ははにふでトリアゲラーレ

▼中学生の時に学校指定の黒い革靴を描くように美術の課題が出された。

 課題に関係のない落書きをして美術の授業を過ごしたせいで私は家で課題をこなすはめになり、脱ぎたてほやほやの靴を目の前において、水彩絵の具で一心不乱にそれを描いていた。

 すると「さっきからどういう靴を描いてるんや?おまえは」と苛立った声が。美術畑の人間である母が後ろから覗いていたらしい。

 「どういうのって…黒い靴やけど」と返すと、「その靴は足が入ってるのか?足の入っていない靴を描いてるんやろ?なんで足が入ったような、革が張ってる靴描いてるんや?」と詰問が。

 母に言われて目の前の黒い革靴をよくよく観察し直してみる。もしかして陰影が足りなかったのかと思い、慎重に筆を動かし続けていると、今度は「なんでそんな色やねん?」と声が飛んでくる。

 さすがに腹が立ってきて「見えてる通りの色と濃さを塗ってるんや」と言い返すと、「おまえはアホか。よう見とけや!」と吠えた母が私から筆を取り上げた。

 母は絵の具を掴んで赤だの青だの黄だのショッキングピンクだのバシバシとパレットにのせてゆく。無作為のように筆にさまざまな色がつけられ、無軌道に筆が私の描いたものに叩きこまれる。せっかく描いた絵を潰されてしまうことに怒りを覚えるも、母の筆を眺めるしかない。

 ところが。みるみるうちに足が入っていない革が緩んだ黒い靴が出来上がっていった。

 色がいっぱい乗ってるのに強烈に黒い革靴。

 そして、筆の動きと絵に囚われていた眼をモデルに戻して驚いた。母に筆を取り上げられる前には見えていなかった光、影、豊かな黒がそこにあった。

 あんなに見ていたのに見えていなかった。それが絵で見えるようになった。

 興奮して母に讃辞を送ると、「あ、ごめん。さすがにこれはやり過ぎ」と照れ臭そうに母はその絵を破り、私は見えるようになった目で黒い革靴の全てを描きなおした。母は家事に戻り、二度と私の作業を覗きにこなかった。

▼最近のあいちトリエンナーレの騒動では「表現の自由」以外に「芸術とは何か」というテーマで様々な意見をあちこちで目にする。

 日頃はあまり芸術に親しんでいないような人々もいっしょになって「あんなの芸術じゃない」「それもアートだ」と、ツイッターでも賑やかなものである。

 私はここ(note)で、あいちトリエンナーレで物議を醸した作品についてどうこう述べる気は無い。「芸術とは何か」についても同様。

そして私は現代アートの大半が嫌いである。

 ただ、どうしても今回の騒動を見ていて考えてしまうのは、「芸術と呼ばれるもの」にたくさん触れてきた人たち・「芸術と呼ばれるもの」に価値観をザックリと刺される体験をしたことがある人たち・「芸術と呼ばれるもの」を好き嫌いとは別に芸術の文脈で読み取ろうと思えば読み取ることができる人たちと、そうではない人たちとの間では、見え方に差があって、騒ぎ方に違いもあるのではないだろうかということなのだ。

 あいちトリエンナーレや物議を醸したいくつかの作品に対する讃辞と批判、どちらがどうという話しではなく。

▼大いに感情を揺さぶられるのが「芸術と呼ばれるもの」の醍醐味であり、その作品のどういう部分に対してその感情が起きたのか正解などないのだから、政治思想が理由の絶賛も激昂もかまわない。

 ただね。

 激昂しながら「あれは芸術じゃない」と言い切っている人たち。
 あなた方が結局は価値観を刺されて感情を思いっきり揺さぶられてしまっていること、そして現にあれを芸術として取り扱う人たちがいること。
これらが合わさって、アレをますます芸術たらしめているのかもしれないのを考えてみ…

…なくても、まあいっか(´・ω・`)

考えない人も考える人も日頃から芸術に親しんでる人もそうでない人も、ネット通じて大勢で芸術ネタに大騒ぎできる機会なんてめったにありゃしない。楽しいね。

 ついでに、こんな騒動で、特に若い人が芸術に強い興味を持つようになって、この国の美術の教養レベルを上げていってくれたらいいね。

(´・ω・`)おまいらもっとドンチャン騒げ

 いろんな色を叩き込んで、見えなかったものを一緒に見よう。