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言葉は、便利な記号じゃない

「『イケメン』という言葉は、あまり使わないようにしている」

そんなテーマで昔、ブログを書いたことがある。

『イケメン』を避ける理由は、別に自分が非イケメンだから、というものじゃない。物書きの端くれとして、少し思うところがあったからだ。

そのブログは、だいたいこんな要旨で書いた。

「『イケメンホスト』というコピーに違和感をもった。『ホストはイケメンに決まっているでしょ?美しい美女って言ってるようなもんじゃん』世の中、カッコいい面構えした男を“イケメン”という記号でひとくくりにしすぎだ。確かにこのワードは非常に便利で使い勝手がよい。が、便利なあまり何も考えず記号みたいに使ってしまっては、言葉の力を失ってしまう」

手元に原文がないから記憶を頼りに書いてみたが、このような要旨だったと思う。

本来、人の顔は十人十色だし、見栄えのよい顔立ちをしていてもそれぞれ個性があるもの。中東人のように彫りの深い顔だったり、化粧したみたいに眉目麗しい顔立ちだったり、精巧にパーツが整った何かの作り物みたいな顔だったり。『イケメン』で単一化してしまうと、せっかくの個性も影に隠れてしまうきらいがある。

この『イケメン』に代表される、世間に流布しすぎて記号のように使われる言葉に対して、ぼくは警戒心をもつようにしている。だから積極的に使おうとはあまり思わない。

その線でいえば、昨今気になる言葉に『エモい』がある。

「このコラム、めっちゃエモい」みたいな使われ方で、主に何かオシャレ感を出した感情表現ないしレトリックに対して使われている印象だ。

Wikipediaから言葉の意味を引用してみよう。

エモいは、英語の「emotional」を由来とした、「感情が動かされた状態」「感情が高まって強く訴えかける心の動き」などを意味する日本語の形容詞。感情が揺さぶられたときや、気持ちをストレートに表現できないとき、「哀愁を帯びた様」などに用いられる。また、現代若者に使われる用語である 。

この定義だと、北島康介の「何もいえねえ!」とか、小泉純一郎の「感動した!!!」なども『エモい』状態を表現したようにみえるが、そこで使う言葉ではないだろう。

実際には、自分の心の状態を表すより、文章だったり曲だったりイラストだったりといった、表現物のなかに感情を動かすものを見出したとき、批評として使われているという認識が、ぼくのなかではある。

イケメンは意味がはっきりしているから誤用のおそれはない(好みの相違による評価分かれは別として)。この『エモい』は、人それぞれ定義が存在して、使うルールも人それぞれではなかろうか。

しかも、イケメンは顔というゆるぎない事物が対象なのに対し、『エモい』は目に見えない感情の動きを表すもので、共有するのが簡単ではない。心の微妙な動きなんて、人それぞれ違うのだから。けれど、「これエモい」「いやエモくないよ」みたいな論議は起こりえるのだろうか、とも思う。

ここまで書いて気づいたのは、「『エモい』って、『情緒がある』と同じ?」だということ。

感情の機微を感じ取れるような何かに接したとき、「情緒がある」「情緒的」などというけど、この表現の親戚にみえなくもない。エモーショナルを原義とする『エモい』は、もっと感情をゆさぶられたときに使うのかもしれないが、ふたつの言葉には何か通底するものを感じる。

しかし、情緒という言葉は『エモい』ほど使われない。それもそのはずで、情緒的なものであふれるほど、世の中は単純にできていないのだ。では、なぜ『エモい』ものがあふれ返っているような感覚におちいるほど、この言葉は流布しているのだろうか? 

それは単純に、語感のよさに尽きる、といえなくないか?

言葉はえてして、その意味より言いやすさや響きが先行してしまう傾向がある。一般に、カタカナ語は漢字より軽やかで語感の響きもよい。オシャレ感もある。だから記号化もしやすくて広まるときは一気に広まる。

『イケメン』『エモい』みたいな語感勝ちした言葉は、おそらく無数に存在するだろう。知らず知らずのうちに日常会話やテキストに侵食して、思考を単一化してしまうパワーがある。だからこそ、世間でやたら使われる言葉には少し疑って、なるべく使わないようにするくらいがちょうどよいのだ。


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