見出し画像

平安時代は決して平安ではなかった…

 実は平安時代は、ちっとも「平安」ではなく、内乱に明け暮れた時代だったと想像がつくだろうか。現在、NHK大河ドラマ「光る君へ」のイメージからも、平安時代というと、藤原道長、紫式部、清少納言に象徴されるように「優雅で贅沢な貴族たちの時代」だったように思われがちである。確かに、そういう面もあった。その一方で、日本全国で大きな戦乱が続いていたのだ。

 東北地方を中心にした蝦夷えみしと呼ばれる反抗勢力に、平安時代の朝廷は悩まされ続けてきた。蝦夷というと、アイヌ人かと思うかもしれないが、決してそうではない。古代の東北地域には、関東などから移住してきた倭人とアイヌ民族が混然としていたのだ。平安時代くらいになるとこれらの東北地域の人々は独自の文化を持つようになっており、中央政権とは距離を置くようになってくる。宮崎駿監督作品『もののけ姫』のアシタカはこの蝦夷の末裔だと推測される。

 京都の中央政権は、東北を支配下に置きたい。そのため、たびたび軍を派遣したり、東北地域の豪族たちを鎮圧したりして、支配地域を拡大しようとしていた。東北の人々は中央政権の支配を受け入れることもあったが、それでも中央政権のほうは、東北を辺境・異境として扱い、差別することがあった。たとえば、東北の豪族に階位を出すときには、「外徒五位下」というような形となった。普通ならば、「外」はつけられず、「従五位下」とされるところなのに、東北の人々に対しては「外」をつけることで、他の日本人とは違う扱いをして差別化をしたのである。もちろん、東北の人々にとってそれが面白いはずがない。そうした経緯もあり、アイヌ民族はもとより、大和民族だった人たちも、中央政権に反旗を翻すことが多々あったのだ。

 その最大のものが、「38年戦争」である。奈良時代末期の宝亀5(774)年から始まり、38年もの間続いた。名将として名高い坂上田村麻呂によって最終的に鎮圧されたが、平安朝廷はこの乱により、多大な負担を余儀なくされている。

 770(宝亀元)年に即位した第49代・光仁天皇は蝦夷との敵対姿勢をさらに強め、774(宝亀5)年、大伴駿河麻呂おおとものするがまろに蝦夷の征討を命じる。これに対して、蝦夷軍は桃生城に進行。朝廷が桃生城に侵攻した蝦夷を征討したのち、東北全域で蝦夷が一斉に蜂起し、局地戦が行われる。やがて「胆沢いざわ」(現在の岩手県奥州市付近)が蝦夷軍の拠点となったが、この戦乱は、778(宝亀9)年頃には一旦収束する。

 780(宝亀11)年、「伊治郡これはりぐん」(現在の宮城県栗原市付近)に住む蝦夷の首長伊治呰麻呂これはりのあざまろは、最初は朝廷に協力的だった。しかし、突然反旗を翻し、朝廷軍の副将軍であった紀広純きのひろずみらを殺害。それに呼応して「俘囚」(捕虜として朝廷に仕えていた蝦夷)が多賀城を襲撃した。これを「宝亀の乱」と言う。朝廷は藤原小黒麻呂ふじわらのおぐろまろを「征東大将軍」とし、翌年には反乱軍を鎮圧した。

 789(延暦8)年、征東大将軍の紀古佐美きのこさみが大規模な蝦夷征討を開始。蝦夷の拠点である胆沢に攻め込むが、蝦夷軍の大将である「阿弖流爲あてるい」の激しい反撃にあって大敗を喫する。791(延暦10)年には、大伴弟麻呂おおとものおとまろを「征夷大将軍」、坂上田村麻呂らを副将軍として征討軍を編成。794(延暦13)年には、100,000名もの朝廷軍が蝦夷軍を撃破した。801年(延暦20)年、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって遠征し、蝦夷軍に勝利。胆沢を手中に収め、ここに朝廷側の拠点として「胆沢城いさわじょう」を築く。坂上田村麻呂は軍事力で敵を制圧する一方、蝦夷の指導者を説得し、平和裏に和睦を進めていった。802(延暦21)年、阿弖流爲をはじめ蝦夷軍500余名が降伏すると、坂上田村麻呂は東北を平定するためには阿弖流為の力を利用する方が効果的だと考え、阿弖流為を京に連れ帰った。そして朝廷に助命と釈放を嘆願したが、「蝦夷は蛮族」という華夷思想にとらわれた貴族たちは、この嘆願を却下。阿弖流為は処刑されてしまうのだった。翌年の803(延暦22)年、坂上田村麻呂は現在の盛岡市に「志波城しわじょう」を築き、今日の秋田と盛岡を結ぶ線までが朝廷の支配下に入った。

 その後もさらに北上する計画が立てられるが、その頃には平安京の造営と大規模な軍事行動が朝廷の財政を大きく圧迫していたため、805(延暦24)年、桓武天皇は平安京の造営と蝦夷征討の中止を宣言した。単発的な戦闘はその後も続くが、811(弘仁2)年、征夷大将軍の文室綿麻呂ふんやのわたまろが「幣伊村(へいむら)」(岩手県東部)と「|爾薩体村にさったいむら(岩手県東北部)を平定したところで、ついに蝦夷による抵抗が終了する。こうして38年に及んだ戦争は終わり、朝廷は本州・四国・九州の大部分を支配下に収め、中央集権国家としての朝廷が完成したのだ。

 しかしながら、この「38年戦争」が日本社会に及ぼした影響は決して小さくなかった。「治安の悪化」である。38年戦争で敗れた東北の人々は、強制的に日本各地に移住させられた。彼らには、一応の居住地域は与えられたが、その田地は荒れ地であったため、食うに困ることになり、盗賊化したり、ときには蜂起したりもした。そんな彼らの存在は「俘囚」と呼ばれ、人々から恐れられていた。そして、伴因から自衛するために各地で武装する者たちが増えていき、豪族も家人たちに武器を与え、訓練を施すようになる。これがやがて「武家」に発展していくのだ。武家の成り立ちには複数の背景があるが、「38年戦争」も確実にそのうちの一つだといえる。この武装団は38年戦争の影響を強く受けた関東以東に非常に多く、ここが、朝廷にとっては「火薬庫」となった。そして彼らの末裔が、やがて鎌倉幕府のベースとなる「関東武士団」になっていくのであった。

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。