先住民に問う、真に新しいもの
ここ数年、世界経済フォーラムの会場やプログラムには、アートの要素がふんだんに取り込まれている。どんなにテクノロジーが発展しても、分断、限界、危機といったテーマのやまない世界に行き詰まりを感じるなかで、思考をゆるめ、感性と意識をひらく場が必要とされている。表現は、固有性を写しながらも時空間をつなぐ媒介になる。アートが理論や概念を超えて広く響くメッセージを孕んでいるのは、いつの時代も同じだろう。
スイス山間部の長閑な町で、分野を超えた人々が、火を囲んで語らうようになって50年。規模は拡大し、世界中からどんなに影響力のある人々が集っても、課題は絶えることがない。ここに縁あってつながる人々が、互いに学び合い、共に気づきを深めるなかでひらかれる未来があるだろうか。
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今、世界は先住民の(indigenous)人々に蓄えられた知恵や哲学からの学びを求めている。世界経済フォーラムにも、先住民の人々は重要なステイクホルダーとして招聘されている。伝統的な装束を纏い、身体にペイントを施したブラジル・アマゾンの人々の存在感は、AIソリューションが沸き立つ会場に大きなインパクトを与えていた。
これまでも、彼らの人権を保護し、政策決定のプロセスへ招き入れる取り組みは国連等でも行われてきた。今、あらためて私たちが先住民に出会う背景にあるのは、哲学者マルクス・ガブリエルが示す「真に新しいものとは何か」という問いではないか。
彼は、日本を訪問した際、東京は新しいようで「近代の延長線上」に留まっていると、その印象を語った。ここでいう「近代」とは、多くの断絶のうえに再構築された社会を意味するだろう。真の新しさとは、思考が描く直線的かつ進歩的な発展の先端にある新しさではなく、円環的時間のなかで、今ここにあらわれる懐かしい新しさかもしれない。
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私たちが「自然」を対象として捉えている限り、研究、保護、育成する対象であると同時に、評価し、破壊し、切り捨てる対象となるかもしれない。人間が作るそうした構造をいったん忘れ、自然が自然のままに委ねる時空間へと意識を寄せると、何が "保護" で何が "破壊" か、もはやわからなくなってくる。人間都合の近代社会の構造に、おおいなるものを巻き込むことで、巨大ビジネスに発展するなか多くのフェイクとグリーンウォッシュが生まれた。結果として、本来の自然を追いやってきた現実もある。同じことが、先住民についてもあってはならない。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
芭蕉がそう綴ったように、いつの時代も、すべては永遠の旅にある。先や後を区切る境界はなく、時空を超えて広がるルーツのうえに、だれもが先住民の一員として生きている。
先住民を意味する「indigena」の語源はラテン語の「indigenous(そこに生まれ育った/固有の)」にあたり、 「なかで」を意味する「indu-」と「産む」を意味する「gignere」から成るそうだ。
そこに生まれ育つ、固有のもの。それは、一人ひとりの肉体であり、心であり、そこに私たちは信仰や、霊性、仏性をみる。遠く離れた文化圏の先住民から学ぶことは、私たち自らの先住民性を掘り起こすことかもしれない。耳を傾ける先は、どこでもない私の "indigenous(先住民性)" であり、それは自ずと関わりの中に共有されている。一人ひとりに宿る「先住民性」に、どれだけ立ち戻れるか。円環的な開発(かいほつ)の道で、私たちは真の新しさに再会するだろう。
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世界経済フォーラムは、今年1月、レポート「Faith in Action: Religion and Spirituality in the Polycrisis(信仰ある行い:世界が危機に見舞われるとき、宗教とスピリチュアリティは何が出来るか)」を発表した。
仏教では、人間を有情という。
"indigenous(先住民性)" を問うなかで、私たちが生きるために必要としてきた信仰とスピリチュアリティに、閑かに耳を傾ける時ではないか。
"Spiritual but not religious"な感覚の人が増えています。Post-religion時代、人と社会と宗教のこれからを一緒に考えてみませんか? 活動へのご賛同、応援、ご参加いただけると、とても嬉しいです!