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「公理系からの演繹」と「事象における因果性」の相違について(草稿以前)

(はじめに、おことわり)
以下に提示するのは、まったく整理されていない草稿以前の混乱した文章です。(※ほかの記事でも似たようなものですが、これは、よりひどいと思います。)ただ、これから、この混乱した文章を吟味して、より、考えを整理していきたいと考えていますので、まずは、混乱したものを、ここに掲載してみようと思います。

(以下、混乱した文章のはじまり)
 公理系から諸命題を演繹(推論)するといった場合、この演繹には、分析的演繹と総合的演繹があると考えられる。
 また、我々が自然界を考察する場合に、利用する理論は、公理系から演繹することができる。
 しかし、利用する理論が演繹の結果で得られることと、自然界で発生している事象の原因と結果、つまりは因果性は、とりあえず異なると考えるべきではないだろうか。
 つまりは、自然界に、演繹されたものはなく、(公理系から演繹されるようなものではなく)、因果性によって支配されている、というとらえ方である。
 しかし、ライフゲームのような、自然界のモデルも存在する。これは、公理系(一定の変換規則と初期状態)から、自然界のモデルが演繹される。ライフゲームでは、諸事象は(より深いレベルでは)演繹されているのであり、因果性が観察されるとしても、演繹されているレベルよりは、浅いレベルにとどまるのではないか。
 そうすると、因果性と我々が呼んでいるものは、経験から帰結されているのみにすぎず、実際の自然界の相互作用を反映していないのではないか。(ヒュームの懐疑)。
 カントにおいて、因果性の認識は、我々の悟性判断の仕組みとして、あらかじめ人間に実装されていることとされている。
 つまり、因果性は、単に経験からの帰結に還元することができないにしても、人間の判断の仕組みとして、相対化されている。
 このため、演繹が、実際の自然界で実行されているにしても、我々が認識するときは、因果性のカテゴリーに則って、それをとらえざるを得ない。(……まだ、全体的に検討中)。

(混乱した文章、とりあえずここまで。)

(追記:吟味して、混乱したものを整理していくための試行)
(疑問1)数学における推論(判断)は、すべて総合的判断なのだろうか?
 カントの「純粋理性批判」では、7+5=12という例が出てくる。7+5を分析してみても、そこに12は含まれない。ゆえに、7+5=12は、総合的判断であるとされる。
 それでは、7+5=5+7という例ではどうだろうか。7+5を分析してみると、そこに、5+7は含まれているだろうか。ここで「+」という加算の演算は、その前後を交換しても成立するということ(演算における交換法則)をあらかじめ、前提しているものとして、とらえてよいのだろうか。交換法則が、非自明であり、そもそも証明を要することであるのならば、それは、「+」(加算)を分析しても出てこないのではないか。
 加算という演算から、交換法則を導き出すこと自体が、総合的判断であるのならば、7+5=5+7は、分析的判断ではありえず、総合的判断ということになる。
 はじめの「数学における推論(判断)は、すべて総合的判断なのだろうか?」という疑問を解決するには、分析的判断であるような数学的推論(すなわち反例)を1つでも見つければよい。反例を見つけることができなければ、消極的に(証明論的に)証明することはできず、積極的に(意味論的に)証明するしかない。

 



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