見出し画像

近藤勇がサムライとして潔く散った話

いまはむかし、近藤勇という剣術の達人がいた。幕末に活躍した新選組の局長だった人である。

徳川将軍家への忠義を至上とした彼は、傷を負いながらも最後まで剣をふるい続けた。斬って斬って斬りまくった挙句政府軍の手に落ち、処刑場へ送られ、間際に「死に顔くらいはさわやかにしとうござる」と言って無精ひげを剃ってもらい、すっきりした表情で首を斬られた。

最後の願いは、ヒゲを剃ってほしいー。そこには、「武士らしく、美しく散りたい」という彼の思いが凝縮されている。


近藤はもともと、武士ではなかった。武蔵国の多摩の出身で、家は百姓だった。幼いころから父に「武士となれ」といわれて育った勇少年は、鍬ではなく木刀を手にもち、ひたすら剣の腕を磨く日々を送る。大きくなるにつれ、武士へのあこがれも膨らんでいった。

勇のなみなみならぬ剣の腕前は、剣客・近藤周助の目にとまった。彼は勇を近藤家の養子に迎えた。主君を持たぬ浪人とはいえ、勇は武士の身分となったのである。

ときは動乱の幕末。ペリーの黒船が現れて幕府に開国をせまり、江戸は恐慌に包まれていた。一方、京の都は尊王攘夷の気風がみなぎり、身分を問わず国家天下が論じられている。勇は歯がゆかった。志あるものがみな、国難に向かって自らの思いをかたちにしているのに、自分はひとり多摩の田舎でくすぶっている。何とかしてこの剣術を国のために使う方法はないものか。勇は葛藤した。

そんな勇にも、ついに始動する日が訪れた。上洛する将軍家茂の身辺警護を名目に、幕府が近在の浪士を募集するというのである。勇は奮い立った。

いま、京は荒れている。天誅と称して幕臣を切り捨てる尊王攘夷派であふれ、殺人・テロが白昼堂々行われるほどである。徳川幕府を、将軍家をお守りするために、今こそ自分の剣が使われるときだ。勇は仲間たちとともに、血の匂いが立ち込める華の都に飛び込んでいった。

京に着くや、勇はだまされたことに気が付く。浪士募集というのは、尊王攘夷派の画策だった。清河八郎という剣士が倒幕の組織を結成するために幕府をたぶらかし、集合をかけたのである。

勇は激怒した。清河のこのようなやり方はとても武士とはいえず、信義にもとる。清河の誘いを断り、勇ら一行は浪士組織を脱退した。

こうして京に残った勇たちだが、行く当てなどない。そこへ運よく会津藩に拾われ、藩主松平容保のお抱えとなる。勇らは会津藩の庇護下で働くことになり、そこで京都を警護する「新選組」が結成された。

新選組の職務は、京都の治安維持であった。幕臣や幕府よりの公家、浪士の命を狙う危険分子を取り締まる警察業務である。

会津藩といえば、3代将軍家光の異母弟・保科正之が藩祖だったことから、幕府への忠誠がどこよりも強い藩であった。会津藩のために働くということは、将軍家のために働くことを意味する。勇からすれば、たいへん名誉なことだった。

京では、水色の法被を着た集団による苛烈な取り締まりがはじまった。そして、あの有色な事件が起こるのである。新撰組の名を一躍とどろかせた「池田屋事件」である。

新選組が三条小橋西詰の旅籠・池田屋で謀略を企む長州藩浪士と大立ち回りを演じた事件だが、とりわけ局長・勇の奮迅ぶりはすさまじかった。

長州藩の浪士がひそかに集まり、謀議を重ねている。そんなきな臭い情報をかぎ取った新選組は、幾隊かに分かれて市中を探索した。時期は6月、八坂神社の祭礼が行われていたときで、祇園囃子が街のいたるところで鳴り響く。そんなにぎやかな街の絵も、いまに一変して阿鼻叫喚の図に塗り替わるかもしれない。勇のなかで緊張が走る。むせるような暑さに汗ばみながら、しらみつぶしに旅籠をあたっていく。時刻は夜の10時を迎えようとしていた。

「ここに、いる」

勇がそう思って足を止めたのは、鴨川と高瀬川が合流する橋詰にある、池田屋の前だった。二階の明かりのむこうでかすかな人影をつかんだ勇は、意を決した。すぐ隊士たちに配置の命令をし、自分は表口からなかへ入っていった。応対に出た主人は、勇の尋問に色を変え、二階に向け叫んだ。「ご用が来ました」。

「逃すか」狭い急な階段を一気にかけあがった勇は、部屋の前に立つと力強く言い放った。

「ご用改めである。手向かうものは切って捨てる」

やおら立ち上がり剣を手にした浪士たちの集団に、勇は奮然と突っ込んでいく。勇の豪剣がかまいたちのごとく無軌道に、自在に、鋭く切り込む。あるものは血しぶきをあげて倒れ、あるのものはたまらず窓から飛び降りた。勇の白鉢巻きが、返り血で染まっていく。二階の浪士連中をことごとく仕留め、場所を一階に移しても、勇の独壇場は変わらなかった。

長州浪士たちを血祭りにあげた新選組一行は、堂々と胸をはって詰め所へ引き上げていった。京の町は変わらず祇園囃子が鳴りやまない。時代を揺るがすような大事件が起きても、都は悠然と構えて時を運んでいた。二千年来つづく光景である。


池田屋事件以降も、新選組は幕府方の切り込み隊として活躍し、京の地で確固たる地位を築いていた。勇はその局長としての働きぶりが認められ、見廻り組与頭格を任ぜられた。旗本になったのだ。

旗本は将軍に謁見が認められる直参で、いわば将軍直系の武士の格を意味する。勇の主君は、他でもない徳川家将軍である。武士として、これほど名誉なことはなかった。勇はまさに絶頂期を迎えていた。

「武士になれ」そう父に言われて剣術をはじめてからかなりの歳月が流れたが、まさかここまでくるとは、本人も思わなかったかもしれない。

ただ、時代の流れは大きく変わろうとしていた。勇の意識下では厳然と存在する封建制の身分制度は、音を立てて崩れ落ちようとしていた。

その現実を突きつけられる日がやってきた。15代将軍徳川慶喜が、突如、政権を朝廷に返すと宣言したのである。大政奉還である。

これまで幕府に忠誠を誓ってきた武士たちにとって、この動きは驚天動地だった。勇もこれには大きく動揺した。それでも、幕府に忠誠を誓う誠の精神は勇のなかで不動だった。時代の流れにあえて逆らい、自身の信じる道を貫き通す。それでこそ武士だという自覚が勇のなかで強固に存在したのである。

しかし天は勇を見放したのか、その熱情を打ち砕くような事件が起きる。京の道を乗馬して移動中、鉄砲で狙撃されたのだ。撃った相手は元新選組の隊士であった。命に別状はないものの、右肩をやられ、勇は剣を振るえない体になってしまった。

剣士としては終わっても、忠義の心は死なない。

鳥羽伏見の戦いを制した新政府軍は、いよいよ江戸へ向けて進発した。勇は、甲府城に兵を集めて敵を迎え撃つ作戦を幕府に提案し、認められた。これをもって新選組は「甲陽鎮撫隊」と名を改めた。

反乱軍が箱根山を越えて中山道を突き進み、いよいよ武蔵まで迫ってくるとなれば、甲府山に軍を集結して迎え撃つー。これは徳川幕府の開祖・家康公が考えていた構想である。甲府城はそのために築城された防衛の砦であった。

勇の案は、いわば東照大権現の意を汲んだものであり、すなわちそれもまた忠義の表れであった。が、家康の戦略をいまの時代に採用すること自体、戦国時代の遺物を引っ張り出すことに等しかった。

いまの戦で勝敗を分けるのは城ではなく、軍艦であった。持つべきものは刀ではなく、砲弾であった。勇の士気は旺盛なれど、時勢眼が決定的に欠けている面は否めない。近代武装された政府軍と甲府で激突するも、一敗地にまみれ、勇は江戸へ退却した。

剣一本でわたり抜いたサムライの一生は、燃え尽きようとしていた。

少数の隊を率いて千葉の流山まで出陣した先、政府軍に包囲された。勇はとくに抵抗するでもなく、おとなしく縄にかかった。そのとき勇は名前を変えていたが、人相を改めると新選組局長近藤勇であることはすぐに判った。攘夷浪士たちを震え上がらせた新選組を束ねた男。池田屋襲撃でみせた鬼気迫るすごみは、もはやどこにもなかった。

新選組局長の斬首は、公開のもと行われることになった。処刑直前に、伸びすぎたヒゲを剃らせてほしいと頼む。その願いは聞き入れられた。すっぱりとさわやかな表情で、近藤勇は白刃の前に首を差し出した。武士の時代の最後に花を咲かせて散った、35年の生涯だった。



近藤勇は自分の人生を忠実に生きた男だった。時代の激流にあって、その歩みは流れに逆らうものだったかもしれない。鋭敏でなかったがゆえに歴史の敗者となったかもしれない。ただそれは、信じる道を時代の流れに任せて曲げることをしなかった、信念の証でもある。近藤勇が残した精神は、とうとうとつづく歴史の奔流の底で玉のように輝いている。


#歴史 #新選組 #近藤勇

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?