隣にある深淵と、いくつかの断片
下記の(1)に対する注釈としてのリンク
マルクスの周縁に見た可能性の中心:私の謎 柄谷行人回想録⑫|じんぶん堂 (asahi.com)
(1)商品の価値は、商品に内在していないのと同じように、言葉の意味は、言葉に内在しておらず、同様に、個人のアイデンティティは、個人に内在していない。それらは、交換、または交通の中で、生じる。
下記の(2)に対する注釈とは言えないリンク
最終審級と言説の政治 - a journal of sociology (goo.ne.jp)
(2)最終審級が存在しないと証明できるか。あるいは、存在すると証明できるか。その不可能性について。
無限の立場を前提すれば、これは、神の存在証明、あるいは不在の証明と同値である。
すなわち、これまでに存在も非存在も、その証明はできていない。
下記の(3)に対する(あるいは上記(2)に対する)注釈としてのリンク
哲学、ここだけの話(神とニヒリズム)|Matsui Yoshiyasu (note.com)
(3)もし、絶対の神が存在するとしたら。
絶対の神にとって、国境も、国籍も、伝統文化も関係ない。
絶対の神は、すべてに襲い掛かる。
普遍性とは、そのように、恐ろしいものだ。
(4)有限の立場では、最終審級は構成できないことが証明できる。
私たちは、ひ弱で、病気になりやすく、弱い存在だ。有限の存在とは、そういうものだ。
有限の存在は、なんの根拠も、もつことはできない。深淵の暗がりに、落ち込みかけて、とどまっているだけ。そういうものだ。
(5)たとえば、建築物が、私たちを破壊から保護している。
しかし、災害が襲ってくるかもしれない。
(6)他人との交易をおこなわなければ、一人では生きていけない。そのためには、交易のための信用を作り出すことが必要になる。
沈黙交易の事例は、原始的な段階でも、信用が欠かせないということを示している。
(7)ただ、雑草をむしっても、その行為自体を、楽しむことができる。
(8)深淵に直面している時、それが有限の立場からならば、その深みには、とりあえず、底がない、ということは、言える。無限の立場からならば、底があるのか、それとも、ないのかは、わからないことになる。
(9)この、私が直面している深淵の深みに、最終審級があるのかを考えることは、ちょうど、ブラックホールの中の、特異点について、考えることと似ていることに、気がついた。
(10)私の実存と、隣にある深淵。
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