見出し画像

はま寿司の回らない寿司を眺めながらメディアについて考えた

はま寿司にて、画面の寿司を選びながら俺の好きそうなものが勝手に出てこないかななどと考えた。

ここ数年の回転寿司は回転しない。選んだ寿司がレールに乗って運ばれてくる。今思えば回っていてもタッチパネルから選んだ寿司を新しく作って持ってきてもらっていた。そんな中現れた回らない回転寿司は、廃棄を抑え、無駄な労働を抑えた最適解だった。

回る回転寿司はもはやディスプレイと化していた。当時の回転寿司というのは、目の前を去っていく寿司を見て新しく作ってもらった寿司を買うというウィンドウショッピングだった。
ただ、回る寿司が消えてから気付いた。回る寿司はディスプレイであり、体験であり、エンターテインメントであった。そこには最適化よりも人の心をくすぐるエモさがあったと思うのだ。



ここ半年、広告やホームページなどを主体とするWeb戦略やブランディングの仕事をしている。広告を考える中で、メディアをターゲットまでリーチさせるためにはおおよそ2種類のパターンがある。

1つが、単純に自らメディアを探すパターン。Google検索やYouTubeでワード検索するなど、能動的にメディアを探すという行動パターンだ。

もう1つが、自然に目に入るところに置いてあるパターン。探すことなく目に入るという意味である。街中の広告看板やポスター、WebサービスやSNS中に出てくる広告、Googleのリスティング広告などだ。

最近のメディアは、後者に力を入れることが多い。看板が廃れてきて自ら検索するという時代が訪れたが、再びネット上で看板を掲げる時代になった。さらに、コンピュータの性能と学習の発展により、個々に最適化し、年齡や性別、最近検索した内容などから興味のありそうな広告を表示するようになった。探さずとも広告の方から目に入ってくるのが今の時代だ。


寿司の話に戻る。自分の食べたい寿司を検索するのは難しい。自らに「もしもし自分よ、今お前は何が食べたいんだ?」と聞いても、だいたい同じものしか食べたいと答えない。青魚好きな僕は鯵と鯖、鰯、あと烏賊くらいを食べると腹は減っていても選ぶものがなくなる。なぜなら、今の回転寿司は自ら寿司を探さねばならないからだ。

流れている寿司は、画面の寿司よりも食べたいという欲をそそらせる。リアルな寿司はバーチャルの寿司よりも情報量が多いからだ。五感を刺激し、我々の目の前で回るというエンターテインメントさえも提供していた。回る寿司とは広告だったのだ。ターゲティングしてない無作為に流れる寿司たちは、僕らが自ら選べないはずの寿司を食わせていたこともあるのだ。それが、時に美味い!と言わせるものもあれば、時にハズレることもあっただろうが、能動的には出会えない偶然な味や香りを僕らに与えていたのかもしれない。

残念ながら、僕は今の回転寿司は(美味しいけれど)あまり楽しいとは言えない。食いたいものを食ったところで想像ができて偶然がない。自ら選択したものしか手に入らないのでは楽しみもない。良くも悪くも必然の寿司であり、必然の美味しさなのだ。
(100円の寿司にこれ以上求めるなというのは正論であるから否定はしない。)

しかしそう考えると、次の時代の回転寿司は、偶然の出会いがある寿司なのかもしれない。バーチャルなメディアがリアルの寿司の情報量を超えた世界となり、魚が泳ぎ、寿司の映像が回るかもしれない。能動的な検索の時代から、再び非能動的な広告の時代が来る。それはネットの世界に留まらず、寿司でも同じではないだろうか。


#メディア #寿司 #広告

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?