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人間としての正しく美しい心を伝える「妖怪人間ベム」

   ダイバーシティーという言葉が多く聞かれるようになった。企業の中では、性別・国籍・年齢や雇用形態・婚姻状況・価値観などの属性による差別をなくし、多様な人材を適材適所で配置することで成果を最大化しようという「ダイバーシティー・マネジメント」が注目されるようになってきている。教育の場でも、多様性を認め合おうという認識は高まっている。
 一つの単純な例は、性別にかかわらず学生を「〇〇さん」と呼ぶようになっていることだ。生物学的に男性だから「〇〇くん」、女性だから「〇〇さん」と呼ぶのではそこにはあてはまらない人たちへの配慮に欠けるからだ。トランスジェンダー(心と身体の性別に差がある人)の人を、呼び方で傷つけてしまうかもしれないという配慮からだ。小学校でも生徒を全員「さん」付けで呼ぶところも多いという。確かに将来企業就職すれば、同僚はともかく、先輩社員に対しては「○○さん」と呼ぶことが一般的だ。学校現場や医療の現場では、性別に関わりなく「○○先生」と呼ばれる。

 「みんなとちがう」が傷つかない社会にすべく、これまでは多数派に合わせるという考え方があった。イギリスの哲学者ベンサムは「最大多数の最大幸福」という言い方をした。社会全体で見て、なるべく多くの人に幸福が行きわたるようにしようということだ。確かに合理的に見えるが、少数派が犠牲になってしまう面を持ち合わせた考え方だ。少数派の傷つく度合いがひどかったら、それは多数派のほうが気を遣うべきではないのか。「みんなとちがう」ことで不利益を被るべきではない。
 日本人は「みんな同じ」が好きなようで、ダイバーシティーの波になかなか乗れていない。「日本は単一民族だから」と堂々と話す政治家がいたり、アイヌや琉球の人を「土人」と呼ぶ大和民族がいたりする国だ。大和民族が大多数存在するのは確かだが、アイヌの人も沖縄の人も、在日コリアンの人も、日本で生まれて日本で育ち日本語しか話せない日本人でありながら、見た目がアフリカ系であるがゆえに差別される人もいる。日本が単一民族国家を名乗ることは、そうした少数派の立場に置かれた人たちを傷つけることになる。

 私が子どものころ、『妖怪人間ベム』というアニメがあった。数年前に実写化されたので、ご存じの方も多いと思うが、私が観たアニメ版の冒頭のシーンは忘れられない。以下のような意味深なナレーションと共に、妖怪人間ベム、ベラ、ベロの物語がはじまっていく。

「それは、いつ生まれたのか誰も知らない。暗い音の無い世界で、一つの細胞が分かれて増えていき、三つの生き物が生まれた。彼らはもちろん人間ではない。また、動物でもない。だが、その醜い身体の中には正義の血が隠されているのだ。その生き物、それは、人間になれなかった妖怪人間である。」

 悪事を働き続ける人間の心の醜さに絶望した天才科学者が、自らの手で善き心を持った完全になる人間を新たに創り上げようとして人造人間をつくる研究へと没頭していったものの、その天才科学者は、そうした完全なる人間を自らの手で創り上げるという神のような善なる目的のために行われた悪魔のような研究の道半ばにして死を迎えてしまう。その代わりに、人間とは似ても似つかないような醜い身体と、悪しき思いに惑わされ続ける通常の人間には及びもつかないような正しく美しい心とを同時に与えられた妖怪人間と呼ばれる異形の生物が誕生することになったというのが、「ベム」「ベラ」「ベロ」という三人の妖怪人間が誕生した本当の理由であった。

 私がもう一つ気に入っているのは、あのジャズテンポ満載の主題歌だ。

闇に隠れて生きる。俺おれたちゃ妖怪人間なのさ。
人に姿を見せられぬ獣のようなこの身体。
「はやく人間になりたい!」
暗い運命(さだめ)を 吹き飛ばせ。
ベム!ベラ!ベロ!妖怪人間。

 『妖怪人間ベム』の冒頭のシーンで語られている「はやく人間になりたい!」という妖怪人間たちの心の叫びはどれほどの悔しさだったのだろうか。どんな人間にも劣ることがないような人間らしい正しく美しい心を持ちながら、そうした美しい心にふさわしい人間としての本来の清らかな身体を与えられることがなかった妖怪人間…。自らの心にふさわしい人間としての本来の身体を取り戻すことを望み、願ってやむことがないという、妖怪人間たちの人間という存在に対する強い切実なる思いが込められている。
 「早く人間になりたい」あの名セリフは、本当は現代を生きる人間のためにあるのかもしれない。

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