということ。
※本当はちゃんと色々引用とか根拠立てをして主張すべき内容なのは百も承知だし、これを正当化するに足るような資料もないわけではないが、そういうのは一旦端折らせてほしい。

念の為に断っておくと、多様性には何ら反対する気はない、プーチンの是非を言い争ったことがあるロシア人と友達でいることを続けられたくらいには、異質な存在を目の前に置くことへの抵抗感がない。もちろんダメなものはダメだが、割と耐性がある方だと思う。そもそも人付き合いが苦手という点を差し引けば。
そういえば、PolynyaもCryptoにはモラルがないなんてことを嘆いていた。すごくわかると同時に、正直別にCryptoに限った話でもないだろうと思っている節もある。

Cryptoはどこに向かっているのか

ちょうど紹介されてこんな記事を読んだ。長いのですごく雑にまとめると、cryptoは統治の問題とかいろんな問題を解決するとか言ったのに結局何も解決してないじゃないか!Code is Lawと言ったところで、それをメタ的に補填するような規範とか、コモンロー的なものがないから、結局evilと思しき行動を、credible neutralityの名の下に何もコントロールできていないという話だった。
まあ、cryptoほど露骨に、「市場が選んだものが正しい」世界というのはあまりないので、市場原理と倫理観みたいなものをアラインさせなければ、そういう結果になるのも当然だと思う。

僕は別に悲観論者じゃない。今、業界や社会において課題と言われているものは間違いなく課題だし、それらを解決する(あるいは少なくとも取り組む)ことに意味を見出している。上で述べたような解決可能な問題は、あくまで解決可能なのであって、解決済みではないのだから、みんなで力を合わせて解決する。とても素晴らしいことだ。
おそらく、現代社会において、「理論的には解決可能なのに解決できてない問題」の多くに対して、Cryptoは実現可能な解決策を与えるだろうと思う。
わかりやすいところだと、データの利活用や、プライバシーの問題もそうだし、もっと飛ばしたところだと、国家間のパワーバランスにおいても無視できない機能をすでに持ち始めていると思う。これについてはまだまだ始まったばかりだけど。5年もしたら、視野は劇的に開けて来るんじゃないかと思う。やっぱりまだまだ聡明期だと思う。何となくだけど。

Cryptoには投機性とか、独自の景気サイクルとか、ある意味上で述べたような本筋に垂直には突き刺さってないような性質もあるが、それもこのムーブメントの性質であり、上手く関わっていく他ないように思う。

ここまで書いてようやく自分が言いたいことが見えてきた。

ずいぶんダラダラと書いてきてしまったが、結局僕が気にかけているのは、Cryptoはどうやったら、捉えようのない、わかりにくい、根源的な問題に向かっていくのだろうということ。もちろん、普段からそんなことを考えているわけではない。もっとちゃんと目の前の取り組むべき明確化されている課題に取り組んでいるし、あるいは少なくともそうしたいと思っている。
でも、同時にこの根源的な問題についての態度というのは、無視できないものがある。

本当はこのイベントにも行きたかった。都合で行けなかったけど。

思えば、自分のこういう純粋化された科学への漠然とした抵抗感みたいなものはずっとあるんだと思う。
元々は、神経科学とか、脳科学ってことをやろうと思って大学に入ったし、大学1年はそんな調子だったけど、何ともしっくりこなくて気がついたら政治経済のゼミにいた。しかも、その中で他の人がMMTのなんかのモデリングとかをやってたりする傍で、気がついたら貨幣論とか経済思想とかめんどくさいところに落ちてしまった。
何となく一貫していると感じるのは、上手く捉えようのない、漠然とした問題意識に惹かれている部分はある。その問題意識の向く先が、貨幣であり、信用であり、信仰なんだと思う。おそらくだから僕はCryptoに関わっているし、今後もそうしていくんだと思う。

Cryptoにおける、信仰とかの根源的問題への関わりとして、昨今のmeme coinは何となく面白い。何ならdogeの時点から少し面白いと思った。
多分だけどAWも面白くなる。というかAWが面白くならないと、Cryptoは頭打ちだと思う。
僕は別にアナーキストでも反国家主義でもないけど、今のCryptoには金融システムやその他諸々のアプリケーションがあれど、信仰と暴力がない。これは上で紹介したCrypto's Three Body's Problemの指摘にも通ずるところがあるが、これらなしには、今やっていることの先の広がりというのはやはり限度がある。暴力みたいなものは、おそらく少しずつできてくると思う。昨今のナラティブはそこに近いところにある。
そして、信仰というものをCryptoが扱えるようになれば、おそらく市場の競争原理みたいなものも少しずつ意味が変わってくると思う。
でも、信仰を扱うってどういうことかと言われた時に、あまりクリアな答えは持ち合わせていない。考えていることは色々あるが、この長々しい駄文の中でも特に披露するに値しないのでここでは省く。
まあでもとにかく、全くよくわからないけど、信仰というものに何らかの行き場をCrypto内で与えることができるとしたら、それは漠然とAWなんじゃないかという感覚である。別にこれは、AWはじめ拡張性があって、いろんな側面から個々人にアプローチできるような装置が、信仰を形成する上で重要だなんて言っているわけじゃない。でも、信仰の形成に関わるような媒体の試行錯誤を行う場としては圧倒的に他よりも優れていると思う。流石に細かいエピソードのない、名言すら共有されない、絵しか見ることのない宗教を信仰するというのは少し難しいように思うし。

終わりに

自分でも想像を絶するほどにまとまりのないものを書いた。まとまりきってないけど、うようよ湧いている考えのやり場を与えようとして書いているのだからある意味当たり前ではある。
もちろん、普通に考えたらこんなもの公開する必要もない。けど、同時に綺麗に整った、論理だった主張をする文章を書く気があるかと言われると、それもNoではある。めんどくさいのもさることながら、こういうのはどれだけ論理立てても結局信じるか信じないかみたいな変な世界に突入するだけのような気もしている。それこそ、世界の覇権の大転換みたいな、歴史上何回も繰り返されてきたものですら、それがまた起きるかもしれないという、単なる確率としての事実を素直には受け入れられない人が多いのだから、ある意味この手の話が信じるか信じないかになってしまうのは仕方ない。
自分はこの文章を書くことで、問題意識が似通っている人が何となくふーんって思ってくれたらそれでいいと思っているので、きちんと骨のある文章を書く理由も正直なところない。

でも、神のいない社会で、結局人の「自由意志」がトランプによる「救済」を求めていたり、たくさんの人がここぞとおしゃれしてテイラー・スウィフトのツアーに巡礼にいくのをみていると、信仰を回避し続けても限度があるような感じは拭えない。人によってはCrypto(あるいはDAO)を多様なステークホルダーのコーディネーションを促進する技術と称しているし、僕も割とそういう人間ではある。では、Crytpoは多様な信仰を宿し、共存、あるいは併存させることができるのかというところが、暇な頭の向かう先である。遥か先の話なので、長い目で見、あるは取り組んでいきたいと思う。

追記

山内先生は、前回のイベントで取り上げた佐藤可士和さんのロゴデザインについて触れた。佐藤さんのロゴは、意図的に意味を込めないという潔さがあるという。意味を込めず、みんなが意味を見出せるような余白を残すことが、イノベーティブなデザインにつながるのではないかと述べた。

田辺さんは、グラフィックデザイナーの原研哉さんの「エンプティネス」という概念を紹介した。ロゴのようなものは、それ自体がメッセージを伝達するのではなく、人々の思いを受け止める器のような役割を果たすという考え方だ。

日本美術の余白の表現についても言及された。長谷川等伯の「松林図屏風」は一見何も描かれていないように見えるが、鑑賞者の想像力を喚起する。松本零士の漫画に余白に句を添える人がいるように、一つの作品に新たな意味が付与される例もあると田辺さんは指摘した。

山内先生は、日本の美の思想には余白を大切にする考え方があると述べた。俳句の世界でも、他者の句に自分の解釈を押し付ける「点取り」と呼ばれる行為があったことに触れた。

田辺さんは、能の「触れ」を例に挙げ、今そこにある環境に投じられた作品を自分なりに解釈し、何かを付け加えることで意味が更新されていく美しさについて語った。一方で、西洋的なアプローチはクリエーターの思いを尊重する傾向があると指摘した。

イタリア語の「コンセプト」という言葉は、「妊娠する」という意味があり、アイデアを温めるイメージに通じると田辺さんは述べた。ギリシャ語の「クリエイト」には、個人の才能を発揮する男性的なニュアンスと、おのずと生まれる女性的なニュアンスの両方があるという。田辺さんは後者の意味合いに魅力を感じていると語った。

Claudeによる文字起こし

無意味さとか余白というのは、open innovationの文脈においてもすごく重要だと思う。だから個人的にEthereumが色々とEnshrineしていくのにはそこまで前向きじゃない。もちろん、一個一個の議論は至極合理的だし、自分には到底できそうにないことをやってのける魔術師たちがたくさんいるのだが、それはそれとしても余白がなくなると、息苦しくなるという危機感は持っている。

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