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エッセイ「涙もいずれ」

今日、父が近所の喫茶店で開催される夏をテーマにした写真イベントの写真を私が今まで撮影した写真の中から1枚選べと話をして印刷し額に入れてくれた。食卓の「壁掛け扇風機のソーシャルディスタンス」をとって飾られた二枚の作品は個性こそ違うものの、お互いの競い合ったり認め合ったりする心を持たせてくれた気がしました。

ゆっくりと食事を済ませて、自室でいつもはスマートフォンをいじりなんとなく時間を過ごして早めに寝て何となく過ごし眠りにつくのですが、久しぶりにハービー・山口さんのフォトエッセイ集「HOPEー2020-変わらない日常と明日への言葉」を目と心で再読と…なんと表現するべきか。

タイトルの通り2020年、コロナ禍を軸としたフォトエッセイ集なのですが私個人の心の栄養になります。

私は、本当は昔から父の撮る「写真」が大嫌いでした。癇癪持ちのわたしを丸め込むように父が母をもっと丸め込み、家族3人(兄はとっくに自立して働いていたので)と犬一匹であちらの山から、こちらの川へ。オイシイものや綺麗な景色…をそっちのけで誰よりもファインダーを覗き山河をシャッターチャンスを虎視眈々と狙う父。そして、何より旅先で出会った人たちを撮影し、自室に籠りパソコンで編集する…。そんな姿をもう20年近く見てきていました。

私も10代半ばに差し掛かり、思春期になるとため込んでいた負の感情が連鎖や爆発してしまい私はツギハギだらけで自分を大きく良く見せたい虚像をみんなの前で演じていたのだと思います。本音を押し殺して父と対話をすることをどこかで避けていたのかもしれません。

ハービーさんの写真は私の心の中には、本当に淡いようなでもはっきりとした意志を持った聡明だけど二面性を写真のなんたるやである「光と影」で大胆かつ繊細に表現されていて、ご自身の存在を自分自身と未来を切り取られているようで、もちろん売れっ子でそんなことは表現できないのだと思いますが辛い病との付き合い、もちろん私とは生きてきた人生経験や写真のキャリアは全く違うし私がこれから写真を辞めることだってあります。

父との思い出の中で、どうしても物理的に手に入らなくなってしまった1枚の写真があります。
当時住んでいた団地の家族同士の付き合いで6つ上の兄と、団地の仲間に置いてけぼりにされてみんなに泣くことで力いっぱい存在証明をしている当時5歳くらいの私の写真を父が写した写真。どこにでもある写真のはずなのに母も「あの写真は傑作」とその記憶だけで会話に花が咲くこともあります。

当時5歳の涙も35歳の涙、それぞれ涙の意味合いは違ったとしても今日はパソコンで作業のし過ぎでお尻のほっぺたが痛いと嘆く…いつの間にかおじいちゃんになる年齢だけど誰よりも1日の大きさと、未来に向かいどこでも眠りにつける忍者のような姿をみていたら涙もいずれ…笑いが韻を踏むような笑顔になる!

ちょっと、こっぱずかしい長い長い独り言に付き合っていただいてありがとうございました。


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