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VOL.1 漠然とした転職への『関心』

42歳、社会人としての成人式

 自分が、転職に関心を漠然と抱きだしたのは、40歳を過ぎた頃であった。
正直、管理職として”それなり”の仕事を任され、収入面や周りの上司や仲間にも恵まれ”それなり”の満足感を持ちながら日々を過ごしていた。
一方で、この先も大丈夫なのかな?この会社で定年まで勤め上げてもいいのかな?という漠然とした不安と慣れからくる変な安心感も感じていた。
 おそらく、同じような気持ちを抱きながらも、家族や周りの環境、転職がうまくいかなかった場合のリスクを考え、思いとどまり、いくばくかの不安と心の奥底からの充足感に満たされない”我慢”の日々を送る人もいるのではないか。
 社会人となって20年、おおよそ社会人としての「成年式」を迎えた年、
人生100年時代と言っても、健康年齢でもおおよそ80歳くらいと想定すれば、まさしく折り返し地点、悩んで自分を見つめなおして当然だと思う。
そんな自分が、転職への関心を抱いたのは、身近な出来事からであった。

父の他界

 42歳の年に、父が病気のため84歳の年で亡くなった。年開け早々に。ガンの進行とこれまで幾度もあった病気のため、長くはないとわかっていたが、実際に肉親が亡くなることは本当に辛い。
ふと、気づいたのが父の年の半分の年齢に自分がなっていること。
自分も仮に父の年齢まで生きていたら、折り返しの地点にあること。
 父は、42歳の年には会社を経営し、社長として家族だけでなく従業員の生活含めて背負い、大変な思いをしながらも覚悟を決めて仕事に取り組んでいることは、何も言わなくてもその背中から幼い自分も理解できていた。
自分は、父のような立派な大人なのか、これまで自分は何をやってきたのか後半戦で父を少しでも超えられるのか…
 漠然とした思いとともに、自分自身を同じ年の父とを重ね合わせながら
見つめなしていた。

ありたい姿、避けたい姿

 そんな父の他界による喪失感の中であったからか、自分の将来像を考える上で対局な姿を一層鮮明に感じてしまう。
 父が亡くなる半年ほど前から、自分が中心となって取りまとめていた業務改革に関わるプロジェクト。当然、業務改革は変化に対応するために必要であり、パワーのかかる大変な役割である。自分も、明るい未来を信じて必死に取り組んでいた。当然スタート時は味方は少数、周りは傍観者、評論家、抵抗勢力が多数。しかし、抵抗するのはまだまし。なぜなら意思があるから。意思なく風見鶏のように動き、上層部の反応を見て態度を変えるのは
質が悪い。困ったもんだが、必ずいるのが世の常(笑)
 一方で、直接関係しない部署ながらも手を差し伸べてくれる人々もいる。最後は、胆力をもった役員が絶賛し、風向きが急変。風見鶏たちも雪崩を
打つように態度を急変。ビジネスの世界では、「あるある」なことであり
珍しくない。
 しかし、父の他界直後でもあったからか、日常的な風景であるはずの対極にある姿が鮮明に映ってしまい、10年後の自分は直接関係なくても手を差し伸べる姿でいたい、でも「就社」した「ゼネラリスト」である以上、風見鶏の要素もとりいれなきゃいけないのかも…といった釈然としない気持ちも
沸き上がってしまう。父の他界で感じた自分の人生の後半戦への気持ちと、
時を同じくして交錯し、本当に自分のありたい姿を実現するためにはどうするべきか悩み始めた。

きっかけは偶然のようで必然

 きっかけは、ふとしたタイミングからかもしれないが、出会った事象で
感じ取れるかどうかは、心の奥底にしまっていたものがあるかどうかであり、関心を呼び起こすために背中を押してくれたという必然かもしれない。
転職をした今だからわかることは、”それなり”という言葉を用いて成長や
挑戦という意欲を自分で押さえつけていたのではないか、意欲を押さえつけるとともに、慣れ親しんだ世界から飛び出るのを、ただただ怯えていただけなのかもしれない。自分は外では通用するのかと… そうこう悩み、一歩も踏み出さないことで、時間とともに退化していくのではないかと。 
 結局、全ては自分が成長や挑戦を避けるための言い訳でしかなかったと
今となれば思うが、家族や周りのことを考え、慎重になってしまうのは当然と言えば当然の思考であることも理解できる。
 転職がすべての解決策と言うつもりはない。その時点では、自分も関心はあるが、転職という選択をするとは正直1%も思っていなかった。
 しかし、自分を押さえつけることからくる「挑戦する意欲の退化」が怖くなり、当時は、自分を見つめなおすことと選択肢の一つとして、漠然と転職を考え始めたにすぎなかった。

*** 次回に続く ***

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