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同調圧力から解放されていく人の集まり方を見出していきたい〜共異体という群れ方への共感〜

今日は人の集まり方について書いてみたいと思います。「同調圧力から人はどう自由になっていけるのか?」ということが自分自身の主題の一つなので、人との関わり方や集まり方について考えることも興味の射程範囲に入っています。

今日の話の切り口は「共同体」「コミュニティ」「共異体」です。

よく発信を参考にさせていただいている Ecological Memes さんのTwitter投稿にこのようなものが流れてきました。

共異体。

私の現在の肌感覚に合っています。

日本の戦後以降、にわかに続いてきたのが、「同調する / させる」というコミュニケーションのあり方だったと思っています。軍国主義なんかはその筆頭です。(自分自身は研究者でもないので、信憑性は期待せずにお願いします😀)

海外でいうと、ナチズムや、ファシズムを思い出します。

それらは、戦後に解体されたかのように見えて、色濃くさまざまな領域に引き継がれていったのではないでしょうか。戦後に発展して行った沢山の会社がトップダウンの組織構造および上下の階級を作っていったこと。その流れは強烈なものだっただろうと思います。

それを違う角度から眺めてみると、「宗教的」な場および人の集まりが培われてきたということかもしれません。その意味は、特定の思想形態(イズム)への信仰を求め合うコミュニケーションが生じがちであることです。

そういう中で、オウム真理教などのいわゆる新興宗教勢力による一連の事件が起こることもありました。人の意識は宗教を忌避するようになり、「カルト」という現象に対する大きな経験を積みました。

ただ、「カルト的現象」も依然として世の中に蔓延っています。カルト現象が「特定の思想への盲信」によって引き起こされるものだとすると、そういうものを求め、促すということは2021年現在にも沢山の場所でみられるのではないでしょうか。(宗教という領域の世界も、カルトから自由になっていきますように🙏)

すごく大雑把に思うのは、人は「信じる」ということをベースにして、社会なり、コミュニティなりを形成しています。それ自体は悪いことでもなく、適切に信じることができることは人生を歩んでいく上で必須のことだと思います。(ただ、もちろん、何をどのように信じるか?ということで破滅に向かうこともあれば、心安らかな方向にいくのかは異なると思います。)

教訓としてここ数年で学んだことは、「自分が信じていることを押し付けない」「盲信はしない」ということです。ついついやってしまいがちなので、気をつけます!

さて、話を戻します。

私は、「同質化する」という時代の中で培われてきた癖を捉え直しながら、新たな人との関わり方を見出していきたいと思うようになりました。

同時に、「共同体」「コミュニティ」という言葉を使う頻度が下がりました。それらの言葉への違和感は「同質化」というニュアンスを含み込んでいると感じてきたからです。

それに代わる言葉としてしっくりきているのが、「共異体」です。

「共に過ごす」というニュアンスと、「異質である」というニュアンスの二つが含み込まれている言葉で、いいなぁと思うんですよね。

思えば、私たちは一人一人、同じ存在ではありません。差異があります。

金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」をふと思い出しました。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

それぞれが異なり、異なりを前提として、合わさるということが起こっていく。また、常に合わさらないといけないわけではなく、合わさる時もあれば、合わさらない時もある。人との関わりというのは、それくらいがちょうどいい塩梅なのではないかと思っています。

「違いを持つもの」は人間以外にも当てはまります。私はこの半年は、よく音を通して他の存在を聴くことに努めていました。具体的には自然の音を録音するフィールドレコーディングをしながら、虫の声、鳥の声、木々のざわめき(風の音)を録音していました。

山や森、川に触れる時間が増えるにつれて、すっごく当たり前のことですが「地球には人間だけがいるわけではない」ということが腑に落ちました。人間が欲を肥大化させすぎると、環境問題を通して、人間以外の生き物の声を過剰に奪ってしまいます。私は、季節の流れの中でそれらの声を聴くことができなくなる未来にはなってほしくありません。もしあまりに負荷をかけすぎると生態系の循環が崩れ、人間が生きていくこと自体も難しくなるのではないかとすら思います。

ここまでをまとめると、

人間以外の他者 / 存在を感じながら、
他の人たちが自分自身とそもそも異なることを自覚しつつ、
同質化から自由になる人との関わりを見出していきたい

このように思っています。

共異体という流れづくり

さて、いろいろ書いてきましたが、「共異体」を編んでいくアクションを自分なりにやっていきます。

月待講
その流れづくりの一環としてやっていくのは、月待講という定期的に実施していく集いです。自分自身の音色をチューニングしたい人はお気軽にお越しください。それぞれ集う皆さんのための場ですので、こちらからこういう考えを学んでもらわないといけないということは特になく、それぞれが語り、聴き、自分のしっくりくる感覚を取り戻していくというそれぞれのウェルビーイングを培う場です。

月待講は長期的にやっていこうと思います。いつでも立ち寄ってもらえるように、滔々と流れる川のように、実施し続けようと思います✨

これをやっていく結果、初めて来る人もいれば、これまで何度も来たことがある人もいるという流れに育っていくのかなぁと思っています。その時に、共異体が生まれていると言えるのかも、しれません😉 

お電話(トランジションの対話)
さらに、トランジションの対話も引き続きやっていきます。2020年は、以前よりも相談の電話が増えました。相談主からお金を頂くことは止めました。こちらができるお布施的活動の一つとして今年も行わせていただきます✨

何か相談事がある方がいたら、気兼ねなくどうぞ。悩みが解決するとは限りませんが、お話を聴くということは喜んで😀  

頂いたサポートは、生活と創作(本執筆)のために、ありがたく使わせて頂きます!