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夢がかすむ時もある。

時々、自分の目指している場所が分からなくなる。

そんな事はありませんか?
私は、たびたびあります。
仕事があって、ご飯を食べられて、帰る家があって、感謝する事ができて、
これ以上、何を望むの?と、家に帰ってだらだらと動画を見ていると、もう何もしなくてもいいんじゃないかと思う事がある。

元々人間って怠け者だし、ちゃんと仕事に行って、自分で稼いだお金で生活しているんだから、十分じゃないかなと思っちゃうと、自分の目指す場所が時々かすむんです。

そうなると、もう、毎日時間を溶かしてしまう。

ちゃんと最初に言っておきたいけれど、それが悪い事だとは少しも思わない。
ちゃんと自分の足で生活をしている人たちの事は心底尊敬しているし、仕事で頑張っている以上、帰ってきたら自分の楽しい事に時間を使う事は少しも、ちーっとも悪くない。

私が話したいのは、いまだに私のように夢に向かって頑張りたいという気持ちがある人の事。
自分が抱いてしまった夢の為に、日常生活で+α頑張らないといけない人の話。

私はまさにそうなんだけれど、夢をずっと捨てる事が出来なかった。
すっぱりと諦める事が出来なかった人間です。
未だにだらだらと夢にしがみついてしまっている。

でも、普通に生活が出来てしまうと、その夢がかすんでしまう時があるんです。

だって、仕事で疲れて帰ってきているのに、これから+αで頑張るなんて、正直しんどい。
このままでも生活できるし、もう、このままでもいいかなぁと思ってしまう。

少し話はそれるけれど、「心」ってなんだと思いますか?
失恋したり、悲しい事があると、胸が本当に痛くなるけれど、そこにあるのは臓器で、心ではないはずなんですよね。
でも、人間の中では「心」というのは共通認識になっている。
実際、胸の痛さも、脳が指令を出しているに過ぎないはずなのに、なぜか頭ではなく、胸が痛いんです。
なんで胸何だろう?「心」って何だろう?って考えた事はありませんか?

私は博士でも、医者でも、研究者ではないけれど、生まれてからずっと、この心と一緒に生きてきて、1つの仮設を立てました。
「心」が本体ではないか?と。

少し前の記事に、全ての物体は素粒子で出来ているという記事を書いたけれど、それは物体の話であって、「心」が何で出来ているかは誰もまだ解明できていないはず。
素粒子はあくまで心を入れる器であって、手も足も目も脳みそも、本体である「心」を守るための入れ物に過ぎない。
だから本体が刺激されると、脳がある頭ではなく、体の中心に守られている本体の心が痛くなる。

素人のただの妄想であるし、なんだか一気にスピリチュアルな話になってしまったけれど、「夢」って心が震えるものなんだと思う。同じ音楽を聴いても、同じ映画を観ても、実際、心の感じ方って人によって全然違う。
同じ映画を観て、号泣する人、何も感じない人、それって別にその人の感受性の問題ではない。本体である「心」が震えたか、震えなかったかの違い。

本体である「心」と呼んでいるものは、言い換えると「魂」になるのかな?
最近の技術では、いくらでも見た目を変える事ができる。憧れの人と同じ顔にすることだって可能になってきた。そんな中で、唯一、自分だと言えるものが心なんじゃないかなと思うんです。

私は、文章を書くのが好きです。
文章を書いて生きていきたい。
でも、この夢がかすんでいる時、書く事すらもめんどくさい。
もうだらだらと動画見て、ゲームして生活したいと思うんだけど、良い文を見たり、脳裏に言葉がひらめくと、どうしようもなく、心が揺り動かされてしまう。

やっかいな自分の本体がいるんです。
だからまた、私が目指す場所を再認識させられてしまう。

ちなみにですが、昔私は、別の夢を追って就職をした事がありました。
苦しい時もあったし、それこそ夢がかすんだ時も何度もあったけれど、それでも目指したかった場所があった。でも、その夢を諦めよう!と自分の中ですぱっと切った事がある。
不思議なもので、本当に自分の中で踏ん切りがつくと、心がそれ以降、揺れ動く事はなかったです。

夢を諦めきれなくて、でも日常生活で満足はしていて、夢がかすんでいる方へ。
最近、心は揺れ動かされましたか?自分の夢に向かい合った時、まだ心は揺れ動きますか?
もし揺れ動かないのであれば、その夢に区切りをつけるタイミングで新たなスタートの予感かもしれない。
揺れ動いた方、まだ諦めるのは早いかもしれない。

+α頑張るのはしんどいけれど、心が揺れ動く方へ、もう少しだけ向かってみようと思う。


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