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昭和きもの愛好会インタビュー2.絞り職人・池崎愛二さん

池崎愛二さんについて
池崎愛二さんは厳密に言うと職人ではありません。彼は絞りを専門とする会社に入社し、仕事の発注や段取り、技術指導を主な業務としてきました。いわば「絞りのプロデューサー」としての立ち位置で、戦後の絞り業界を見てこられた方です。

池崎氏は1948年生まれ岡山県出身で、18歳のとき京都市内にある絞りの会社に就職しました。最初の仕事は「職まわり」でした。「職まわり」とは、仕事が分業になっている京都の着物製造業界で、いろいろな業者さんを回ることです。生地を持って行って絵をつけてもらい、仕上がったものを染め屋に盛っていくなどの仕事でした。
会社に住み込み、食事つきで当時の月給は17000円でした。2021年の現在ですと17万円くらいでしょうか。会社は28歳にならないと社外に住めない決まりになっていました。結婚もその年齢まですることができませんでした。
会社を出て自宅を構えている社員は「別家(べっけ)」と呼ばれていました。住み込み社員の監視のため、この別家の人が交代で会社に泊まります。ある時池崎さんが別家の人のために布団を敷くと、大変立腹されました。布団が北枕だったそうです。

絞りという仕事
そうこうして勤めているうちに、仕事の要領がわかってきます。工程の初めから終わりまで理解するのに、約10年くらいかかったそうです。
よく覚えていることは、ある工芸展に出品された絞りの振袖に600万円の値段がついていたことです。「自分は月給17000円なのにすごい」と思って見ていると、お祖母さんに連れられてきた17歳くらいの娘が「私、これ買う」と言ったそうです。
「お母さんに相談せんでもええんか?」
「これ欲しいねん」
ということでその場で購入を決めたこの娘は、大阪のさる大店の娘だったということです。
今ですと6000万円くらいの価格でしょうか。

池崎氏によると、絞りは多くの工程が入るので、その工程ごとに原価を計算すると、10万円以下というものはなかったそうです。 
「絞りはお金がないとできません」と彼は言います。着物の加工の中で、一番時間とお金がかかるのが絞りであるそうです。友禅染などと比較して、多額の先行投資が必要になります。 
生地を買い、絞り加工に出しても戻ってくるのは3から4年後です。また、解くときに生地に穴があくこともあるので、それも計算に入れて発注しなければなりません。

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力士のために特注された絞りの帯(池崎氏所蔵)

国外へ指導に
会社の先輩が辞めて部がかわると、「韓国にいってくれ」と言われました。      1980年(昭和55年)から 1988年(昭和63年)のソウルオリンピックの頃までです。韓国で10年近く絞りの技術指導をしました。その後勤務先が廃業になりましたが、海外での指導は続きました。
次は中国に指導に行くことになりました。中国では現地にあった会社に雇われました。当時は泊まるホテルも先方が決め、20時になるとが外出禁止でした。中国との国交樹立は1978年(昭和53年)で、なぜ国交樹立からすぐに着物製造の発注ができたかというと、当時の着物業界の重鎮が周恩来と同窓生であったからだということです。

国外で絞りの生産を指導して、一番困ったことは「水が違う」ということです。日本でするのと同じようにしても思う色がでません。現地で見て、綺麗に染まっていると思って出来上がったものを送ると、すぐにクレームが来ます。その調整で大変苦労があったそうです。また、布地に絞る場所を表示する「青花液」が、天然のものだと消えませんが、合成のものだと数年すると消えるのです。内職の人が絞る場所がわからないまま適当に絞りをし、柄がゆがんだりということもあり、「目が離せなかったです」ということでした。

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絞り加工をする前の綸子生地。絞る部分に印がつけられている。

日本人の手から離れる絞り
国内の生産でも内職として絞り加工を行っていたのは、在日韓国人の人たちでした。韓国に絞りを発注することは、実は戦前からあったそうです。名古屋の業者が日本による統治下の時代(1910年から1945年)に生産を依頼していたということです。
この発注が本式に始まったのは1963年(昭和38年)頃からです。絞りの工程全般を現地で行うようになりました。韓国で安く生産ができたおかげで、それまで「高価なもの」と思われていた絞りを安く供給することができました。
思えば大島紬も同じ経緯をたどっています。韓国で生産された大島紬は、奄美や鹿児島産のものと比較して色が薄いので判別ができます。染料の違いもあるでしょうが、池崎氏が言われるように、水の違いもあって国内生産のような泥染の色が出ないのだと思われます。

天平時代から営々と作られ、その華やかさ・豪華さゆえに度々奢侈禁止令が出た絞りも、日本人の手を離れて生産が行われるようになったのです。この頃、もしくはそれ以前から、多くの製品が海外で生産され、メイド・イン・ジャパンでなくなってゆきました。着物も他の工業製品と同じ道筋をたどったということなのでしょう。

似内惠子(一般社団法人昭和きもの愛好会理事)
(この原稿の著作権は昭和きもの愛好会に属します。無断転載を禁じます)

【関連動画】
昭和きもの愛好会 京絞りの魅力ー技術編ー https://youtu.be/5dEgHSG_ua0

【関連サイト】
https://showakimono.jimdofree.com/ 昭和きもの愛好会HP
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