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ひまわり畑の思い出

4月に引っ越しをして、これまで縁もゆかりもなかった岐阜県の大垣市で生活をしている。
「水の都」と行政がPRしているだけあって、新しい家で初めて水を飲んだときに、水道水がとても甘かったことを今でも覚えている。街中に自噴水という地下水が湧き出る場所が点在していて、何の気なしに立ち寄ってごくごく水を飲んでいる。公園の水で生計を立てていた頃の自分が訪れたら、新生活が天国のように思えたかもしれない。

某流行病の余波で二年くらい自宅にいることが多かったので今年は季節を感じることが多い。
大垣は盆地なので、春先に引っ越してきた頃は遠くに聳える伊吹山に雪がかかっていた。バックパッカー時代の「行けばどうにか!」という野生の牛のようなテンションとノリを久々に思い出して、スーツケースに詰め込めるだけの衣類と幾らかの電子機器だけを引き摺って越してきたので、春先は寒暖の激しさに苦しめられた。ようやく新しい生活リズムに慣れた頃に入梅が重なったので、雨雲レーダーが告げる雲の切れ間に目覚まし時計を合わせて、明け方の澄んだ空気を吸い込みながら新居のベランダで大江健三郎の短編集を読み漁っていた日々を朧げながら記憶している。焚き火台とフライパンくらいしか荷物を増やさなかったから、いまだに空っぽな部屋で眠るだけの暮らしを続けている。

夏になって、深夜のひまわり畑に何度か足を運んでいた。ひまわり畑は幹線道路から少し逸れた場所にあり、何ブロックか先に行ったところにはラブホテルがある。都市に住んでいる時にイメージしていた典型的な田舎の風景かもしれない。友達が運転する車の助手席で何度も見てきた通り過ぎるだけのランドスケープだった。

ひまわり畑には決まって深夜に訪れていた。太陽が沈んで羅針を失った花を見ていると、深い海をひたすら泳ぎ続けるような己の日常が相対するように思えたし、両手一杯に抱えた諦念や絶望や孤独が薄まっていくような心地になって束の間の安楽として機能した。携帯のライトで花々を照らして影を作って楽しんだり、一切の明かりを消してその場に座り込んで葉脈を指でなぞったり、車の走行音を静かに聞いて時の経過が生み出す痛みを感じ入っていた。即興でエンターテイメントを開発して一人遊びを繰り返していた。

とりわけ印象深かったのは暑さが翳りを見せた頃にやってきた台風の日のことだ。ざあざあ降りの雨の隙間を縫ってひまわり畑へ行った。確か丑三時だった。葉に付いた水滴を叩いて落としたり、花と花との間を取り留めもなく走り回っているうちに手足が軽くなっていって、黄色い花びらを掠めるようにぞわぞわと動く。踊りといえば踊りだが、際から観察すると暴れているようにしか見えなかったかもしれない。それでも次第にひまわり畑が常夜の楽園のように思えてきた。雑なステップを踏んで、知っている限りの雨の歌を口ずさんでみる。Singin' in the RainとかHave You Ever Seen The Rain?とかA Hard Rain’s A‐Gonna Fallとか。

息を切らしながらひまわり畑で呆然としているうちに、自分が少しずつ歳を重ねていることを思い知らされた。ちょうど数日前に30歳の誕生日を迎えたばかりだった。30代はどんなにニッチでも良いから人類未到に達するために生きようと、しょげた顔したひまわりに勝手に誓って酒飲んで寝た。季節は巡り、不可逆の時の流れと順行しながら今日も最高の一日を生きている。


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