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20240221 絵を語るか額縁を語るか 1

選び間違えてきた人生

自分の人生を生きている

38歳で結婚し、39歳で親になり、今43歳の私であるが、
「あぁ、今俺は俺の人生を自らの選択で歩んでいるのだなぁ…」と思うことが最近増えている。

なぜそう思うか。
それは自分の価値基準を元に選ぶという行動していると感じることが増えたからである。

夫になる。
父になる。
東京を出る。
副業をする。
住宅ローンを組む。
ブラジリアン柔術を始める。

そういう選択は誰にも影響されていない自分自身の価値基準で選んでいる。

つまり、完全に自己責任で選んでいるのである。

ふと振り返れば、20代や30代の私が自分の価値基準で人生の選択をしてきていたか?と問われると、

「うぅっ、、、」

と呻き声にも似た音が口から出てしまうほどに、何かぼんやりとした後ろめたさを感じてしまうのである。

その後ろめたさはどこからきているのだろうか。
書きながら整理してみたい。

精神的自由が欲しかった高3

私がした選択のうち、自分の人生に影響を与えた最初の選択はおそらく18歳の春である。

大学受験を終え、決して良い結果とは言えない滑り止め校合格という成果において、進路を浪人生としなかった事が始めの選択と言える。

熱意をもって取り組むもの、つまり没頭できるものを中高の思春期に見出せず、なんとなく親が経済的に許してくれて、周囲の同級生も選択していた大学進学という既定路線に私はぼんやりと追随した。バカのボンボンであった。

これが本当に当時の私の姿であった。

その中で、なんとなく格好の良さそうな進路を見つけ、身の入らない勉強を一年間つづけ、模試では都度不合格判定に気を落としつつも、僅かながらの希望であった数学だけを信じて勉強を続けて結局最後の最後で滑り止めに合格した。(なんと合格した大学の数学の試験は自己採点で満点であったw)

受験終了後、担任の教師に「浪人できるならしてみればどうか、一年あればもう一科目くらい闘えるようなレベルになるから、そうしたらもっと上のレベルにいけるのではないか?」と言われた。

しかし、小学校受験、中学受験、大学受験と人生で3回の受験を経験し、その結果が満点でも0点でもないという微妙な結果を繰り返してきた私にとって、目的のない勉強を継続する事はもはや耐え難い状況になっていた。

その結果、滑り止め校に進学するという選択をする。

私は決して学歴信奉者ではないが、この選択が今誤っていたかと問われると「解なし」と言わざるを得ない。損したこともあるし、高偏差値大学出身でなかったことで取れたポジションもあるからである。

しかし、当時の私からすれば、全ての受験生が志望校合格という理想状態を目指す中で、ある種のカルマともいえる受験勉強はもう耐えがたく、私はそこから解放されたかったのである。

受験終了という解放圧に私は負けたのである。
受験勉強という精神圧迫からの解放を選んだのである。
気持ちよさに逃げた。
マスターベーション的な選択をしたのである。

ただ、同級生が浪人したりする中で高偏差値大学に進学したりするのを聞いたときには何が心の奥で苦い汁を飲むような感覚だけはあった。

没頭できるものを求めた大学時代

大学に入るときにぼんやりと感じたのは
「これが最後のモラトリアムなのだ」ということ。

そこで、何か最後に一つのことをやり切らなくてはならない、というノルマを私は自らに課した。

入学前からそのsomething、つまり4年間没頭できるものを見つけたいと思っていた。
そのときに地元の先輩で京都大学に進学して、アメリカンフットボールのスター選手となっていた人を見つける。
そして私はその人を勝手にロールモデルとした。

アメリカンフットボールの古いファンならご存じかもしれない。
京都大学が最後に日本一に輝いた時のOLB、根来拓也選手である。

もうこのような選択の時点で自分の価値観からくる選択とは言えない訳であるが、当時の私にはアメリカンフットボールをする事が人生においてどのような価値になるかなんて全く考えられてないかった。
しかし、当時の私はアメリカンフットボールならば滑り止め校からでもライジングできる、跳ね返された受験という壁に対して一矢報いられる可能性が幾許かあるのではないかと本気で考えていた。
もうそれだけだったのである。

結果として、入学式2日目で体育会アメリカンフットボール部に入部を決める。

この選択が私の二十代をほぼ決めたとも言える選択であったが、とにかく私はアメリカンフットボールに何よりも没頭することを選択したのである。

アメリカンフットボール部での活動は下っ端の一年生であってもとても楽しかった。
トレーニングやプレーそのものもエキサイティングであったが、何よりも大学の先輩の存在の眩しさというか大人感にあこがれ、その先輩方と部活動内外での親交を深め、同じ目標を持って己の持ちうる限りの時間と体力を部活動に費やしていること、そしてそれが部という大きな大義(優勝とか勝利)を持った組織の一部として機能しているという自己有用感に酔いじれたのである。

強烈な帰属意識の形成であり、受験という精神的な圧力からの解放された私にとって、遂に没頭できるものを見つけたという手応えがあったのがアメリカンフットボールであったのである。

しかしながら、部活動という課外活動に没頭すればするほど学業は疎かになり、学生の本分を遂行しない私に親は援助を止め、結果学業ではなくアメリカンフットボールを行うための生活費の確保のために、あしなが育英会の奨学金を借りるような生活までしてアメリカンフットボールに没頭し続けたのである。

しかし今思えばこの没頭は当然かもしれない。
自己努力した結果に辿り着いた大学ではないのて、そこに愛校精神があるわけでもなかった。
学校も先生も授業も下手をするとクラスメイトもリスペクトできていなかった。そんな中でも学業に身が入るわけがない。
学業をして自己実現をする見通しが全く立たなかったのだから。

ただ、唯一アメリカンフットボール部というコミュニティだけが私の存在意義を感じられるものであった。

学業と部活の違いはただ一つで、自分の価値観による選択の有無の違い、それだけであった。

再度ロールモデルを失う20代

結論から言えば大学は四年できちんと卒業した。
アメリカンフットボール部も4年間やり切った。
成績は結果としてライジングどころか現状維持で、先輩の残した戦績を幾許か上回る程度の成果しか上がらなかったが、それでもやり切った事に達成感を感じていた。
一応、就職活動も奇特な会社しかも一部上場企業が採用してくれた。

一部上場のメーカーに採用になった事。
留年せずに四年で卒業した事。

部活ばかりで学業を疎かにする息子を見ていた親としては、いつも通りの蚊もなく不可となくの結果にある種ホッと胸を撫で下ろしたことであろう。

しかし、私はあることに気づき始めるのである。

それは「次は何をしたらいいのか?」ということである。

コレに私は20代全期において囚われることとなる。

何をしたら良いか分からなくなるということは、当時の私からすればロールモデルを見失うことと同義である。

社会人のコミュニティといえば職場であるわけだが、ここには私のロールモデルは見つからなかった。

一部上場、同期70名、創業70年、年功序列、2交代勤務、操業前のラジオ体操、8時始業、カイゼン活動、労働組合、KYK活動、時間になると鳴り響くチャイム、絶妙に不味い社食、、、

想像できる方と出来ない方がいると思われるが、私からみればこの職場はまるで学校であった、いや地獄であった。

(続く)


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