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パラレルライン「5」

 新緑の頂きにまだ雫が残る季節、ぼくは愛車のハーレーで少しだけ北を目指した。一般道から高速道路に入り、後は道なりに進んで行く。この季節のバイクは最高に気持ちが良い。新しく宿した命の香りが、夏を迎える前の風を連れて、肌にその息吹を感じさせる。
 
 この一ヶ月ほど岩瀬から連絡はなかった。じめじめした季節だ。電線を見上げることも出来なかっただろう。ぼくは携帯のディスプレイを毎日確認しては閉じた。彼女から連絡があれば誘うつもりでいた。誘うことも出来たがぼくはそれをしなかった。次の休日、この街はとてもよく晴れ渡った。
 
 四季が彩り、自然と風がひかり渡るこの街を、ぼくは毎年この季節に訪れる。当時気の合っていたガールフレンドがホタルを見たいと言い出したからだ。
 インターネットで検索して日帰りでホタルを観賞できること、条件が揃う場所は思ったより少なく、行き先は直ぐに決まった。
「仕方ない。行くか」
 そう言って、ぼくはガールフレンドをハーレーの後ろに乗せた。途中、サービスエリアで休憩を入れる。ご当地牛乳ソフトを食べたあとは、休憩なしで目的地を目指す。
 
 いまでこそ景勝地ではあるが、遡れば山岳信仰の聖地でもあり、その雄大さや自然環境に畏怖、畏敬の念を抱いたに違いない。泰平の世が訪れたあとは神社仏閣が建立され多くの参拝路が整備された。物見遊山で賑わうようになったのはこの頃からだ。明治時代に入ると、富国強兵のもと海外からの渡航が多くなり現在のこの街の基盤が造られた。
 
 川沿いの大きな駐車場にバイクを止めてぼくたちは表参道へ向かう。石鳥居を跨いで御本社を目指した。何百年も前にこれほど複雑な建物や、彫刻を造り上げたことに驚きを隠せなかったことを大人になって初めて感じた。
「彫刻家は形を想像しながら削るのではなくて、その中に埋まっているものを掘り出すんだ」
 どこかで聞いた知識を披露する。
「じゃあこれを造った人も木の中に仁王がいることが分かってたのかな?」
 彼女は笑顔でぼくに言った。
「そうかもしれないね」
 東回廊の入り口で「この猫もね」と彼女が指差して、約二百段ほどある一枚岩の階段を進み奥宮を目指した。杉の大樹が風で揺れる度に、空を見上げては昔の人も同じ風景を見ていたのだろうと、息を切らしながら少しだけ休憩をした。最後の階段、鳥居の前に狛犬が二匹いた。左の狛犬だけ角が生えていて、なんだか面白くて二人して笑った。二礼、二拍手、一礼をして参拝を済ませた時に彼女が思い出したように「わたしもいいこと知ってるんだ」そう言って中央の宝塔を横目で流しながら、ぼくは手を引かれた。
 
 願いが叶う御神木にはたくさんの人だかりがあり「ここはいいや」と彼女は足早になる。もうここには興味がないようだった。久しぶりにこの場所を訪れたので、ゆっくりと歴史を感じていたかったが、彼女にとってはホタルを観ることが一番の目的なわけだ。要するに、こう言うところは二の次なのだろう。今一番興味がある場所を目指す。だいたい女は感情で動く生き物だ。先ほど登った階段をぼくの手を引いて下る。彼女は飛び切りの笑顔で一声上げる。
「目的地は石の鳥居だ」
 そう言って、四百年の歴史をわずか二十分足らずの堪能だった。なんとも罰当たりだ。観光客の歴史好きなおじいちゃんに「どうしてそんなに急いでるんだい?c」と引き止められ、この建物は云々と長々説明してくれないかと思いながら、実際にはガイドに説明されている団体の一人にアイコンタクトを送ったのだが、もちろん伝わるはずもなく過ぎていった。
 
 ぼくは少しだけ後ろ髪を引かれながらも、それ以上に彼女が目指した場所に興味を持った。石鳥居を今度は反対側から跨ぎ中央の敷石を指した。
 それは長方形の石で右斜め半分の色がやや濃くなっていた。湿度が高くなるとその半分が濃くなるらしい。すると不思議なことに、雨がすぐそこまで来ているという。つまりは不思議石だ。この日はくっきりと境目を確認することができた。ぼくの中でこの濃さが基準になったわけだが、そもそも比較することはできないし、どうなんだろう? と彼女と顔を合わせてみたが、そんな知識はもちろんなく、もしかしてと笑った。  
 
 毎年この季節に訪れるが、雨が降ったのは彼女と初めて来たこの日だけだった。
 バイクでそこから更に奥にある湖の畔に向かい、彼女の作ったサンドイッチを食べて市街を目指した。先ほどまでの天気が嘘のように突然雨が降り出して途中コンビニで雨宿りをした。不満げに彼女は「これじゃあホタル見れないね」と言い、ぼくは「ホタルどころか帰れそうもないよ」と雨に向かって吐き出した。
 携帯で駅前にあるホテルの予約を取り雨の中バイクを飛ばした。夜になっても雨は止むことなく、ガラス窓に映る滲んだ外の光が、なんだか悲しそうに泣いているように思えた。
「不思議石のせいだ」そう言って彼女は眠った。
 翌日は雲一つない空が遠くまで広がり「また今度ホタル観に来よう」とぼくは言った。
 
 翌年、二人乗り用のシーシーバーを外して身軽になった愛車は思った以上にスピードが出た。サービスエリアで牛乳ソフトを食べて、また同じ川沿いの場所にバイクを止める。不思議石を見るために石鳥居へ向かう。境目は去年より薄かった。ぼくは微笑み、それ以上奥へは進まなかった。そのあとは、山の神が争いを繰り広げた伝説がある湿原を目指した。もともとは堰止湖だった場所に、土砂や火山灰が積もり、葦などの植物が堆積して陸地化したらしいが、詳しいことはよく知らない。
 
 去年行けなかったホタルを観ることのできる公園に向かい、園内を適当に散歩して池の近くに腰掛けホタルを待つ。これがここ数年変わらない道筋だ。
 レザージャケットのジッパーを首元まで上げた日もあった。長袖シャツ一枚の日もあった。世界は機嫌一つでぼくを困らせた。毎年、あの石を見て天気を予測した。なのに不思議と雨は降らなかった。そのおかげか、澄んだ夜空にホタルはきれいに飛んでいた。
 
  今年は例年になくよく晴れた。日中はTシャツ一枚でも汗ばむほど、気温が上がる予報だが、帰りのことを考えると長袖シャツを着た。それに早朝はまだ少しだけ肌寒いこともあった。
 昨日の夜まで岩瀬を誘うか迷っていた。あのホタルを一緒に見たいと思った。でもそれ以上に関係を深めていいのか自問自答した。ぼくたちはどこか違う世界に住んでいて、肉体を媒体にして言葉を交わすけれど、精神は何万光年も離れた星と星のように遠い気がしてならなかった。それは高木秋人と岩瀬智子の関係だからなのかもしれないと思った。
 
 ヘルメットを手に取り、先日手入れをしたシーシーバーを置いて家を出る。アクセルを握る。早朝の高速道路はまだ眠りに就いて、このあと休む暇なく働かされる彼の躯をぼくは颯爽と走り抜ける。寝息は優しく肌にひんやりと過ぎ、たまに寝返りに煽られハンドルを強く握る。景色は足早に去る。
 
 お昼過ぎにいつもの駐車場に着いた。表参道から石鳥居を目指す。十段の緩やかな石段を登り不思議石を見た。薄い境目だ。この分だと今年も雨は降らないだろうと、いつもと同じように微笑み顔を上げて石鳥居を眺めると、見慣れているはずのそれは、なんだかいつもより大きく力強く見えた。木や石や大気、それらを構成する原子一つ一つが呼吸をして、ぼくを見ている様な気がして、左右の大きな杉は空と地面に境界を創り出し空に続く参道のように、その始まりの敷石に座る。人の呼吸は聞こえない。聞こえるのは、ぼくと地球の呼吸だけだ。
 
 大気は圧縮され雲を連れ去り、杉は自らの重みでゆらゆらと動き、わずかばかりの雫を降らせた。雫はぼくの頬を滴り敷石に深く沁み込む。風は冷たかった。そのままぼくは地球と時間を過ごした。
 
 陽はいつの間にか沈み、ぼくの街では眺めることのできない、星たちがいた。頭蓋に投影したやわらかな星は、新しく一つ一つ意識の中、鮮明に浸透する。ぼくは重い水面の空を抜け、もう一つの空に近づいていた。すると、ぽつりぽつりと無数の星たちが、ぼくの隣りまで降りてきた。
 
 初めは、ぼくを警戒してか、近づいては遠くへ流れた。やがて星たちは、地球の呼吸に合わせて、誘われるようにぼくの元にやってきた。掌でそっとその星を包み込むと、星は掌からするりと抜け出しゆらゆら流れる。すると驚くほどゆっくりと星たちは上昇を始める。地球の呼吸に合わせゆっくりと、ゆっくりと。ぼくはこのとき確かに空を流れた。星たちの流れに誘われ、世界の中心になったように流れる。遠く離れた星でさえも、手を伸ばせば届きそうだった。

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