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幕末「強運」を演出した人物⑤中浜万次郎

中浜(ジョン)万次郎
絶望の遭難劇から奇跡の救出。異国で文明教育を受け功臣へと飛翔する

通信機器もなければ航海術も未熟だった時代、はるか洋上の孤島に漂着する状況がどれほど絶望的か。現代では想像を絶するものがあるだろう。「ジョンマン」こと中浜万次郎は、通りかかった異国船に助けられ絶望の状況から生還を果たす。それだけではない。異国で高度な文明教育を受け、頭角を現した彼は、理不尽な階級社会のハンディをはねのけ一介の漁師から幕臣へと昇りつめる。柔軟な吸収力と順応性、好学の精神、そして類まれな運が異例ずくめの出世街道を演出した。

1841年(天保12年)の1月、土佐国中の浜に住む万次郎は、いつものように他人の持船に乗ってその年の初漁に出た。万次郎14歳のときである。船には船頭の伝蔵ほか数名の乗組があった。

この船が足摺岬の沖30kmほどの海上に出たところ、波が逆巻くほどの強風に見舞われ、船はみるみる東南の方向へ流された。風と雨が増す中、船の制御がとれず流れるままに任せてたどり着いたのは、足摺岬から海上760キロ南に浮かぶ無人島、鳥島であった。万次郎たちはここで約半年間、口にするのは生のアホウドリと雨水だけという苛酷な無人島生活を送ることになる。

鳥島に漂着して143日後、幸運にも通りかかったアメリカの捕鯨船「ジョン=ハウランド号」に救助され、急死に一生を得る。同じく土佐の漁師で鳥島に漂着し、10年以上の長きにわたって無人島生活を強いられた野村長平と比べると、この巡り合わせは僥倖だった。

救助されたとはいえ、このときの日本は鎖国状態。おいそれと日本の港に近づくことはできなかった。日本人が異人と接触しただけでも厳しく罰せられた時代である。万次郎たちはしばらく捕鯨船のお世話になることになった。航海中に何度か捕鯨が行なわれ、万次郎も帆柱に登って鯨を発見するなどの手柄を立てる。利発で物怖じせず、活発に働く万次郎のことを、船長のホイットフィールドはいたく気に入るようになっていた。

親切な船長が何から何まで世話を焼いてくれたおかげで、漂流者たちはしばらくハワイに居住することになった。ただ、万次郎だけはアメリカへ連れていきたいという。船長はこの少年の並々ならぬ才を見抜き、アメリカで専門的な教育を受けさせたいというのである。当時の日本人が学問の進んだアメリカに留学するなど、どんな優秀な人材でも不可能なことだった。万次郎にとっては願ってもない話で、快く船長の申し出を受け入れることにした。船長は万次郎のことを「ジョンマン」と呼んでかわいがるようになった。「ジョン」とは、捕鯨船「ジョン=ハウランド号」からとったものである。

捕鯨の旅を経て、1844年、ジョン=ハウランド号はマサチューセッツ州ヌウ・ベットホールド港に入港した。万次郎の捕鯨の腕はこのときすでに一流と評されるほどだった。

日本人として初めてアメリカ本土に足を踏み入れた万次郎は、ホイットフィールドの計らいで学校に通い、言語や測量、算術などを学ぶ。アメリカにわたるまで読み書きもできないレベルだった万次郎の学力は、高等教育を受けたことで、どこに出しても恥ずかしくない学問の徒に成長した。

秀でる者が身分に関係なく評価されるアメリカは居心地がよく、日本にない新鮮さと開放感、高度な文明の雰囲気があった。周囲もみな万次郎を愛してくれて、申し分ない環境といっていい。その一方で、望郷の念は断ちがたく、日本へ帰りたい思いは消えなかった。捕鯨の航海に出た先で和船に出くわし、たまらず飛び移ろうかと思ったこともある。万次郎は捕鯨に従事しながら、帰国の機会をうかがっていた。

そんな焦慮の思いを募らせていた万次郎に吉報が届く。カリフォルニアで無尽蔵に金塊が発掘された「ゴールドラッシュ」である。これで帰国資金を蓄えられるー。胸を躍らせた万次はカリフォルニアへ飛んだ。

カリフォルニアで金山鉱夫として働くも、健康を害したせいで稼ぎは1ヵ月程度にしか達しなかった。それでも若干量の金塊の収益もあったので、万次郎はその足でハワイへ向かい、伝蔵たちを誘って帰国の計画を立てることにした。

1850年、上海へ向かう貿易船が出ることを知った万次郎は、乗船を願い出て許可をもらう。この貿易船に短艇を積み入れ、琉球付近まで近づいたところで単独航行を試みる計画である。この計画を知った現地の知人がいろいろ世話を焼き、寄付までしてくれた。さらには、ホイットフィールド船長の友人で牧師のデーモン氏が、新聞広告を出しくれたおかげで広く市民から義援金が集まり、足りなかった帰国資金の調達にも成功する。多くの知己の協力と善意を得て、万次郎たちは1851年(嘉永4年)念願の帰国を果たす。

琉球本島に漂着した万次郎たちを待っていたのは、薩摩の役人によるあきれるほど念入りな取り調べだった。そこで長期にわたって拘束された後、薩摩に護送された。当時の薩摩藩主は名君の誉れ高い島津斉彬である。斉彬は万次郎たちを召し出し、米国の国情についてさまざまな下問を行なう。万次郎は臆することなく米国の政治・文化・国民性について例を出しながら語った。その優秀さと明晰ぶりは斉彬の中で鮮烈な印象を与えたに違いない。

薩摩藩や長崎奉行で長期の取り調べを受けた後、万次郎はようやく母が待つ土佐の実家に帰ることを許された。1852年、漂流から11年後のことである。翌年の1853年(嘉永6年)、ペリー率いる東インド艦隊が浦賀に来航する。幕府はアメリカとの間で外交・安全保障の問題を抱えることになった。英語が堪能で西洋事情に明るい人材登用が急務となったのである。これに該当する人物は米国留学経験を持つ万次郎をおいて他になかった。

万次郎を取り立てたのは、島津斉彬と昵懇だった幕閣の阿部正弘だった。阿部は島津斉彬から万次郎の有能さを聞いて登用を決めたのではないか。いくら万次郎が有能といっても、彼は僻地の漁村で育った一介の漁師に過ぎず、政治上の大きな働きかけがないと厳格な身分制度の掟を破った人事は難しかったと思われる。とまれ万次郎はこうして一躍旗本へと昇りつめたのである。

幕臣として万次郎がこなした数々の仕事は、いずれも新生日本の基礎となるべき重要なものばかりだったと言ってよい。藩校英語教授、軍艦操練所教授方として有為な人材の指導と育成にあたった。1860年(万延元年)には遣米使節船に随行した咸臨丸の通訳として乗り組む。航海術にも通じていた彼は事実上の船長として活躍した。

帰国後も小笠原諸島調査、土佐藩開誠館教授、開成学校中博士、普仏戦争視察などに従事。辞官後は北海道捕鯨会社社長を務め悲願だった捕鯨の道に打ち込む。1877年(明治10年)以降は第一線から離れ、1898年(明治32年)71歳で没した。大きな不運に見舞われながらもたくましい精神と底知れない人間力が強運を引き寄せ、刺激的でドラマチックな生涯へと導いたのである。

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