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アイノカタチ

私の仕事は、葬儀司会と訪問医療マッサージの仕事もしております。

葬儀の仕事は、亡くなってからのご縁でさせて頂くお仕事ですが、訪問医療マッサージのお仕事は、高齢になり手足の自由が利かなくなった人に対するサービスです。

昨年12月と今年1月、そして、つい先日と利用者3人の方がお亡くなりになりました。
生前3年間、全盲のあん摩マッサージ指圧師の先生に同行してご自宅を訪問しておりました。

ご主人の死

大工の棟梁として働いてきたSさんは、奥様と二人、仲睦まじく、奥様の介護を受けながらご自宅で過ごしておいででした。
三食すべて奥様の手作りのお料理。便秘予防の為に飲む乳酸飲料、早い夜は、チビチビと日本酒を舐めるように飲みながら時間をかけて食事をします。
そして、お風呂に入って就寝です。2階の寝室から1階の居間に介護用ベッドをレンタルし設置したのは昨年の春ごろでしょうか。
病気により目が殆ど見えなくなっていたのですが、ベッドになってからの体力の衰えは、同行している私にも分かりました。

その日は、突然やってまいりました。その日も週3回の日課のマッサージを受けました。後程、先生に訊いたところ、その日は呼吸が浅かったとのことでした。でも、通常通り施術が終了し、そして、夕飯を食べ、冬なのに珍しくアイスクリームを食後に召しあがりました。

夜、奥様が寝る前にご主人のところに見に行くと、暑いのか布団をはだけていたので、手を毛布の中にいれて、布団をかけ直し就寝しました。

朝、いつもの時間にご主人のところに行くと、既に息は無く、慌てた奥様はお子様方に電話をし、そして、警察が来ましたが、事件性はなく、かかりつけ医もおりましたので、死因は老衰とのことでした。

今、コロナ禍で病院に入院してしまうと、ご家族と会うこともできず亡くなるケースが多いのですが、ご自宅で、最後まで奥様の手料理を召し上がり、眠るように亡くなったS様でした。

連絡が来て、まだ、介護ベッドに横になっているS様のお顔を拝ませていただきましたが、本当にいつもと同じに眠っているのかな、と思うほど、穏やかなお顔をしていらっしゃいました。
私の目からポロポロと涙がこぼれたのは、葬儀司会では泣かないようにしている私もビックリしてしまいました。

奥様も若い頃は、ご主人の仕事を手伝い、職人や若い衆を車に乗せて、現場まで送っていった話や、今の自宅を二人で手作りした話などを聞いておりました。高度経済成長期の地方都市で、住宅の建設ラッシュの時代、夫唱婦随で働き、舅姑の介護をし、お子様たちに素晴らしい教育を受けさせ、現役引退後は、ご主人と二人、仲睦まじく暮らしていたお二人。

コロナ禍の中で、ご自宅でご主人を看取られたことは、奇跡に近いことでもあります。

「夜、布団を掛けてあげたままの姿で寝ていたのよ」と奥様が話してくださいました。気丈な奥様は、私の前では、一切泣かずに、淡々とその夜の出来事を話してくださいました。
私は、一点を見つめて話をする奥様に、ご主人を最期まで自分の手でお世話をし彼の地へと送ったやり遂げた感(達成感と言ってしまうと語弊があるかな)と深い愛情を感じました。

奥様の死

そして、夫婦で透析を受けていらっしゃったTご夫妻。

奥様は昨年11月頃より体調が悪化し、入院を余儀なくされました。大きな総合病院に入院されまたが、その病院でクラスターが発生したため、面会が出来なくなり、かかりつけの病院へ転院させました。

そして、毎日、午後3時に10分間の面会に通っていらっしゃいました。本人も、週3回透析を受けている体ですが、奥様を見舞うことが、その方の励みになっていました。

奥様の病状は悪くなる一方のようでしたが、年が明けて、意識が回復し、ご主人の呼びかけにも応えられるようになったと、訪問した際に嬉しそうに話をするTさんがいらっしゃいました。

それもつかの間、その話を聞いた週末、1月23日に奥様は旅立たれました。

私が弔問に訪れた時は、既に棺の中に納棺されていました。傍に置かれた遺影写真は、少しお若い頃のふっくらとしたお写真。棺の中で眠る奥様は、頬はこけていましたが、納棺師の方がきれいに死化粧をしてくださっていました。

先週、Tさん宅を訪れたとき、Tさんは、
「息子に先立たれたときより、お母ちゃんに死なれた方が、こんなに辛いなんて想像もしなかった。俺の方が先に逝くと思っていたから。
俺ぁ、これからどうして生きていったらいいかわからない」

私は、話を聞きながら頷き、「奥様は、いつもTさんの体のこと気にかけていらっしゃいましたね。この時間になると夕飯の支度にとりかかっていて」
というのが精いっぱいでした。


二日前の9日、火曜日にTさんの仕事仲間のHさんから電話がかかってきました。
「Tさん、亡くなったんだよ」

「え、奥様が亡くなったのは聞いておりますし弔問にもいきましたが」と私。

「違う違う。Tさん本人が亡くなったんだよ」

私は、慌ててTさん宅に向かいました。お位牌には2月8日と書かれています。私は心の中で、「え、昨日亡くなり、今日火葬して既に納骨を済ませたの?」と思いました。

金曜日はマッサージの施術を受けていました。

話を聞きますと、土曜日の午前中、仕事の打ち合わせに行き、午後からご自分の透析に行ったとのことです。
昨年の秋から一時的に同居することになったお孫さんが話をします。彼は訪問マッサージの際に挨拶しても、自分から話をすることはなく、口下手なのだな、と思っていたのですが、初めて彼が積極的にしゃべるところを見ました。

「日曜日の夜、じいちゃん、家に帰る、家に帰るって言って、外に出ようとするから、『ここがじいちゃん家だろうよ』と言って引き留めていたんだけど。真っ暗い中、外に出だして、ため池にはいったんだよ。引き上げられずに救急車と警察呼んで…」
奥様と長く暮らした家は、ここではなく〇〇町にありました。

家の裏手には、団地の貯水池も兼ねた天然のため池がありました。

「いや~、奥さんによばれちゃったんだよな」と仕事仲間のHさん。

月曜日の未明に亡くなり、事件性がないので、すぐに直葬(といっても24時間経過後でないと火葬はできません)となり、当家墓地に納骨されました。

カロウトには、奥様のお骨の隣にTさんのお骨も安置されたことでしょう。ご遺族がこんなに早く、Tさんを仕舞ったのは、愛する奥様のところに行かせてあげたいお気持ちからだったのでしょうか。

グリーフカウンセリングを学んでいる私は、配偶者の死による喪失感から生きる気力を無くされてしまう方々のお話を聞く機会も沢山ありました。

しかし、「大切な人を亡くした方の集い」や「生と死を考える会」に足を運べる方は、生きる希望を見出したいからこそ来るのであって、本当に絶望された方のお話を聞いてはいないのです。

先週の水曜日、奥様が亡くなってしまい2週間が経過し、辛いお気持ちがこみあげてきたTさんに届く言葉を掛けられなかったかと、私自身が後悔に打ちのめされました。

ずるいと思うのですが、だからnoteに綴っているのです。

Tさんの亡くなった息子さんにはお子様がいて、昨年の秋から男のお孫さんが仕事を辞めた都合で祖父母にあたるTさん宅に居候しておりました。

そのお孫さんは、結果的におばあちゃん、おじいちゃんの最期を仕舞う形になりました。
それはきっと、天国に行った父親が自分の代わりに最期を看取れるように遣わしたのかもしれません。

偶然のようでいて、それまで和歌山県にいた彼にとってみれば、びっくりする展開だったと思います。

人は、一つ一つの事実に後から意味づけをします。

ナラティブセラピーは、大切な人が亡くなった後の人生の物語を書き換える作業です。

私自身、当事者として、人の死に意味づけの作業をし、少しでも納得しようとしています。

東日本大震災から間もなく10年。

どれほどの人が、あの事実に、その後の自分の人生の物語をどのように書き換えたのでしょうか。

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