見出し画像

脱却 ~混沌と狂乱~ 『1時間で読める小説(全話まとめ)約3万字』

いつもであれば、八月のうだる夏の暑さを懐かしく回想する肌寒いこの時期も今年は違った。

眼下にコバルトブルーの海が広がるニューポートビーチ沿いにある五ツ星ホテルのスウィートルームで、71年のロマネ・コンティーを着飾ったバカラ片手に、「全てこうなる事は決まっていた」と勇二は呟いた。

誰かが言った「女は秘密を着飾り美しくなる」と、誰かが言った「男は振られた分だけ強くなる」と、誰かが言った「人は大金を手にすると変わる」と、勇二は言った「全てこうなる事は決まっていた」と・・・

幾年も前から事あるごとに、自分に言い聞かせる為に強く言った。

今では口癖になっていた。そして、全て“こう”なった。

ロマネ・コンティーを三口分ほど残し、バカラをテーブルに置くとベッドに視線を投げた。
そこには交際して半年になる不倫相手の由美子が、透けるような素肌をシーツで包み、目を閉じていた。

彼女の頬に軽くキスをした勇二は、自らもキングサイズのベッドに身を沈め、目を閉じた。

日本では分刻みのスケジュールをこなす勇二であったが、針穴程僅かに空いた束の間の休日を、L.Aで由美子と過ごし英気を養った。

日本では休みなどなかった。特に新型ソフト・mw25が発売された今年の頭までの一年間は、一週間に常人の十日分働いた。何処にいても引っ切り無しに携帯が鳴り、何時であろうと叩き起こされ、寝不足の日々が続いた。

ソフトが発売されてからも忙しい日々は続いたが、周辺環境はガラリと音を立てて変わり、一躍時の人となった勇二は大金とともに不自由という名の有名人税を手に入れた。

高級レストランで食事をしている時も、空港のラウンジでジャパンタイムスに目を通している時でさえも好奇の目で見られ、遠い親戚の数が極端に増えた。

そんな、緊張の糸が張り詰められた毎日を抜け出すために、プライベートジェットでここへ来た。しかし、同じだった。今や世界で最も有名な日本人になった勇二には、地球上の何処へ行っても安息の地は無い。

身体は休眠を求めているが、勇二の意思とは裏腹に脳が勝手に働き、眠ることが出来ない。

キングサイズのベッドの中で何度も寝返りを打ち、どれだけの時間が過ぎたのだろうか?
眠ることを諦め、半身を起こした状態のままリモコンでテレビを付けると、ニュースキャスターが勇二の写真をバックに、勇二が開発したソフトを買い並ぶ人々の様子を報じていた。

自嘲気味に笑みを浮かべテレビを消すと、バスルームにむかい熱めのシャワーで疲れた身体を起こした。備え付けのミラーに映る小麦色に焼けた顔は、睡眠不足と疲労を微塵も感じさせないほど端整に引き締まり、いつもの勇二がそこにいた。

バスルームを出てベッドルームに向かうと、消したはずのテレビの音が聞こえてきた。

「おはよ」ホテルのロゴが刺繍されたワンサイズ大き目のTシャツを着た由美子が、窓際のソファーでモーニングコーヒーを飲んでいた。

モーニングといっても既に午後を一時間近く経過しているので、正確にはアフターヌーンティーになる。

「ごめん起きちゃった?」

由美子の向かいのソファーに腰を沈めながら言った。

「ううん。せっかく海外にいるのに寝て過ごしたらもったいないもん」

「そうだな」

「あっ、コーヒー淹れるね」

ソファーを立とうとした由美子を制した。

「いや、これでいいよ」

バカラのグラスを逆の手で目線下まで持ち上げて言うと、ロマネ・コンティーとコーヒーでグラスを合わせ、二人の一日の始まりを告げる無意味な乾杯をした。

「今日は約束の日だからね」

意地悪な作り笑いで由美子が言った。
ニューポートでの余暇があと二十時間を切った今日は、ビーチには行かず二人で買い物をすると約束していたのを思い出し、軽く頭を振り高い天井を仰いだ。

明日からは仕事である。仕事といってもアメリカに来たついでにアーバインにあるオフィスで昼食を摂りながらの打ち合わせなので、さほど苦にはならないが、自発的に仕事の事を考えなくて済むのは今日で終わりかと思うと、子どもの頃の8月31日と同じ気持ちになった。

全て合わせると軽く100万円は越えるラフな格好で身を包み、由美子とロビーに行くと、顔なじみのコンシェルジュが一人近づいてきた。

「おはようございます。実はホテルの正面玄関外に、マスコミが着ておりまして」

申し訳なさそうにコンシェルジュが言う。
不安そうな瞳で二人を見比べる由美子に通訳した。

「あたしが出て行って追い払ってくるよ!」

「よせって、そんな事をしたら奴らの思うつぼだ」

由美子が英語を理解できないと察したコンシェルジュは片言の日本語で続けた。

「裏に車あります」

「念の為サングラスと帽子を取りに行ってくるので、5分後に待っていてください」

勇二は英語で言うと再びエレベーターに乗り込んだ。

5分後、変装と呼ぶには程遠い格好で現れた勇二は、コンシェルジュに導かれ裏口に回った。
そこには、世界中の高級外車がズラリと並んでいた。
どれでも好きな車を使っていいとの事だったが、オープンカーに乗りたいとダダをこねる由美子を説得し、日本で乗りなれているフェラーリ(エンツォ)を選んだ。

コンシェルジュがガルウィングを上へ持ち開けると、由美子は機嫌を直し「サンキュー」と言って乗り込んだ。

慣れた手つきでエンジンをスタートさせ、フェラーリを発進させた。深々とお辞儀をするコンシェルジュがルームミラーの中であっという間に小さくなったが、お互いに視認できなくなる距離まで、その格好を崩すことはなかった。

「もう大丈夫だろ!」

赤信号で停車すると同時に言って、サングラスと帽子を取った勇二は由美子の目を見て「ごめん」と言い添えた。

数時間後、勇二ご自慢のブラックカードで買い物を済ませた二人がホテルに戻ると、数人のコンシェルジュがお出迎えしてくれ、その内の3人が部屋に荷物を運んでくれた。

部屋に入り、二人だけになると「ありがと」と言いながら両手を首に回し、由美子が抱きついてきた。勇二も由美子の腰に手を回しキスをすると、そのままキングサイズのベッドに倒れ、服を脱ぎ捨てた。

ベッドの上で初日から二本目になるロマネ・コンティーを飲み空けた勇二は、左手を由美子の肩に回しながら「全てこうなる事は決まっていた」と自分に言い聞かせ、グラスに映る自分の姿と酒に酔いしれた。

次の日、プライベートジェットでアーバインに向かった二人は、僅かな振動とジェトエンジン音が無ければ、どこかの高級リゾートホテルの一室と見間違うかのような機内で、軽い食事を摂り、無駄話で時間の経過を楽しんだ。

シティーセンターに位置する超高級ホテルにチェックインすると、荷物と由美子を置き去りにオフィスへ急いだ。
いつかの映画で見たような近未来のハイテクオフィスには、最新のガジェットがそこここに溢れかえり、世界の中心を演出していた。

打ち合わせの場となるミーティングルームに行くと、勇二以外のメンバーは既に揃っており、談笑していた。
メンバーは日本人・アメリカ人は勿論、中国人やインド人など様々であるが、勇二の開発したソフトを使用すれば通訳を介さずに会話が出来る。

今日の議論は一応決算報告となっているが、一番の目的は顔合わせである。
勇二が所属する会社「Japan Soft Trends社」、通称「JST」では、自らが開発したソフトによって創造された便利すぎる世の中を、敢えて逆行し静観する為に、たまにこうして顔を合わせることにしている。

会議と言う名のランチタイムを、奥深い森林に流れる川のせせらぎのように身を任せ、それとなくやり過ごした勇二は、元大統領の運転手も勤めた事がある老年のベテランドライバーが待つベントレーに乗り込み、ホテルで待つ由美子に電話を入れた。

「やっと、終わったよ。今そっちに向かっているから10分後に降りて来てくれない?」

車窓を流れる優雅な人々で溢れる町並みに目を向けながら言った。

「オッケー!10分後にエントランスね」

言い終わり電話を切ると、バスルームに入り最終段階の化粧を淀みなく施し部屋を出た。
ほぼ同時に二人がエントランスに到着すると、ベントレーに乗り込んだ由美子はカバンからペットボトルの水を取り出し一口飲んで「お疲れ様」と言って勇二に水を差し向けた。

二人が向かったのは映画の舞台にもなった水辺のカフェレストランがあるハーバー。
十七時にそこから出航する豪華客船でのディナークルーズに乗るためである。しかし、由美子が出航までの時間を映画の舞台になった水辺のカフェレストランに行きたいと言ったため、早めに出たのである。

カフェレストランに到着すると、映画の主人公と同じ席に着き、同じくエスプレッソを二人で飲んだ。日本では殆ど飲むことのないエスプレッソも、由美子と二人、ここでなら素直に美味しいと思える。

出航まで十五分程余して船内に入ると、八割がた席は埋まっており、誰も皆食前酒を飲んでいた。
出航時間になる頃には満席になり、豪華客船が汽笛と共に港を離岸した。
船内にいる乗客の財産を全て合わせれば、軽くアメリカの軍事予算を超えるであろうと、簡単に察しが着くほど高貴な雰囲気が漂っていた。

アメリカでの最後の夜、日本では幾ら大金を積んでも味わうことの出来ない夜景を眺めて、勇二は欲望と野望をいだき、由美子の肩を抱いた。


帰国した翌日、専属ドライバーが運転する漆黒のリンカーンで青山にあるJST本社へ向かった。
社に着くと、休んでいた間に届いていた膨大な量のメールに目を通し返信をした。気が付くとそれだけで午前中はあっという間に過ぎ、OLたちが一斉に席を立ってランチへと向かっていた。

今年初めに新型ソフト・mw25を発売して以来、JSTの株はバブル期のNTT株を凌ぐ勢いで上昇し続け、ストックオプション制度で大金を手にした社員の多くは生活が一変した。

19時過ぎ、そつなくその日の仕事を収めた勇二は、同僚たちと夜の六本木へと繰り出した。
嘗て六本木のランドマークとして、数々の伝説を築き上げてきたスクウェアビルの跡地に建ち、両脇をメイドインジャパンのビルで固められ、不釣合いな西洋風のビルの15階に勇二たちはいた。

いつものように女優顔負けの美貌と素養を程よく兼ね備えた嫌味のない女性たちと共に、店内の雰囲気を支配していた勇二たちの言動は、傍から見れば明らかに異質であり、確実に浮かれていた。
店内の片隅で静かに酒を飲む男たちが、軽蔑と侮蔑の眼差しで勇二たちのドンチャン騒ぎを見つめていた。

「あいつらJSTの社員だろ?毎晩あーやってバカ騒ぎしては金ばら撒いてるんだってよ」

一人の男が言うと、コントロールの効かなくなったラジコンヘリのごとく男たちは一斉に口を開き始めた。

「こないだなんか、うちのOLたちと合コンしてベラベラと開発秘話を自慢していたらしいぜ」

「ライバル会社のOLと合コンするなんて随分余裕だな」

紫煙を吐き出しながら一人が吐き捨てた。

「JSTの社員様はうちの会社をライバルと思ってないんだよ」

「しかし、天下のJST様たちも、もっとお上品に飲めないものかねー」

言い終わると同時に、20台半ばと思しき栗色ヘアーのボーイがシャンパンとグラスを運んできた。

「そんな高級な酒を頼んだ覚えはない、向こうの席と間違っているんじゃないのか?」

冷笑と自嘲の入り混じった顔でボーイに言った。

「いえ、こちらのシャンパンはあちらのお客様からのサービスです」

ボーイが向けた手の先に視線をやると、誇らしげに女の肩に手を回している勇二と目が合った。

シャンパンを一口も飲まずに店を後にする彼らの背中に、勇二はおどけて手を振ってみせる。
その後、勇二たちは何軒も店を変えては派手に遊び回り、その日もやはり朝まで飲み明かした。

そんな、家庭をかえりみず毎晩のように豪遊する勇二には、妻と子どもがいる。

妻・裕子は勇二と同じく今年28歳になる元プログラマー。勇二とは留学先のシリコンバレーで知り合い、結婚した。
二人の間には先月三歳になった長女の優香がいる。

先月の優香の誕生日、家族三人で誕生会をする約束だった・・・しかし、優香が起きている時間までに勇二が帰宅することはなく、いつものように頬を赤らめ明け方帰宅した。

いつもであれば一切咎めることのない裕子であったが、その日ばかりは言葉と涙が堰を切って溢れ出た。

裕子が泣いた理由はもうひとつあった。朝帰りを繰り返し、娘の誕生日も忘れる夫に対し、女の勘が警笛を鳴らしていたのだ。

これまで女遊びとは無縁の人生を送って来た勇二は、大金を手にしたことで群がる女性たちに翻弄されているのではと疑念を抱いていた。

次の日、勇二は仕事が終わると、同僚たちの誘いを振り切り帰宅した。一日遅くなったが娘の誕生会をやるためだ。


優香は前日に続き、今日もケーキが食べられるという理由で大喜びした。そんな娘の姿を見て胸の奥が僅かに締め付けられた。

既に優香が眠ってしまった深夜十二時、勇二と裕子は久々に二人で酒を酌み交わし、語り合った。


「これからも暫くは忙しくて家を空ける事があるかもしれないけど、世界中の人が俺の開発したソフトで豊かになれるんだ。これはもう俺一人の問題じゃない!これは俺の使命なんだ」

酔いが回った勇二は饒舌だった。

「そのことなんだけど・・・あのソフトには幾つか未完成な部分があって」

裕子が言い終わる前に勇二が憤然した。

「あれは、俺が開発したソフトだ!確かに数年前のお前のアイデアがヒントになってはいるが、あれは紛れもなく俺のオリジナルだ!俺の血の滲むような開発期間をお前も見てきただろ!元天才プログラマーかもしれないが、もう引退したお前に言われたくない!俺は元じゃない天才プログラマーだ!」

言い終わった勇二は席を立ち、怒りに肩を震わせながら寝室へと向かった。

「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの」

消え入りそうな声で背中に言ったが、勇二は振り返らなかった。

翌日の目覚めは最悪だった。洗面台に行き顔を洗って鏡を見ると、落ち窪んだ瞳が濁って見えた。
昨夜の裕子の言葉が、奥歯に異物が挟まった様な違和感となり、胃のムカつきと共に勇二の脳裏を反芻していた。
リビングに行くと、裕子と優香が朝食を摂っていた。

「おはよ、二日酔い?」

「あー胃がムカムカするよ」

昨夜のやり取りが尾を引き、ぎこちなく答えた。

「じゃー野菜ジュースか何か飲む?」

「いや、水にする。胃薬を飲むよ」

シリアルにヨーグルトかけた朝食を頬張る優香の頭を軽く撫ぜてイスに座った。

運転手付きのリンカーンでいつものように出社すると、自分の部屋には行かず、もっとも信頼する後輩の長嶺の部屋へ行った。

長嶺は2つほど年下で、音楽とタバコをこよなく愛する何処にでもいそうな青年だ。

彼とは留学先の大学の寮で1年ほど同室だった。長嶺はいつも最新の音楽を聴き、趣味じゃない俺にその良さを熱弁した。

しかし、彼は勇二が裕子の他に唯一認める天才だった。

社内で一部屋だけ喫煙が認められている長嶺の部屋に入ると、愛煙者達が揃っていた。

「おはようございます」

上手そうにタバコを燻らせていた長嶺が振り返り言った。
勇二も胸のポケットからタバコを取り出し、デュポンで火をつけると長嶺の脇に立ち「mw25の事なんだけど、バグの報告はないか?」と聞いた。

「今のところ何の報告もありませんが、どうかしたんですか?」

「いや、何でもない。順調に行き過ぎている時こそ、慎重にならないといけないからな」

「そうですよね。何か合ったら直ぐに報告しますよ」

「うん、頼む」

灰皿にタバコを押し付けて火を揉み消した勇二は、部屋を出る直前、ドアノブに手を掛けたまま振り返り、「今夜、飲みにいくか?」と長嶺を誘った。

「はい!早めに仕事終わらせますね」

破顔した口から紫煙を吐き出しつつ言った。

自室に入った勇二はデスクには着かずソファーに腰をかけ、シリコンバレーでの長嶺とのやり取りを思い出していた。

ある日、遅くまで部屋の角に置かれた勉強机に勇二が向かっていると、飲んで帰ってきた長嶺が酒を片手に絡んできた。

翌日の講義で発表する資料をまとめていた勇二は、おざなりにあしらったが、その日の長嶺はしつこかった。

「勇二さん、何やってんですか?一緒に飲みましょうよ」

勇二の肩に腕を回し、アルコール臭い息を吐きながら続けた。

「後で、俺も手伝いますから」

「いや、遠慮しておくよ。明日の朝までにまとめないといけないんだけど、一箇所どうしても解けないところがあるんだ」

勇二は長嶺に顔を向けず、パソコン画面を指差して言った。

「ここっすか?」

「あー」

「簡単じゃないですか」

長嶺は、俺がどうしても分からない箇所をいとも簡単に解いてみせた。
それはまるで、小学校低学年の宿題を解く親のように。群れから取り残された小鹿をライオンが狩るように。

衝撃だった。自分の無力さが、長嶺の才能が。以来、二人の関係はそれまで以上に深まったが、それは即ち勇二の降伏宣言でもあった。

夜の東京が静寂に包まれた午前3時、長嶺と飲み明かした勇二は帰宅した。
いつもであれば寝静まっているはずの我が家に明かりが灯っていた。

「ただいま。まだ起きていたのか?」

「うん、昨日の話なんだけど、聞いてくれる?」

「あー、あれなら大丈夫だよ!今朝長嶺に確認したら正常だったから」

冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら言うと、ソファーに腰をかけた。

「実は、今日私もプログラムを確認したんだけど・・・バグが見つかったわ」

車椅子の裕子が、ソファーに座っている勇二と同じ目線のまま近づいてくると、A4サイズにまとめられた資料を渡してきた。

裕子が車椅子生活になったのは、優香が生まれて間もないの夏の終わり、家族三人で近所のスーパーに買い物に出掛けた帰り道だった。

ベビーカーを押す勇二、荷物を両手に抱えた裕子。
その時、勇二の携帯が鳴った。勇二は、無意識に電話を取ると、ベビーカーから手を離してしまった。

穏やかな坂道の途中、ベビーカーはひとりでに走り出すと、徐々に加速し始め、あっという間に手の届かない距離に行っていた。
裕子が駆け出す姿でようやく我に返った勇二は、一歩も動くことができなかった。
スローモーションのような光景を漠然と眺めていた。

十字路に差し掛かった時、裕子はベビーカーに追いついた。が、一瞬遅かった。

秋田から上京して来たばかりで、都内の運転にまだ慣れていない若い女性がスピードを緩めることなく突っ込んできた。
全ての出来事が他人事の様に勇二の目には映った。

優香は無事だった。しかし、優香の命と引き換えに、裕子の歩行の自由が奪われた。

足元には、無造作に投げ捨てられた買い物袋が、野菜や果物を撒き散らしていた。

一瞬のうちに事故当日の瞬間がフラッシュバックした。
裕子の差し出した資料に目を通した勇二は、深いため息を付いた。
そこには、天才プログラマーの長嶺でさえも見抜けなかった事実が刻々と書き示してあった。

もちろん、自称天才プログラマーの勇二でも理解は出来る。しかし、勇二一人ではどうすることも出来ない状況だ。

「ありがとう・・・」

蚊の羽音ほどの消え入りそうな声で言った。

「まだ今なら間に合うわ。手遅れになる前に」

「分かってる。明日、会社に言ったら報告するよ」

裕子の言葉を遮り、言い終わると肩を落とした。

次の日、いつもより早く出社した。目的はもちろん上司であるプロジェクトリーダーの山下へ、昨夜のことを報告するためだ。

社に着いた勇二は、真っ先に山下の部屋へ行ったが不在だった。
山下のスケジュールを秘書に確認したが、今日は戻らないとのこと。自室に戻り山下に電話を入れた。

4回目のコールで電話に出た山下は上機嫌だった。

「おーどうした?勇二から電話してくるとは珍しいな」

移動中だろうか?電話の向こうで、今後の勇二に警笛を鳴らすかのごとく、微かに救急車のサイレンが鳴り響いていた。

「山下さん、今日お時間いただきたいのですが」

矢継ぎ早に言った。

「今日は一日クライアントと打ち合わせがあるから、社には戻れんぞ」

「仕事が終わった夜でも構いません」

「今夜は接待なんだよ。あーそうだ、丁度良い、そこの担当者がお前に会いたいと言っていたからお前も来いよ!」

「いや、でも・・・」

言い淀む勇二に山下が誇らしげに続けた。

「30前のキレイな女だぞ、お前のファンらしい。来たら良いことあるんじゃないのか?」

「分かりました。何時に何処へ行けばいいですか?」

迷ったが承諾した。

「19時に六本木のいつもの店だ。遅れるなよ」

「分かりました」

電話を乱雑に切ると、無造作にポケットに仕舞い込んだ。

その日の勇二は、何一つ集中できず、軽い苛立ちと不安に苛まれていた。
気が付くと山下との約束の時間が近づいていた。
結局、社に居ながら殆ど何もせずに六本木に向かった。

10分前に到着した勇二が、指定された店に入店すると、既に山下たちは揃っており、芸能人が登場したかのように出迎えてくれた。

勇二も慌てて酒を煽り、ようやく酔いが追いつくと、昨夜から続いていた不安はキレイに消え去っていた。

気が付くと、見慣れない部屋の天井が目に入ってきた。
そのままの状態で辺りを見回すと、先ほど六本木で出会ったばかりの女性が寝息を立てていた。

どうやら、あのまま何処かのホテルにチェックインしたらしい。

「いつものことだ」

心の中で呟いた。

裸のままベッドを降り、冷蔵庫からビールを取り出すと、東京の夜景と、名前も分からない女性の寝顔を肴にビールを煽った。

「全てこうなる事は決まっていた」

いつものように自分に暗示をかけ、自己陶酔した勇二は、不安が薄れ、自信に満ち溢れていた。

次の日、六本木のホテルから午後出社した勇二は、社内の異変に気が付いた。いつも以上に活気があり、皆一様に浮かれている・・・

奥に足を進めると、勇二に気が付いた山下が駆け寄ってきた。

「おい!勇二やったぞ!」

「どうしたんですか?」

興奮気味の山下に対し、勤めて冷静に答えた。

「聞いて驚くなよ!なんとアメリカ国防総省との契約がとれたんだ!これがどういう事かわかるよな?アメリカの陸海空軍、全てに納入されるんだ!」

軽い衝撃が全身を駆け巡った。山下が冷静でいられないのも無理は無い。

しかし、勇二はこの時、昨夜の自信を不安と恐怖によって掻き消され、軽い眩暈を覚えた。


窓がなく、外からの光と音を遮断された無機質で薄暗い部屋。男たちが密談していた。

「どうだ、あれから何か解ったか?」

白髪が目立ち始めた頭にハンチングを被った陰のある40半ばの男が言うと、銀縁メガネの男が無言でゼロハリバートンのアタッシュケースから資料を取り出し渡した。

資料に目を通した男が訝しげに「これじゃ、弱い。もっと破壊力があり一瞬で全てを吹き飛ばすようなネタが欲しい。このまま続けてくれ」と言った。


銀縁メガネの男は、終止うつむき、上手そうにタバコを吸い続けていた。
タバコを灰皿に押し付けると、その手を40男に差し出した。

「シッカリしてるな。おい渡してやれ」

四十男が右隣に座っていた男に言うと、支持された男は懐から分厚い封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。

「情報次第ではもっと弾むぞ。それに、もしうちに来るんだったら役員として迎えてやる」

一瞬の静寂のあと、「考えておきます」と、かろうじて聞こえる程度の小さな声で銀縁メガネが答え、空になったタバコの箱を握りつぶし、席を立った。


「長嶺、お前今何処にいるんだよ。皆でいつもの店にいるから来いよ。女の子が待ってるぞ、直ぐ来いよ」

既に出来上がっている勇二は、上機嫌に電話をしてきた。

「了解です。すぐ行きます」

携帯を切ると、タクシーに乗り込んだ長嶺は、運転手に店の場所を告げた。
徒歩でも十分行ける距離を支持された運転手は、無言のままタクシーを発信させた。

「あっ、ここでいいです」

運転手の態度に気が付いていた長嶺は、壱万円札を財布から取り出すと、釣りを受け取らずにタクシーを後にした。

エレベーターを降りると、長嶺は到着を待っていたボーイに促され、勇二たちの席に行った。

「おっ、やっと来たな。何処行ってたんだよ?」

「まぁ、ちょっと」

言って、鞄から真新しいタバコの箱を取り出すと、封を切って一本抜き取り自ら火を着けた。

「長嶺さん、何飲みますか?」

派手でも地味でもないが、平均的に男好きする顔の女が明るく言った。

「この店で一番高い酒を」

女たちの歓声があがった。

「うちの天才プログラマーは気前がいいな~」

勇二が女の子たちに言った。

「勇二さんも同じモノ飲んでるじゃないですか」

再び歓声と笑いが起こった。

この日もJST御一行は夜の街を行脚し、国産車ならお釣りが来るほど飲み明かした。

午前中から続いている会議の途中、電話が掛かってきた振りをして喫煙所にタバコを吸いに来た佐久間は、誰も居ない部屋で毒づいた。

「全くJST、JSTうるせーなー」

二、三口吸ったタバコを水の入ったアルミ製のバケツに投げ入れると、ジュッという音と共に火が消えた。

会議室に戻ると、気まずい雰囲気が漂っていたが、気が付かない振りをして席に着いた。

相変わらず上司の加賀見は、JST攻略作戦を講釈している。

「いいな、今月中に必ずmw25のバグを探しだせ!世間は我々WNC(World National Computer)のことを、JSTの元ライバルと言っているんだぞ!これは仕事じゃない、任務だ!」

言うと同時に机を両の手で叩いて立ち上がり、加賀見は足早に会議室から出て行った。
途端、会議室にため息と舌打ちがこだまし、誰一人として口を開くことはなく、会議室から散って行った。

WNCは、1998年にたった4人の学生で創業すると、僅か3年で上場し、当時マスコミの話題を独り占めした。
日本のIT業界創世記を支え続け、基礎を築き上げたWNCにとって、JSTの急成長は許しがたかった。mw25の性能・機能は素直に評価しても、IT業界の雄としての誇りだけは何としてでも守らなくてはならない。

加賀見は自室に戻ると、電話をとり内線を入れた。
1コールで相手が出た。

「大事な話がある。仕事のあと時間あるか?」

有無を言わせぬ迫力が電話からでも伝わってきた。

「今夜は勇二と食事をする予定なんですが・・・」

受話器から耳を僅かに離し答えた。

「何時からだ?」

ぶっきら棒に返した。

「一応、19時ですが、その後はホテルで・・・今、そちらに行ってではダメなんですか?」

ダメを承知で尋ねた。

「ダメだ。お前と勇二の関係は社内でも極限られた一部の人間しか知らない。この件に関しては慎重に事を運びたいんだ。分かった、他の日にしよう。じゃー今夜もしっかり頼んだぞ」

一方的に電話を切った。

新宿、都庁を見下ろすホテルの一室に勇二と由美子がいた。先月、フランス王室の料理人を11年務めたシェフが銀座にオープンしたレストランでフルコースを満喫し、二十三時前にチェックインしたのだ。

「仕事は相変わらず順調そうね」

アーバインで購入したブルガリのパレンテシ カクテルが、胸元でキラリと光り、その存在をアピールしていた。

「あ~、ちょっと不安要素はあったんだけど、今はもう全く問題ない」

「あなたは天才だもんね」

今度は由美子の目が一瞬光った。
上機嫌になった勇二はさらに喋り続けた。

「あー俺は天才だ。実はこないだバグが見つかったんだが、それも心配ない。俺のプログラムはそんな次元じゃないんだよ」

「え?本当に大丈夫?どんなバグだったの?」

再度、パレンテシ カクテルと由美子の目が光った。

「どってことないよ、それより・・・」

言って勇二は由美子をベッドに押し倒した。


朝礼では社長の竹田が、みかん箱の上に立ち、若かりし日の本田宗一郎と同じように高らかに宣言していた。今ではすっかり恒例となっていた。
「JSTは、日本の未来を変えるぞ!」社長の宣言と共に社員が一斉に拳を天高く上げ唱和した。

「JSTは、世界一の企業になるぞ!」

同じく社員が一斉に唱和する。
いまJSTが進めているプロジェクトが成功し、世に出回れば日本を変えることも、世界一の企業になることも夢ではない、十二分に可能だ。

勇二は、創業間もない1ベンチャー企業を、世界一の企業に躍進させることを心に誓った!

この頃の勇二は、誰よりも早く出社し、誰よりも遅く退社した。生まれたばかりの子どもの寝顔しか見ることのできない毎日でも苦ではなかった。

本来ならば赤子の夜鳴きは、辛く敬遠したい道だが、優香と唯一コミュニケーションが取れる僅かな時間であり、元々寝不足の勇二には、むしろ嬉しく、父親としての実感が誇りとなる瞬間だった。

家に帰れず、イスを並べて仮眠を取る日もあったが、勇二は極力帰宅するようにした。

疲れた身体に鞭を打ってでも、我が子の顔を見たかった。そして、車椅子生活を余儀なくされた裕子の負担を少しでも軽くしたかった。なにより裕子の姿を見ると、折れそうになった心に闘志が沸いた。

「絶対にプロジェクトを成功させ、勝ち組になってやる!」と誓い。

「全てこうなる事は決まっていた」と唱え、暗闇に反射し、窓に映し出された自分を奮い立たせた。
しかし、少しずつ、そして確実に何かが狂い始めていた。


優香を膝に乗せ、古いアルバムを開いていた。

「パパどーれだ?」

裕子は一枚の集合写真の上に指で円を書き優香に聞いた。

「パパこれ」

「あたり~、パパ若いでしょ~」

優香の頭を撫でながら言った。

「じゃーママはどーれだ?」

「ママこれ~」

「あたり~、ママ可愛いでしょ~」

今度は両手で優香の小さな身体を抱きしめて言った。

「うん。ねーママこの人誰?」

裕子と勇二の間に挟まれて映る一人の男性を指差し優香が聞いた。

「この人は、ママとパパの大事なお友達のマークよ」

三人が最初に出会ったのは、スタンフォード大学入学式の夜に開かれたパーティーだった。

その頃はまだ、覚えたての酒がさほど強くなく、酔いを醒まそうと会場の外に夜風を求めて出た。

入口近くにあるベンチで休もうと思い、千鳥足で行くと、既に先客が居た。若かりし頃の勇二だった。勇二もまた、覚えたての酒と異国の空気に飲まれ、一人夜風を浴びていた。

「隣良いかしら」

始めに声を掛けたのは裕子だった。

「あっ、すいません・・・」

ベンチの中央に居座っていた勇二が左にずれた。
勇二は腰を掛けた裕子に、沈黙を嫌うかのように尋ねた。

「お名前は?」

風か吹けば、その音に掻き消されるほど小さく震える声だった。

「裕子、あなたは?」

「勇二です・・・」

これだけの会話で、勇二が決して女性慣れしていないことを裕子は察した。

15分ほどして、勇二の気まずさがひしひしと伝わって来た頃、会場入口付近が騒がしくなり、二人は振り返った。羽目を外し、酔っ払った白人と黒人の学生が口論となっていた。身体は大きくても、所詮は学生だ。

始めこそ威勢が良かった白人も、黒人に胸倉を掴まれると大人しくなり、最後は突き飛ばされて地面を這いつくばっていた。

黒人学生が会場に戻った後も、白人学生は地面に寝転び天を仰いでいた。

「大丈夫かしら、行ってみましょう」

裕子が言うと、ケンカに無縁の人生を歩んできた勇二の顔は不安で引き攣っていた。しかし、無言で立ち上がると白人学生の方へ歩んでいった。

「大丈夫?ケガしてない?」

男性の肩口に屈み込んで裕子は英語で尋ねた。

「なんてことはない、ちょっと飲みすぎただけだよ」

言って、立ち上がった男性は一歩足を踏み出すとよろけて倒れた。

「少し、休ませた方がよさそうね」

裕子は勇二に言い、男性を抱え起こそうとした。勇二と、裕子は男性を抱えられながらベンチに連れて行き、腰を掛けさせた。

「ありがとう、みっとも無いところをみられちゃったな・・・俺はマーク、よろしく」

この時、今後三人が切っても切れない縁になることを、誰も予期していなかった。三人は誰が見ても仲がよく、いつも一緒に行動した。

よく遊び、よく笑い、たくさんケンカをして、たくさん語り合った。
三人は親友であり、同士であり、ライバルだった。

女一人に男二人という構図、勇二とマークは必然的にライバルになった。お互い絶対に負けることができない宿敵だった。

サマーバケーション中のある日、三人はデトロイトの片田舎にあるマークの実家に行った。

裕子と勇二はマークの家族に歓迎され、厚いもてなしを受けた。二日目の晩、三人はマークのお母さんが作った手料理を食べ終わると、広大な庭の隅にあるウッドデッキで語り合った。

「二人の夢はなに?」

月明かりに照らされた裕子が小気味良く二人に聞いた。

「俺は、将来裕子と結婚して、いい家庭を築くよ」

アルコールの力を借りて、冗談とも本気とも取れる口調でマークが言って微笑んだ。しかし、瞳の奥は決して笑ってはいなかった。
裕子が何か反応を示す前に勇二は言った。

「メタルマネージメントって知ってる?成功者が誰でもやってる夢を叶える方法。その中のアファーメーションっていう自己暗示を毎日やるんだ!成功するその日まで毎日」

取り繕った。

「知っているわ」

裕子は言ったが、マークは小首をかしげただけだった。
「将来のこと、未来に起こって欲しいこと、こうなりたいと思う自分を想像して言うんだ」

勇二は立ち上がった。

「2025年、勇二はプログラマーとして成功した!こうなる事は決まっていた!」

あの日から勇二は毎日アファーメーションを繰り返し、事あるごとに暗示した。


リンカーンでの移動中の車内、勇二のスマホからメッセージの受信を告げるメロディーが流れた。

長嶺曰くブレイク必至のバンドの曲であるが、勇二はバンド名は勿論のこと、曲名すら記憶に無い。
メッセージを開くと、由美子からだった。就業時間の今、電話は厳しいのだろう。

『今週末なんだけど、空いてる?友達のお父さんが経営しているレストランが沖縄のホテルにオープンするんだけど、レセプション・パーティーなの一緒にいかが?』

その日の予定を確認すると、運良く空いていた。だが、その一瞬、何かが脳裏にこびり付いた。
しかし、正体の分からない異物を強引に剥がし取ると、承諾の返信をした。

沖縄は新婚旅行で1度訪れたことがあった。しかし、結婚当時はお金に余裕がなく、本来は海外に行きたいのを我慢しての結果だ。

結局、二人で過ごせれば場所など何処でも同じである。裕子と二人で過ごした沖縄はまさに楽園だった。このままここに二人で移住したら、どんなに楽しく穏やかな毎日を過ごせるだろうか?一瞬だが本気で考えた。

裕子も同じだった、最終日前夜、ホテルのプールサイドバーでトロピカルカクテルを飲み、ほろ酔いになった裕子は「毎年、結婚記念日は沖縄で過ごしましょ」上目使いに言った。

勇二は「そうだね!じゃー帰ったら今まで以上に仕事頑張るぞ!」力強く言った。
これが二人での最後の沖縄となった。

出発前夜、いつもの店で飲んだ勇二は、仲間の引止め工作に何度か引っかかりそうになりながらも、二軒目には行かずに帰宅した。とは言っても既に午前様である。

帰宅した勇二は、スーツを脱ぐとシャワーを浴びた。
シャワーに打たれながら、沖縄でのことが頭に浮かんだ、早くも心が躍り始めていた。

シャワーを終えた勇二は、パールホワイトのイタリア製ガウンに身を包むとリビングに行った。
帰宅時には寝ていた裕子の姿がそこにはあった。

「悪い、起こしちゃった?」

「ううん。大丈夫、それより明日なんだけど」

裕子が言い終わる前に勇二は「明日から出張なんだ」と言った。

「え?だってそんなこと言ってなかったじゃない?」

「急に決まったんだ。ごめん、月曜の朝には帰ってくるよ」

優香が生まれてから室内でのタバコを控えている勇二は、バルコニーに出た。
記憶が薄れつつあるBBQの残骸が、嘗ては仲良しファミリーであった象徴としてそこに置き去りにされていた。タバコの煙が目に、BBQの思い出が胸に、夜風が冷えた身体に染みた。

沖縄当日、三時間ほどの仮眠で起きた勇二は、敢えて気だるさを演出したが、本当は自分でも驚くほど眠気は無く、頭は冴え渡り浮き足立っていた。

勇二の自宅から羽田までは一時間もあれば十分間に合うが、由美子をピックアップしてから空港に向かうため、二時間も前に出発した。

中野坂上にある由美子の自宅マンションに着くと、駐車場に車を入れた。
由美子は車を持っていないが、たまに来る勇二のフェラーリを停めるためだけに借りている。

無論、月々三万円の駐車代を支払っているのは勇二だ。
7階建てマンションの五階に由美子は住んでいる。築十年のマンションは、当然オートロックであり、防犯カメラがいたるところでその目を光らせている。
角部屋2DKの由美子の部屋は、管理費込みで十四万八千円、並みのOLならば住むことは出来ない賃料だが、勇二のひと月の昼食代で釣りが来る。

部屋に行くと、由美子はせわしなく旅行の身支度をしている真っ最中だった。

「ごめん、寝坊しちゃって」

「慌てんなって、二泊三日の旅行だろ?足りないものは全て向こうで買ってやるよ」

三十万円ほどの金を出せば、誰でも購入できる安物のソファーに腰を沈めながら勇二は言った。

「あと、十分で終わるからちょっと待ってて」

振り返ることなく由美子は言うと、忙しなく狭い家を動き回った。
結局、由美子の自宅を出たのは搭乗時間まで一時間を切った頃だった。

フェラーリを快調に飛ばし、ギリギリ間に合った二人は、エコノミー客と同じタイミングで機内に入った。

勇二を見送った裕子は、優香と共にリビングの壁に埋め込まれたテレビで子供番組を見ていた。何も頭には入らずただボーっと画面を眺めていた。

何度も疑念が裕子の頭をもたげた。優香の手前、勤めて明るく振舞った。しかし、純粋無垢で、言葉さえもまともに理解できない優香は、肌でその変化を敏感に感じ取っていた。

「ママ、どうして笑ってるの?」

「テレビが面白いからよ」

違った。子供に胸中を悟られまいとするがあまり、不自然すぎる笑みを浮かべ続けていたのだ。

「ホント?」

「ホントよ。それよりお昼は何食べたい?」

気まずくなって話題を変えた。時計を見るため振り返ると、目の端にカレンダーが映った。
カレンダーの中に、赤丸で囲まれた一日があった。今日だった。二人の結婚記念日を記すマークである。

沖縄の地に降り立った瞬間、南国独特の空気と、自宅を出るときに見せた裕子の表情が一体となり、勇二の背筋を舐めた。

何かがいつもと違う。野生の勘ではなく、小心者特有とする保身の第6勘がそう告げていた。
しかし、そんな勇二の心配とはよそに、由美子はいつも以上にはしゃいでいた。
そんな由美子の姿に、勇二の不安も徐々に薄れて行き、気が付くと素直に沖縄の空と海を楽しんでいた。

レセプション・パーティーには、何処かで見た顔が幾つもあった。恐らく勇二も同じような目で周囲から見られていたことだろう。

由美子は不倫という立場も気にすることなく、友達に悠々と勇二を紹介した。勇二も堂々と振舞い、由美子の彼氏を演じた。正確には演じたのではなく、この数ヶ月で自ずと身に付いた振舞いをしただけだ。

パーティーが終わりホテルに行くと、二人で飲みなおした。
ワインやブランデーをパーティーで味わった由美子は、折角だからと泡盛を帰りがけに購入した。

勇二もそれに付き合い、水割りで泡盛を味わったが、独特の匂いと味にどうしても馴染めず、途中でワインのコルクを抜いた。

深夜2時過ぎ、お気に入りの衣装のまま由美子がソファーで眠ってしまった。勇二はワイン片手にテラスに出るとウッドチェアに腰を下ろした。

沖縄の夜空の下、波の音をBGMに飲むワインは格別だった。東京のビル郡が作り出す人工的な夜景も良いが、同じ散りばめられた光ならば星空の方が勇二は好きだった。
いつもの様に、腹の底から過剰に自身がこみ上げてきた。

「全てこうなる事は・・・」

いつもの様に勇二が呟いたとき、部屋で由美子が叫んだ。
勇二の言葉が掻き消された・・・言いそびれたのは初めてだった。

「どうした?」

グラス片手に部屋に入った。

「虫が・・・」

由美子が怯えた顔でしがみついて来た。

「どこに、虫がいるんだよ。全く、これだから都会育ちのお嬢様は・・・」

言い終わる前に言葉を飲み込んだ、一瞬、目の片隅で何かが光った。何だ?フラッシュ?!素早く部屋のカーテンを閉めた。
くの字型したホテルの一番端の部屋、逆サイドからなら・・・

古傷が雨の日に痛むように、勇二の心臓をチクリと何かが刺激した。
再び、勇二の頭の中でサイレンが鳴り始めていた。小心者の第6勘は、願ってもないことに限り良く当たる。

月曜の昼過ぎに帰宅した勇二は、言葉少なく会社へ出掛けていった。
裕子は勇二の携帯にメールした。

『今日は早く帰ってきて』

少しだけ遅れたが結婚記念日のパーティーをしようと考えていた。
メールを送信した直後、受信を告げるメロディーが鳴った。
何故か、いつもより半音低く聞こえた。

メールを読んだ瞬間、思わず携帯を落とした。メールの送り主は勇二ではなかった。
メールの内容は、出張に行っていたはずの結婚記念日の日、勇二が他の女性と二人で沖縄旅行に行っていたと告げる内容だった。

さらに、ご丁寧なことに写真まで添付されていた。

裕子は信じられなかった。浮気されたことも、結婚記念日を忘れられていたことも、結婚記念日に新婚旅行で行った沖縄に他の女と行かれたことも。

出会ったばかりの頃の、結婚したばかりの頃の、優香が生まれたばかりの頃の勇二が好きだった。

あの優しくて真面目で、仕事熱心な勇二が好きだった。
お金が勇二を変えてしまった。裕子のアイデアが基となったソフトが勇二を変えてしまった。
裕子は自分を恨んだ。悔やんだ。しかし、まだ何処かで信じてる。勇二が、昔の勇二が帰ってくることを。

お金よりも、高級マンションよりも、フェラーリよりも、暖かいどこにでもある家庭が欲しかった。

節約した料理を三人で囲んで、テレビを観ながら笑い、川の字になって寝る普通の生活が愛しかった。優香の声で我に返った。

「ママ、電話」

床に落ちた携帯を拾ってくれた。
思わず抱きしめた。声を上げて泣いた。優香も泣いた。二人の子供が公園でブランコを取り合うように親子で泣き続けた。

「ママ、大丈夫だよ、優香がいるから大丈夫だよ。泣かないでママ」

3歳の幼子が必死に慰めてくれた。
娘に慰められ励まされるほどに、涙が溢れ出した。

「ありがと・・・ごめんね・・・」

声にならなかった。

その日、勇二からの返信はついになかった・・・
しかし、勇二は22時過ぎには帰宅した。
優香が眠りに付いた直後だった。

「お帰りなさい」

「ただいま、飯はいいや。シャワー浴びてくる」

言った勇二はアルコールの臭いがした。
シャワーから出てきた勇二はソファーに腰を落とすと、朝刊に目を通し始めた。
そして、記事に目を向けたまま言った。

「メール、返信できなくてごめん。なんかあった?」

何故か裕子の心臓が波打った。浮気をしたのが自分であるかのように動揺した。

「久しぶりに、三人でご飯でも食べたいなと思って」

思ってもない言葉が口を出た。
何故かごまかした。

「そっか、ごめんごめん。忙しくって」

相変わらず記事から目を離さない勇二がそこに居た。

「ううん。それより出張どうだった?」

意を決して聞いた。
一瞬の間が永遠にも感じられた。

「どうってことはないよ。職場が青山じゃなかったってだけだよ」

「そう、出張はどこだったの?」

覚悟を決めた。

「ごめん、疲れてるんだ」

乱雑に新聞を四つ折りにしてラックに戻すと、そのまま寝室へと消えた。
一人取り残されたリビングで裕子は再び泣いた。

しかし、今度は優香が居なかった。一人静かにむせび泣いた。

寂しかった、なにより広いリビングが怖かった。昼間枯れるほど流れた涙が、再び枯れるほど溢れ出た。


ある日、いつもの様にリンカーンで出社すると、入口に人だかりが出来ていた。

リンカーンのドアが開けられ、車外に降り立った勇二に、いくつものマイクが寄せられ、フラッシュが一斉にたかれた。マスコミだった。
何が起きているのか理解できなかった。

あっという間に囲まれ、身動きが取れなくなった。警備員が飛んできた。なんとかマスコミを振り切り、エントランスに逃げ込むことに成功した。

エレベーターに乗り込み勇二の職場がある階に行くと、社員全員が1つのテレビを凝視していた。

勇二もテレビを観た。何と、アメリカ国防総省との契約が正式に交わされ、社長の竹田が長官と共に会見を開いていた。
マスコミの意味がやっと理解できた。
勇二を発見した山下が、近づいてきて、肩を叩きながら言った。

「今日、15時から、急遽日本でも会見を開くことになった。お前も出てくれないか?」

「いや、でも・・・」

フロアーを社員の歓声と拍手が包んだ。

「分かりました」

答えたあと、後悔の念が押し寄せてきた。
最後方にいる長嶺と目が合い、背筋に冷たいものを感じた。

再び、勇二の頭の中で何かを告げるサイレンが鳴り出した。
いつもであれば喫煙が許されている長嶺の部屋でタバコを吸うのだが、喫煙室に行った。

タバコに火をつけ肺に紫煙を送り込んだ。ドアが開き長嶺が入ってきた。思わずむせ返った。喉に煙が引っかかり、苦く嫌な味がした。

「あれ?勇二さん珍しいですね、ここで吸うなんて」

「お前こそ」

目が泳いだ。

「タバコが切れたんで買いに来たんですよ」

喫煙室に、ジュースの自動販売機と並んで置かれた、タバコの販売機にコインを投入しながら言った。

「午後、会見ですね。終わったらサインくださいね」

封を切り、タバコを取り出すと、咥える前に言った。

「高けーぞ」

精一杯の強がりだった。
沈黙の後、タバコを消した長嶺が「じゃ」と言って部屋を後にした。
足が震えていた。

会見に緊張しているのではない、本来ならば諸手を上げて喜ぶべきトップニュースである。
しかし、何故か不安と恐怖で震える足を止めることが出来なかった。

会見依頼、暫くは不安と恐怖が共存する得体の知れない何かが、勇二の思考を支配していた。

しかし、いつも通りの日々が続くと、不安と恐怖は薄れ、以前の様に自信が勝っていた。

どこへ言っても芸能人扱いされ、モテはやされた勇二は、以前にも増して派手に遊びまわった。

常に女性を何人も引き連れ、酒が入ると気が大きくなる勇二を、マスコミが静観して置く筈が無かった。


会見を行った翌日から、ソフトは今まで以上に売れた。売れまくった。飛ぶように売れた。飛ぶ鳥を落とす勢いで売れた。面白いように売れた。笑いが止まらないほど売れた。殆ど家に帰らなくなった。

今や有頂天の勇二は、不安どころか怖いものなど何もなかった。
約二週間ぶりに帰宅した勇二は、ニュース番組を流し見していた。
報道されるニュースは、どれもJSTの快挙に比べると、くだらなく思えた。勇二にとって国内で起きるニュースは規模が小さすぎて、全く脳を刺激しない。

画面では、いかにもコネで入社したかの様な女子アナが、何処かの県でコンピュータートラブルによって年金が受給されずにいる事を報じていた。

アクビが出るほどのコネタだ。チャンネルを変えると、先日、六本木で一緒に飲んだバカな政治家が、いかにも秘書が用意しました、というコメントを棒読みで偉そうに語っていた。

この頃になると、夫婦の会話は殆ど無くなっていた。たまに帰っても家で食事をする事はまずない。娘の寝顔を確認するためだけに義務的に帰宅した。

根拠の無い『自信』という名の鋼をまとった油断と共に過ごしていたある日、いつのもようにタバコを吸いに長嶺の部屋を訪れた。

部屋には長嶺を含め、4人の社員がタバコを吸っていたが、勇二が入室すると同時に三人の社員が出て行った。
勇二はタバコを吸いながら、何気なく長嶺のデスクに置かれている週刊誌を手に取った。

相変わらずどうでも良い記事が、大げさに紙面を踊っていた。
『JRシステムダウン!全線一斉にダイヤ乱れる!』電車など何年も乗っていない勇二にとって、 バツ3芸能人の入籍以上に興味が無かった。
しかし、ページを捲った次の瞬間、我が目を疑った。

『JST社員の多忙な性活!』
大きなタイトルの横に、勇二のはしたない写真が掲載されていた。

長嶺はタバコを吸いながら、無言でパソコン画面をじっと見つめている。
勇二は雑誌を持ったまま、長嶺の部屋を後にし、自室から出版元へ抗議の電話を入れた。恫喝した。怒りで電話を持つ手が震えていた。

失敗だった。
電話の会話が全て録音されていた。
結局、録音された会話を消去するということで、和解せざるを得なかった。

歯車が少しずつ狂い始めていた。

ある日、勇二はリンカーンでの移動中、車内で僅かな睡眠を取っていた。
勇二は車に乗り込み、目を閉じると五分も経たない内に深い眠りに付いた。しかし、その直後、全身を襲う衝撃と、耳をつんざくタイヤの軋む音で目が覚めた。
運転手が急ブレーキを踏んだのだ。

今まで、そんな事は一度も無かった。コップに張った水が揺れることなく静かに発進し、立てたコインが倒れることなく穏やかに停止する。

いつも、発進した事も停止したことも、外に目をやらなければ気が付かないほど丁寧な運転だった。

「すいません。突然信号が消えたものですから」

動揺を隠さずに運転手が言った。
勇二は外に目を向けた、異様な光景が飛び込んできた。視界に入る信号が全て消え、至る所で事故が起きていた。

胸騒ぎがした。携帯を手に取り、社に電話を入れた。耳に当てた携帯からは一向に呼び出し音が聞こえてこない。
心臓が他人に聞こえるほど早く、そして大きく鳴っていた。

「社に向かってくれ」

勤めて冷静に発したつもりであったが、その声は裏返っていた。

「しかし、この道路状態では」

勇二の顔を見た瞬間、運転手は口を閉じアクセルを踏んだ。

「ラジオをつけてくれ」

普段、車内でラジオを聞くことが無い勇二が運転手に支持した。
しかし、勇二の予想通り、ラジオからはノイズしか聞こえてこなかった。
頭の中で、これまでに無いほど激しく警笛が鳴り響いていた。


ようやく社にたどり着くと、JST社内は混乱が渦巻いていた。

勇二を見つけた山下が走りよってきた。

「勇二、一体何がどうなっているんだ?」

「俺にもわかりませんよ!」

上司に対し言葉を投げつけた。山下を置き去りに長嶺のもとへ急いだ。
部屋に入るとその姿はなかった。携帯を取り出し、長嶺に電話を掛けようとして止めた。

繋がらない電話に掛けても苛立つだけだ。
喫煙室に行ったが、そこにも長嶺の姿はなかった。

「クソッ!」

自然と言葉が出た。
勇二は、タバコを取り出すと火をつけた。味など感じなかった。
自分を落ち着かせたかっただけだ。
紫煙を吐き出しつつ、あらゆる思考を巡らせた。
タバコを灰皿に投げ入れると、山下のもとへ急いだ。

「山下さん!」

「勇二、何かわかったか?」

振り向くとひっ迫した表情の山下が言った。

「長嶺は、あいつはどこですか?」

叫んでいた。

「長嶺は、昨日付で退社した!」

思考が一瞬で停止し、山下の言葉が頭の中をこだました。
勇二が認める天才プログラマー・長嶺の退社。ほぼ同時に起こった数奇な出来事。
偶然とは思えなかった。

もしも、悪意の天才がmw25のプログラムを組み替えたら・・・背筋が凍りついた。

前代未聞の大混乱は、その日の18時には収まり何事も無かったかのように、一瞬で復旧した。
しかし、その被害額は少なく見積もっても数百億をくだらない。
次の日、円相場は一時、1ドル三百五十円を記録した。ことの事態を重く見た政府は調査を開始する。

数日後、勇二の基に差出人不明の電子メールが届いた。

内容は・・・『○月×日 更なる被害が日本全土を襲い、多くの人が悲しむこととなる』マウスを握る手に血管が浮き上がっていた。

誰だ!?心の中で叫んだ。勇二はメールの差出人をトラッキングして追った。しかし、いとも簡単にブロックされ「GAME OVER」の文字と、舌を出したピエロの顔が液晶画面に映っていた。歯が立たなかった。一枚も二枚も相手の方が上手だった。

誰が?何の為に?理解できなかった。mw25を開発し、より便利で快適な世の中を創造したつもりだった。実際は、真逆になった。

勇二たちJST社員は対応に追われ、原因を究明した。
しかし、明らかに誰かが意図的に仕組んだことである以上、原因を突き止めたところでイタチゴッコだ。しかし、何もしないわけにはいかなかった。
そんな勇二たちJSTを嘲笑うかのように、次なるサイバーテロが始まった。

テロ当日 午前9時30分、勇二は三日間徹夜で作業を行っていた。
疲れはピークに達していたが、いま休むわけにはいかない。
栄養ドリンクの空き瓶が日を追うごとに増えるデスクで、ふとソフト開発当時の事を思い出した。あの時も徹夜は当たり前だった。

午前11時00分

女子社員に呼ばれ、会議室に向かった。緊急ミーティングが行われようとしていた。
竹田・山下を含む、極限られた創業メンバーと、主要プログラマーのみでのミーティングである。
メンバーが揃ったところで竹田が始めた。

「WNCに協力を依頼しようと思う」

竹田が言った。

「待ってください!それでは」

最後まで言わせてはくれなかった。

「我々だけではどうすることもできん!もう、一企業の問題ではないんだ!被害が少ない今ここで食い止めるしかない。そのためにはWNCと力を合わせるしかないんだ」

「しかし!もしかしたらこれはWNCの」

山下が制した。

「勇二、お前、WNCの女子社員と付き合っているそうじゃないか!」

いつもの頼りなく、お人よしな山下はいなかった。
山下がジャケットの胸ポケットから一枚の写真を取り出すと机に投げた。
それは、沖縄での一枚だった。

ホテルで勇二と由美子が抱き合っていた。
勇二が一人テラスでワインを飲んでいるとき、由美子が部屋で叫んだ。

勇二は慌てて部屋へ行った、由美子が虫を怖がって抱きついてきた。
まさに、その瞬間だった。点が線になった。
嵌められた!写真を握り潰した。

「処分は問題が解決してから下す」

竹田が冷静だが、迫力のある声音で言った。

会議室に取り残された勇二は由美子に電話をした。由美子と連絡を取るのは何日振りだろうか?ハッキリと思い出すことが出来ない。

電話から聞こえてきたのは由美子ではなく、契約が解除されたことを伝える抑揚のない電子的な声だった。ため息すら出なかった、バカだった。浮かれていた。

由美子との関係を知っているのはごく限られた人間だけだった。しかし、沖縄の事を知っているのは、由美子と自分だけのはずだった・・・由美子の事を完全に信用していた。

居た!もう一人、沖縄に由美子と行った事を知る人物が!
沖縄旅行の前日。いつもの店で飲んでいた勇二は、上機嫌だった。
しかし、翌日の事を思い、一軒で帰宅した。その時、メンバーに引き止められた。特に長嶺はしつこかった。その時は、それも長嶺特有の酒癖だと思っていた。

「勇二さん、もう一軒だけ飲みましょうよ。まだまだ夜はこれからじゃないですか~」

「悪い、明日早いんだよ」

長嶺の絡んだ腕を解きながら言った。

「あれ?明日もみんなは仕事があるのに自分だけ遊びに行くんですか?じゃー俺たちも連れて行ってくださいよ」

「遊びに行くわけじゃないんだよ。半分仕事みたいなもんだよ」

「仕事だったらなお更俺も行きますよー」

「いいよ、来なくて」

「行きます、行きます!どこですか?」

「教えないよ。言ったら、お前来るだろ?」

「行きません。だから場所だけ教えてくださいよ」

「沖縄だよ。沖縄、絶対来るなよ」

言って、勇二は他のメンバーが止めてくれたタクシーに足早に乗り込んだ。

午後1時00分

孤立した勇二は急に家族の顔が、優香の顔が見たくなり帰宅した。
いつ以来の帰宅だろうか?いや、家族と会うのはいつ以来だろう?不安と、期待が交差した。
自宅マンションに着くと、懐かしさすら覚えた。

ドアを開け、玄関に入ると、生活感が全く感じられなかった。長い廊下を抜けリビングへ行くと、まるで他人の家に初めて招かれた時と同じ感覚になった。

自分の物以外は何も無かった。箸の一本すら残っていなかった。それは、ここに住んでいた事実を清算し、新たな人生を手に入れるための決意表明に感じた。
テーブルの上に一枚の置手紙があった。

裕子から永遠の別れを告げられる、簡素な短文だった。しかし、その一文字一文字からは憎悪が滲み出ていた。日付は先月の中旬だった。
俺は、一体何をしていたのだ・・・

一人取り残された広いリビングで、今度は勇二が声を上げて泣いた。
広いリビングに想い出が吸収された。広いリビングが怖かった。

午後2時30分

どれだけの時間が経過したのだろうか?泣き明かした勇二はリビングのソファーで放心状態になっていた。
もう、自分には何もない。もう、自分には何も出来ることはないのか?
徐々に冷静になりつつある頭で考えた。

その時、勇二の携帯が振動した。長嶺が退社して以来、着信をバイブのみに設定変更していた。

「はい・・・」

自分でも聞き取れない程の小さな声を何とか発した。

「HELLO YUJI This is Mark」

国際電話から旧友の声が聞こえてきた。
マークと話すのは何年ぶりだろうか?しかし、懐かしさに浸れる心境ではない。

「久しぶり、どうしたんだ?」

「勇二、大変そうじゃないか?」

「なんだ、嘗ての宿敵を冷やかすためにワザワザ電話してきたのか?」

ぶっきら棒に言った。

「俺も、そんな暇じゃない。mw25の暴走を食い止めるため、今新たにソフトを開発しているんだ」

マークは大学を卒業した後、アメリカ国防総省に入省したのだった。
もう一人の天才の存在をスッカリ忘れていた。一筋の光が勇二に差し込んだ。

「そこで、mw25を開発したお前に頼みがある。開発した際の資料・ファイル、諸々を直ぐにこっちへ送ってくれないか?」

当然、社外秘のトップシークレットである。しかし、このままでは被害が諸外国に及ぶのも時間の問題だ。そうなれば、多くの犠牲者が出る。考えるまでもなかった。

「わかった。明日には届くように手配する」

電話を切ると、家を後にした。
涙で濡れた頬は乾き、その目には生気が戻りつつあった。

午後4時00分

社に再び戻ってきた勇二はマークに送る資料の支度をし、JSTが所有する貨物ジェットで国防総省に送る手配をした。早ければ明日の正午には届くだろう。
マークを味方につけた勇二は、少しづつではあるが安堵が芽生え、徐々に自信を取り戻しはじめていた。

「隠れてないで出て来い!正々堂々とその姿を現せ!」

見えない敵に呟いた。
しかし、次の瞬間、自らが開発したソフトに再び牙を剥かれた。

消していたはずのテレビがひとりでに付き、混乱を報じていた。
街では、全てのライフライン・コンピューター・電器機器などがストップしていた。子供の頃に観た終戦番組で映し出されていた、戦後焼け野原となった東京とダブった。

混乱の情景を勇二に見せ付けるかのごとく映っていた。
チャンネルを変えた。しかし、どこのチャンネルに切り替えても映し出されるのは、全く同じ映像だった。テレビ以外の全てが停止していた。いや、テレビも機能が停止していた。テレビを消そうと、電源をオフにした、それすら出来なかった。

「かかって来い!必ずお前の尻尾を掴んでやる!」

自棄になった勇二は画面に言うとほくそ笑み、ケンカなど一度もしたことの無いが、姿の見えない敵とケンカする覚悟を決めた。

その後、サイバーテロは僅か十五分で終了したが、日本全土を襲った被害は、これまでのものとは比較にならないほど日本経済にダメージを与えた。

そして、JST社長の竹田は、WNCに救護・協力を要請した。しかし、直ぐには返答を得られなかった。
三日後、WNCから竹田に条件付だが前向きな解答が届いた。
その条件は、WNCの傘下(買収)に入ること。さらに、勇二を解雇することとあった。

竹田からWNCの条件内容を聞かされた勇二は、抗うことなく会社を去った。予定が少し前倒しになっただけで、結果はどの道同じである。

しかし、竹田の温情により、解雇ではなく自主退社という形であった。全てを失い、芸能人並みに顔が知れ渡った今、解雇でも自主退社でも変わりは無かった。
その後、長嶺を取締役とするWNCホールディングスが誕生した。

会社を追われた勇二であったが、自称天才プログラマーとしてのプライドの火は消えることなく僅かに灯っていた。それはまるで、死刑囚が首にロープを通される瞬間まで、身の潔白を訴え続ける悪あがきのように。

勇二は自宅に帰ると久々にパソコンを立ち上げた。
つまらない意地であることは百も承知であったが、取り憑かれたかのようにキーボードを叩いた。

必死に解決策を探り、犯人の足取りを追っていた。
その時、速達が届いた。中には離婚届と、多額の慰謝料を請求する公正証書、さらに浮気の証拠写真が入っていた。

言い訳する気も、減額請求する気も起きなかった。全てを失ったが、もうどうでも良かった。
しかし、今の自分にはやらなければならないことがある!これは、見えぬ敵との戦いであると同時にケジメだった。

犯人は目星が付いていた。長嶺がWNCホールディングスの取締役に就任したことは、勇二の耳にも届いていた。
絶対に許さない!自分から全てを奪った奴を!

勇二は必死に犯人の後を追った。そして、ようやく場所を突き止めた。そこは神田にある雑居ビルの一室だった。
改装された部屋は、外観からは想像できないほど綺麗なバリアフリーのオフィスだった。
しかし、自動制御されたコンピューターがズラリと並んでいるだけで、誰一人いなかった。
壁面には「WELCOME!YUJI」と書かれた横断幕が装飾され、勇二の来社を歓迎してくれていた。

行き詰まった。やれることは全てやった。ここまでか?
自分の無力さが、非力さが歯痒く、もどかしかった。
最後は、マークに頼るしかないのか?学生時代から頼りっぱなしのマークに今になってもまだ頼るのか?

一瞬だが勇二は逡巡した。なぜならマークは犯人を捕まえるためにソフトを開発しているのではなく、この非常事態を終息させるためにソフトを開発しているのだ。
しかし、他に方法はない。勇二はマークにメールをした。

マークに送ったメールは直ぐに戻ってきた。何度送っても同じである。自分が書いた文面とともに、メールが届かない事を伝える文面が帰ってくるだけだ。
携帯を取り出し、マークに電話を掛けた。繋がらない。携帯を持つ手が汗ばんでいた。

今度は国防総省に掛けた。JSTの開発者と偽ってオペレーターに伝え、マークに繋いでくれるように頼んだ。しかし、マークは既に退省していた。
まさか!
マークが!?信じられなかった。もう誰一人として信じることが出来なかった。
思考が停止し、マークの微笑む顔が浮かんだ。

WNCでは長嶺を筆頭にテロ対策チームが結成され、テロリストの足取りを追うと共にセキュリティーソフトの開発を進めていた。

「長嶺さん」

「だから、さん付けは止めてくださいよ、山下さん」

一回りも二回りも大きくなった長嶺が言った。

「いや、いや立場が立場ですし、周りの目もありますから」

「誰も気にはしませんよ。で、何ですか?」

「勇二が色々と一人で動き回っているようなのですが・・・」

「ほっときましょうよ。彼一人じゃ何も出来ませんから」

「わかりました」

それ以上なにも言葉が出てこなかった。

「大丈夫です。彼がWNCよりも早くソフトを開発することなんてありえません」

嘗ての同僚を、そして、嘗てのルームメイトを三人称で呼ぶ長嶺を見た山下は、薄氷を踏む思いがした。

国防総省を退省したマーク、一人自宅にこもりソフトの開発に勤しんだ。
しかし、子供のころから神童と言われ続けたマークであったが、生まれて始めて大きな壁にぶつかっていた。

ここ数日はまともに食事すら摂らず、不眠不休で開発を急ぎ、集中するため一切のコンタクトを遮断した。しかし、自分一人ではどうする事も出来ないのか?何度も自問自答した。

いや、誰かが仕組んだプログラムであれば必ず糸口があるはずだ。
数え切れないほどのコーヒーを流し込まれた胃が悲鳴を上げていた。

見落としている箇所がないかどうか、一からやり直すことにした。今回で丁度十回目になる。見落としていることなどある筈がなかった。
しかし、遂にマークの執念が勝った!
気が付かなかった。いや、気にも止めなかった。だがマークは学生の時の、裕子の言葉をふと思い出し閃いた。

学生時代、マークのパソコンにウィルスが感染した。マークは自分で修復を試みたがどうにもならなかった。そこで、パソコンショップへ持っていったが結果は同じだった。

買い換えようかと考えたが、入学祝に両親がプレゼントしてくれたものなので、せめて卒業するまでは使いたかった。
そのことを裕子に話すと、裕子に言われた。

「ウィルスとかって自分の力を試したいだけの愉快犯の仕業って事が多いの。だらか、大抵彼らは自分だけが解る暗号を何処かに散りばめているのよ。それさえ解れば後は簡単よ」

裕子は暗号を読み解くと、いとも簡単に元通りに修復した。
裕子はずば抜けて天才だった。素直に認めざるを得なかった。

マークはその時の裕子に習い、同じように不規則にプログラムを睨んだ。

マークとテロリストとの根比べだった。しかし、遂にマークは暗号を解読することに成功した。ようやくパズルを完成させた。
手を当てた頬に伸びた髭が誇らしかった。

「そういうことだったのか・・・」

意味深に呟くと、冷めたコーヒーを淹れ変えた。

何日も明かりが灯ったままのWNCテロ対策室は、進展のない状況に苛立ちが立ち込めていた。
その間もサイバーテロは続き、その間隔は日に日に短くなり、徐々に規模が拡大していった。

この頃になると誰一人として口を開く者はいなかった。
静まり返った部屋に、キーボードを叩く音だけが止むことなく不規則に鳴り響き、不快感を煽った。

しかし、その時、そんな不協和音を打ち消すかのように扉が開き、一人の女子社員が飛び込んできた。
女子社員は長嶺のもとへ行き伝えた。

「長嶺さん、国際電話が入ってます」

やや不安が伺える表情だった。

「誰から?」

「元国防総省、IT戦略部のマークと言う方です」

「分かった、私の部屋に回してくれ」

言うと、誰も居ない部屋に向かった。
自室に入ると深呼吸をひとつして受話器を上げた。

「お待たせしました。どの様なご用件でしょうか?」

「実は、mw25のウィルスバスターを開発しました」

バカな!?天才と言われ続け、事実上mw25を開発したこの俺を凌いで、ウィルスバスターを開発しただと?信じることなど出来なかった。

「ご冗談を」

言って、タバコに火をつけた。

「冗談などではありません。私はつい最近まで国防総省のIT戦略室に勤めていました」

長嶺は一瞬、何故だか懐かしさを覚えた。電話でも疲れを感じさせるしわがれた声であったが、どこか聞き覚えのある声だ。しかし、どこで聞いた声だったかが思い出せない。

「なるほど。で、一体何がお望みですか?」

「ソフトを権利と共に買っていただきたい」

タバコを肺の奥まで吸い込み、若干落ち着きを取り戻すと、肺から煙を吐き出し言った。

「お幾らでしょうか?」

「三千万ドルで買っていただきたい」

「それは、それは」

「決して高い額では無いと思います。このままの状況が長引けば、日本の国交が断絶されるのは時間の問題でしょう。そうなれば御社は間違いなく原形を保てない」

この男の言うとおりだった。さらに、このまま何日掛けても同じだろうことはmw25を開発した長嶺が一番よく理解していた。

「解りました。しかし、それが本物であるかどうかを確認させていただきたい」

「どうすれば良いでしょうか?」

「国防総省のIT戦力室にいるプログラマーに解析をしていただきたい。その結果を明日の正午に国防総省に問い合わせる。その結果次第で条件を飲もう」

「解りました」

電話が切れた。
長嶺は電話を切った後もしばらくは、電話の声が耳にこびり付き離れなかった。

次の日、現地時間の正午ジャストに国防総省に連絡をした。答えは白だった。
WNCはソフトと権利を買い取った。事態は終息に向かったが、安堵とは裏腹に天才プログラマーとしての誇りを汚された長嶺は素直に喜ぶことが出来なかった。

一躍英雄となったマークは記者会見を開いていた。その模様をテレビで見ていた長嶺はようやく声の主が解り納得した。

「久しぶりだなマーク。やってくれるじゃないか」

不適な笑みを浮かべタバコを消した。

時を同じくして自宅のテレビでマークの会見を観ていた勇二は、震える体を止めることが出来なかった。

「マーク、お前だったのか!」

魂の抜けた声だった。
左手に挟んだタバコの灰がポトリと床に落ちた。



エンディング紺碧の海に囲まれ、緋色の太陽に照らされる島。穏やかに繁栄の時が流れ、虚勢と虚栄が無益な島。目を閉じ、耳を澄ますと、時間が止まる島。
人口165万人、面積2万4千90平方km、地中海に浮かぶ地上の楽園、イタリア・サルデーニャ島。

タラップから太陽に熱せられたアスファルトに足が移ると、眩いばかりの日の光が全身を包み、心地よい風に髪がなびいた。

雲ひとつない透けるような空の青を目に焼き付けるように、掛けていたサングラスを外し、眩しげな目で確認すると再び掛けなおした。生死の狭間をすり抜けた者の顔をしたマークだった。

高台に立つ教会から、訪問を歓迎する鐘が打ち鳴らされた。サングラス越に目を向けると、白い鳩と色とりどりの風船が一斉に大空へ放たれた。
今日までの出来事が走馬灯のように頭を駆け巡った。

長いようで短く、昨日のことのようにも、遥か彼方のことのようにも思えた。不思議な感覚だった。
空港からの移動は、メタリックシルバーのボディが太陽に煌めくベントレーのオープンカーを利用した。

助手席には、荒く編んだ目の隙間から日が差し込む大きなつばの帽子を被り、シャネルのロゴが嫌味なく主張するサングラスを掛け、ダブついたレースの長い手袋を肘まで嵌めた、黒いロングヘヤーの綺麗な女性が、昔からそこが定位置であったかのように、ごく当たり前に座っている。

そのまま空港を出ると、カラッとした生暖かい風を縫いながらホテルへと向かった。
ホテルでチェックインを済ますと、部屋には行かずプライベートビーチに直行した。
誰もいないビーチは、決して途絶えることの無い波の音を、一定のリズムで奏でている。
二人で海に来るのはいつ以来だろう?いや、もしかしたら初めてのことかもしれない。

どちらにせよ、これまでのことは、二人が産まれる遥か昔から神が決めた予定調和だったのだろう。しかし、これからの未来は二人で築き上げていく。
どこまでも続く水平線の向こうに、二人の未来を見た気がした。

「それにしても、随分と手の込んだことをしたな、もし俺が解けなかったら、どうするともりだったんだ?」

呆れ、諦め、そして畏敬の念を込めて聞いた。

「あなたなら解けると信じてたわ。あなたしか解けないとも」

恍惚な表情を浮かべた彼女はこれまでで最も美しかった。
それ以上の言葉は、今の二人に必要がなく無意味なものだった。

静かで長い時間、ただ寄せては返す波を見ていた。日は沈み掛け、青かった空を赤く染め始めている。

二人は夕日を背に唇を重ね、暫く見つめ合った。
マークはそっと口をひらくと「部屋に行こうか」と優しく女性を誘った。
女性が頷くとマークは流木から腰を上げ、静かに歩き出した。
夕日によって砂浜に映し出された二人の影。

砂浜に刻まれた長い足跡・・・その両外側にくっきりと残された、細く長い2本のタイヤの線が、これまで歩んできた長い道のりを示していた。

~エピローグ~

自らの手で全てを崩壊に導いてしまった勇二は、明かりの消えた西日差し込む部屋で、ダンボール箱に囲まれていた。

テレビからは皮肉にも、名前も知らないバンドの、名前も知らない聞き慣れた曲が流れていた。

タバコを取り出すとリビングで吸った。
名残を惜しむかのように根元まで吸うと、飲みかけのコーヒー缶に吸殻を捨てた。

その後、荷造りを済ませた勇二は部屋を出た。鍵を掛けた瞬間、全ての終わりを告げるかのように「カチャリ」と音がした。無性に切なくなった。

エレベーターで下まで降り、メールボックスを確認すると、一通の絵葉書が届いていた。
何処かの南の島だろうか?サンセットの綺麗な砂浜が写っていた。
絵葉書には見慣れた字で「全てこうなる事は決まっていた」と書かれていた。

読み終え何かが吹っ切れた勇二は、清々しさの中にも強さを兼ね備えた男の顔になっていた。

秘密を着飾った女は綺麗になり、大金を手に入れた男は変わり果てた挙句、大事なものを失い強くなった。

そして・・・全て“こう”なった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?