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【東日本大震災9年】神道と原発─「アンダー・コントロール」の思想を疑う─

 東日本大震災より9年。そしてまた、震災による福島第一原子力発電所の事故から9年となる。
 私たちは、原発は危険かつ電力供給の点からも不必要であり、高レベル放射性廃棄物の処理も不安定であり、万一の事故の際の事態収束が困難であることなど、少なくとも日本において未確立・未成立の技術と考えている。また、原発の背景にある、安倍首相が五輪招致の場で原発事故について言った「アンダー・コントロール」の言葉に象徴されるような、人智の絶対を過信し自然の力を畏れぬ思想は、私たちの神道信仰と相容れるものではない。
 安倍政権は原発輸出をアベノミクスの成長戦略の主要な柱と位置づけているが、トルコや英国での原発事業からの日本企業の撤退も相次いでいる。昨年第4四半期のGDPのマイナス成長もあり、もはやアベノミクスなるものが安倍政権の黒歴史となりつつある今、原発輸出も根本的に見直すべきだ。
 「神苑の決意」第6号(平成29年4月1日)では、「神道と原発─『アンダー・コントロール』の思想を疑う」と題して、神道信仰から原発をどのように考えるべきか、一つの試論として論じた。神道と科学技術の発展はけして矛盾するものではない。しかし、人間が自然を完全に統御できるというような盲信に基づく原発とその背後にある技術信仰は、非神道的な思想といわざるをえない。それでは私たちは原発とどのように向き合うべきなのだろうか──。
 以下、「神道と原発─『アンダー・コントロール』の思想を疑う─」を転載する。いささか古い記事であり、また粗も目立つが、事の本質は何も変わっておらず、今でもそれなりに通用するものと思う。なお、本文中の年月日などはすべて当時(平成29年)のものである。

はじめに  

 東日本大震災より、先月11日で6年を迎えた。震災による死者・行方不明者は1万8千人を超える。近時、類例を見ない大災害であった。全ての犠牲者に心から哀悼の意を表したい。
 震災犠牲者の死因は、約9割が溺死といわれている。震災による大津波が招いたものであることは、想像に難くない。  
 津波は、さらに三陸沖の原子力発電所を襲い、東京電力福島第一原子力発電所は、全電源喪失に陥った。これにより格納容器の圧力が上昇し、水素爆発やメルトダウンあるいはメルトスルーという悪夢のような事態を招き、大規模な放射能汚染が発生したのである。  

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無残な姿となった福島第一原子力発電所の建屋

 原発事故により福島第一原発付近の地域には避難指示が発令され、地域はゴーストタウンとなっていった。除染作業や復旧作業が行われ、少しずつ住民の帰還も進められているが、多くの地域はいまだ帰宅困難区域や居住制限区域となっている。あの日、着の身着のままで故郷を追われた人々の身の上を思うと、居た堪れないものがある。  
 さらに考えるべきは、人々と共にあった地域の神社やそこに鎮まる神々のことである。避難指示が出され人々が故郷を追われ、神社の神々は毎日のお供えや祭を受けることも困難となった。神々の荒びを思わずにはいられない。神道家は、こうした点からも自身の信仰を前提として原発事故を総括していかなければならないはずだ。

核の平和利用論と神道  

 昭和30年に開催された宗教世界会議において、神社本庁は原水爆禁止の議案を提出したが、議案は同時に、核の平和利用の推進を求めている。  
 核の平和利用とは、端的にいえば原子力発電のことである。原子力を用いた発電は、大規模かつ安定的にエネルギーを得られ、エネルギー不足の終戦後にあって、「夢のエネルギー」ともいわれた。原発の設置には最先端の科学技術が動員され、原発はいわば戦後復興と発展の象徴でもあった。  
 神道は、けして科学技術の発展と使用を否定するものではない。神道においては、存在を機能=霊的な「働き」とも捉えるから、そうした機能を活用することは、宗教的に矛盾するものではない。それゆえ高次の霊的な働きとして人間が自然に手を加え、存在の機能・働きを活用すること、つまり科学技術の発展や使用は肯定されるが、それらは「自ずからなる生命のありように反しない限り」という留保がつく。  
 人間は直接に神ではないが、神の生みの子であるというのが神道の思想である。そうした人間には自ら事を成し遂げる力が与えられているが、全知全能の神がいないように、人間は全てを自らの力で成し得ることはできない。 同時に神は自然の生命的本質が顕現した存在であるから、自然を物質と見たり、自然の運行を因果・法則と考えるのは神道的ではなく、神道においては、自然の生命的本質が顕現する「自ずからなるあり方」が尊重された。そして、神と自然と人間に本質的な差異を見ないのが神道である。  
 その意味において、人間は「自ずからなるあり方」を超えない限りにおいて事を成し遂げるべきであり、有限な存在として自覚のもと、そして自然と一体のものとして、自然への畏怖や慎みが人間には求められる。しかし原発とその背後にある技術信仰には、それがなかった 。
 原発とその背後にある技術信仰を象徴する言葉が、五輪招致にて安倍晋三首相がいった「アンダー・コントロール」である。安倍首相は「原発事故は収束しつつあり、廃炉作業も進み、さらなる放射能汚染の拡大はない」という文脈で「アンダー・コントロール」の言葉を使ったが、原子力に携わる研究者たちは「原発事故は絶対に起きない」といい続けた。そこには、科学そして人間は自然を完全に制御できるという思い上がり、つまり、安倍首相の言葉を借りれば「アンダー・コントロール」できるという技術信仰が存在する。この思想には、自然への畏怖や慎みをが存在しない。  

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 五輪招致でアンダー・コントロールと言い放った安倍首相

 原発はウランなど存在の「自ずからなるあり方」を活用したともいえる。しかし、その存在には「自ずからなるあり方」として、恐るべき惨禍を招く可能性も有していた。原発とその背後にある技術信仰には、その「自ずからなるあり方」を「アンダー・コントロール」したという盲信があった。こうした盲信や自然への畏怖と慎みの欠如、「自ずからなるあり方」への違背は、神道の立場から容認できない。原発と技術信仰は、神道的立場と異なるものなのだ。

全原発廃炉は可能か  

 当然、原発をなくせばエネルギー不足となるという心配もあるだろう。しかし、現在稼働中の原発はわずか3基である。そして、大飯原発の稼働停止から約2年間は、1基も原発は稼働していなかったのだ。  
 そもそも、原発自体が発電出力の調整が難しいため、夜間電力のために発電されているものだということは、あまり知られていない。朝から昼にかけて電力需要はピークに達するが、原発はそのために出力を増加させるといったことはできない。そのため、1日のうち電力需要が最低となる夜間電力にあわせて発電し、それ以上の電力需要は火力や水力あるいは再生可能エネルギーが賄っているのである。原発は本当に必要なのだろうか、という疑問が湧くのは当然である。  
 東日本大震災は原発事故のみならず、津波対策などでも「アンダー・コントロール」の思想へ根本的な疑問符をつきつけた。無論、諦観や無為無策はまた神道的発想と異なる。自然を制御できないからといって、何もしなくていいというわけではない。震災犠牲者を心から悼み、事を為す力ある人間が自然と共にどう生きていくか、いまこそ考えていくべきだ。

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