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『空海』ってこんなすごい人だったんだ!①

 4月14日、妻のたっての希望で奈良国立博物館で開催されている『生誕1250年記念特別展 「空海 ~密教のルーツとマンダラ世界~」』を見学した。空海が『性霊集』に遺した言葉「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きなん(この世の全ての物が消滅し、仏法の世界が尽きるまで、私は人々が救われることを願い続ける)」が素晴らしい。

 弘法大師「空海」は宝亀5(774)年、今でいう香川県善通寺市で、讃岐の郡司の家系に生まれた。空海の実家は市の名前になっている善通寺だ。弘法大師空海の御誕生所である善通寺は、真言宗善通寺派の総本山で、四国八十八箇所霊場第75番札所である。
 唐から帰朝した空海が長安の青龍寺しょうりゅうじを手本に、大同2(807)年から弘仁4(813)年までの6年の歳月をかけて建立した。父の名である「善通よしみち」にちなみ善通寺と名づけたと伝えられ、高野山の金剛峯寺や京都の東寺よりも早くに建てられた真言宗最初の根本道場である。

 空海の幼名は真魚まおという。真魚は7つの時、自分は世を救うという誓いを立て、家の近くにある山のうち一番高かった捨身ヶ岳に登り、
「私は仏法に入り、世の中の困ってる人々を救いたい。それが叶わぬならこの命を捨てて御仏に捧げます」と断崖絶壁から飛び降りたところ、天女が現れて、真魚を抱きとめ「一生成仏」とおっしゃったという。真魚はこのことに大変感謝し、一層勉学に励んだと伝わる。

 地元讃岐から15歳の折に都へ出て、叔父から論語、孝経(中国の経書のひとつ)、史伝、文章などを学び、18歳で大学に入る。大学では春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだ。大学での勉強に飽き足らず、また世を救うものではないと感じ、次第に仏教に興味を持つようになり、大学を去り、仏道の修行へ身を投じた。大峯山や阿波、あるいは土佐の室戸崎などの霊所を求めて修行を続け、20歳の時に出家を決意、槙尾山寺で剃髪・得度し、名を教海きょうかいとし、のちに如空にょくうとあらため、身も心も御仏の弟子となった。修行場の1つ、室戸岬の御厨人窟みくろどからの眺めが「空海」の名のもとになったと言われている。

 名を空海と改めたのは22歳の時。高僧に仏の教えを聞いても満足できず、最高の教えを求めて東大寺で祈願したところ、その満願の日にみた夢の「大和高市郡の久米寺東塔の中に、汝が求めている教法がある」というお告げによって「大日経 」を発見する。しかし、経典の1部に理解できない部分があり、その教えを請える者が日本にはいないことから、唐へ渡る決意をするのだ。

 延暦23年、留学僧として遣唐大使:藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろと共に、肥前国(長崎県)松浦郡田浦から唐へ向かって出帆した。しかし、嵐の直撃を受け1ヶ月以上も海上を彷徨った末、目的地である蘇州からは程遠い僻地に漂着する。出航した4隻のうち、唐に辿り着いたのは2隻だったうえ、国書を携帯していた副使の第二船の到着が嵐の影響で遅れていたため国書を提示できず、大使が手紙を書いても怪しまれて信用されず、上陸の許可が降りなかった。そこで、空海が現地の責任者に嘆願書を書いたところ、その文章が「名文・名筆」であったため、ようやく使節と認められ、上陸を果たすのだ。

 長安の都に入り留学生活を始めた空海は、延暦24年に青龍寺の恵果和尚と対面を果たす。正統の真言密教を継がれた第七祖で、唐では右にならぶ者のない名僧だった。その「人となり」を初対面で感じた恵果和尚は、他の弟子らを抑えて異国の地からやってきた空海を己の後継者とし、法を正式に伝える儀式である「灌頂かんじょう」を行ったのだ。

 恵果和尚はまず、空海を正式な弟子とするため、三昧耶戒さんまやかいという密教の受戒を受けさせる。そして灌頂を行った。頭に水を注ぎ、仏の位に達したことを証明するという儀式のことだ。元々は古代インドで行われていた国王の式典の風習を仏教が取り入れたものだ。

 空海は、5月に恵果和尚を訪ね、その後、6月に早くも胎蔵界の灌頂を受け、7月に金剛界の灌頂、そして8月に伝法阿闍梨の灌頂を受ける。このペースでの灌頂は異例の早さだという。こうして、大日如来を意味する「遍照金剛へんじょうこんごう」という名を与えられ、空海は密教の第八代の伝法者の地位についた。

 つづく

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